絶罪殺機アンタゴニアス #14
生きたままピン止めされた黒い蝶。
ソレの全身を目の当たりにしたとき、男の脳裏にはそのような言葉が浮かんでいた。
実際には、蝶とは似ても似つかぬ姿だったが、その在りようをそれなりに正しく言い表せているという確信があった。
ソレは人に似ていたし、昆虫にも似ていた。あるいは竜にも。
片膝をついた姿勢でうずくまっていたが、それでも男の百倍以上の体高があった。
人型に生育した樹木に巨大な昆虫の外骨格が装着されているような姿だ。
脚は長く、関節が人間よりも多い。踵が浮き上がり、爬虫類めいた三本指の脚へとつながっていた。
胴体の脇腹には半透明の脂肪塊が十数個、左右対称に実っている。その中で何かが動いていたが、朦朧とする意識ではよく見えなかった。
男は、ぼんやりと歩みを進める。足元の床が滑らかにせり上がり、ソレの胸部へと続く階段となった。
腹部にはぽっかりと穴が開き、さまざまな色の臓物が剥き出しとなっている。汁気はなく、干からびていた。
肩には黒く分厚い甲殻が装着されており、そこから堅い管のようなものが多数伸びていた。何かの排出口だろうか?
腕は猿めいて長く、前腕部には葉脈めいたものの通った刃状の甲殻が装着されていた。その内側には、二つの関節によって折り畳まれた腕が収まっている。つまり、伸ばせばさらに長くなるということか。
目の前に迫った胸部は黒い甲殻で覆われ、剣の切っ先めいて張り出した突起物がある。
男は上を見上げた。
頭部と胴体は頸以外にもさまざまな管でつながっている。人間のものと比べると、ずいぶん長い首だ。その先端には、竜に似た頭部があった。顔の両側に七対の眼、とおぼしき器官が見える。それだけで男の体より何倍も大きな眼球が、空虚な光を湛えていた。口は縦に割れ、中から舌のような口吻のようなよくわからないものが覗いている。
そして――男は戦慄する。
黒い甲殻に覆われていない部分。古びた樹木にも、干からびたミイラにも見える表皮には、無数の円と図形が重なり合って紡がれる極めて精密な宗教的装飾がびっしりと施されていた。
――人工物、なのか。
だとしたら、いったいどのようなテクノロジーが、こんなものを作り出すことを可能とするのか。人の何百倍もの巨躯をもち、全身すべてに精緻で荘厳な彫刻を施す。それはどのような心境の産物なのか。どれほどの執念と狂気の結晶だというのか。
あまりにもグロテスクな美しさ。
「神、なのか……?」
かすれた声が出る。
その声に反応したわけでもないだろうが、胸甲にわずかな隙間が発生し、そこから圧縮された空気か吹き出てきた。やがて装甲がぱくりと開き、ぬらりと粘液にまみれた腔腸動物の捕食口めいたものが露わになった。無数の触手と襞が蠢くそこに、男は嫌悪を覚えてしかるべきだったが、なぜか心は落ち着きはじめていた。
匂いが、したから。
古い匂い。世界がメタルセルに浸食されず、ありのままの姿であった太古の空気。草木を揺らす薫風の匂い。道端に咲く徒花の匂い。夕日を浴びて黄金色に輝く稲穂の匂い。一度も嗅いだことがないはずなのに、すぐにわかった。そういう匂いが、この捕食口の中には満ちていたのだ。
静かな理解が生ずる。
この奇怪な巨人は、神代の技術の産物なのだと。かつて「自然」と呼ばれるものに囲まれて生きた、最後の人々の思いの結晶なのだと。
やがて、触手と襞をかき分けて、黒い無機質な棺が押し出されてきた。紫紺の文字で、何かが書かれている。現代でも一部が使われている、「イングリッシュ」とよばれる神秘的な古代言語だ。
「Anta……gonias……」
意味はわからぬなりに、乏しい知識を動員して読み上げる。
すると、棺の蓋ががひとりでに開き、中を男の前にさらした。
痩せこけた子供が、横たわっていた。くすんだ灰色の髪に、今にも手折れそうな細い手足。患者服をまとい、全身にたくさんの管が挿入されている。
天使めいた容貌の息子とは似ても似つかぬ。まるで犬の胎児の死骸を思わせる少年だった。
閉ざされていた瞼が、震えた。
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