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空の あの青さは この胸に 残るだろうか
誰かが自分の頬に触れている。
ミルクを溶かし込んだような、なめらかな肌触りの指先。
触れるか触れないかの力で撫でてゆく。
それがすこしくすぐったくて、フィンはゆっくりと目を開けた。
目尻から、雫が垂れてゆくのを感じ、自己嫌悪に襲われる。
――ダメだ。こんなことでは、ははうえはいつまでたっても笑ってくれない。
なんて不孝だろう。本当にもう、これきりにしないと。
そう決意した瞬間、優しく涙を拭われた。
「あ……」
そちらに目を向けると、ぼんやり光る碧眼が、少し哀しげにこちらを見ていた。
プラチナブロンドの髪が、白磁のようになめらかな肩から滑り落ちる。
「シャーリィ、殿下……」
まだ夢でも見ているのではないかと思ってしまうほど美しい人が、フィンの枕元に腰掛けていた。
深い神秘を湛えた眼が軽く見開かれ、それから包み込むように微笑んだ。
そこで、また泣いてしまったのみならずこの人に涙をまた見られたことに気づき、フィンは咄嗟に布団をひっ被った。
「……泣いてないであります」
声なき声が、かすかにくすりと笑った。
布団がめくられ、耳元に唇が寄せられる。
――からだ、だいじょうぶ?
顔は布団で隠したまま、こくりとフィンは頷いた。
本当はそうでもないのだが、それを彼女に言ったところで余計な心配をかけるだけである。
その時、ぐぎゅぅ、とお腹が鳴った。
そういえば、元の世界で錬成レーションを食べて以来何も口にしていなかった。
――なにかもってきてあげる。
そう囁き声を残して、シャーリィ殿下は立ち上が……りかけて、再び耳元に唇を寄せてきた。
――フィンくんって、きらいなもの、ある?
「よ、よくわかんないであります……」
セツの大義に身命を捧ぐ軍人にとって、食事とは栄養を摂って戦える状態をキープするための軍事活動であり、好きとか嫌いとかそういうことではないのだ。だから嫌いなもの、と問われても答えられない。
――じゃあ、とりあえずスープからね?
そう囁き残し、エルフの姫君はぽてぽてと部屋から出て行った。
途端に、大気が冷たくなったような気がして、フィンは少し心細くなる。
部屋を見回す。
巨樹の中に形成された、円形の空間だ。角はなく、床と天井の境目がなめらかな曲線を描いている。木目模様はグラデーションを描くように濃度が変化していた。つまりここは巨樹の中心ではなく、同じ高さに他にも部屋があるようだ。
フィンが寝ているのは、床の一部が長方形に隆起した部分だった。視線を巡らせると、丸テーブルと腰掛けと思しき隆起もあった。上には、緑に染められたテーブルクロスがかかっている。
――森の好意によって、住居はひとりでに育ってゆきます。これもまた、古の聖約に基づく加護の一端です
リーネの言葉を思い出す。エルフたちは、森と親密な関係を築いているようだ。樹が自分で部屋や家具を形成するなんて、不思議に素敵だなぁ、と思った。
そして――ふと、視界の端を、目が覚めるような鮮やかな色彩がかすめていった。
「え……?」
一瞬、それが何なのかわからず、フィンはそちらを凝視する。
壁の一部が、蒼い。
「んん……?」
いや、違う。壁にぽっかりと穴が開いており、その向こうの光景が見えているのだ。
そこまで理解が及んでも、あの蒼いものがなんなのか、よくわからなかった。
寝台から出る。トレンチコートと野戦服の上着は脱がされていた。ぺたりと素足が床に触れる。心地よい冷たさ。
すこしフラつく体を持て余しながら、窓に一歩ずつ近づいてゆく。
そして、息を呑んだ。
知識としてしか知らなかった光景が、目の前に広がっていた。
蒼く、遠い、無限の広がり。
胸が透くような、爽やかな風が吹いた。揺れる木々の梢の狭間から、白みがかった碧天が覗く。
――青空。
かつて、フィンの世界も、空は青かったという。図鑑でその事実を知るしかなかった。虚空が青く染まっているということがよく理解できず、正直な所半信半疑だったのだが――目の前に広がるその圧倒的な空気感は、少年の心を震わせた。
神秘と畏敬を抱かせるシャーリィ殿下の瞳とは異なり、どこまでも晴れやかな浅葱色。
窓枠に手をかけ、フィンは口を開けてその壮大な天の色彩に見入った。
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