かいぶつのうまれたひ #16
「これからずっと、お前の近くにいることしたぴょん」
「す、諏訪原くん……っ? えっと、あの、本当に、どうしたの……?」
「そして毎日こうしてお前を見ることにしたぴょん」
「ま、毎日……?」
「うむ、毎日だぴょん」
ざわり、と。
周囲の空気が一変した。
喧しいニイニイゼミの鳴き声が、フッと消え去った。
花の香りが、涼しい風に乗って漂い始める。
早朝とはいえ汗ばむほどの気温だったのが、なぜか今は心地よい適温だ。
辺りの草木が、その枝葉の先で一斉に蕾を膨らませ、母を求める赤ん坊の手のように開花し始めた。早回しの映像じみた光景であった。
空を染める桜の並木。
地を彩る菜の花の絨毯。
ぽつぽつと控えめに灯る、タンポポやカタクリ、雪割草。
霧沙希藍浬を中心に、色彩豊かな世界が広がってゆく。温かく、ぼやけて、にじんだ世界。
奇妙なことに、遠くの山々や隣の小学校などは、夏の風景のままだ。異変は、彼女の周りに限定されている。
まるで、彼女の中で折りたたまれ静止していた春の時間が、一気に展開したかのように。
――これは……どうしたことだ……?
「からかわないでよ、もう……」
藍浬は、自分の両頬に手を当てて、拗ねたような、怒っているような、輝いているような、微妙な眼を向けてきた。
それから、藍浬は逃げるように駈け出した。
「あ、こら、待つぴょん」
遠ざかってゆく足音。
ともなって、急激に春の世界が閉じていった。
気温が上がり、セミの声が響き渡り、花々は最初からなかったかのように閉じていった。
幻惑的な春の色彩は、強い日差しを吸い込んだ深緑へと戻ってゆく。
夏の時間が、戻ってくる。
「ふぅむ」
篤は顎に手を当てて考える。
しかし約十秒の熟考の末わかったことといえば「考えてもわからない」ということだけだった。
と、その時。
「むっ……!?」
地面が、揺れ始めた。視界が軽くかき混ぜられる。草木がざわめき、ちらほらと葉が落ちてゆく。
不安を煽る、その律動。
だが、持続したのはほんの五秒ほどだった。ほどなく地震は収まり、常態を取り戻す。
「……うーむ」
とりあえず、藍浬を追いかけることにした。
●
「にゃふー、それじゃあ今度こそ諏訪原クンをブッ殺しにいってきますニャン」
タグトゥマダークは、相変わらず頭にタンポポ咲いていそうな笑顔で言った。
「いってらっしゃいませお兄さま。せいぜい失敗しないようにお気をつけ下さいね」
夢月が玄関先まで見送りに出てきてくれた。なかなかに珍しいことである。
「うん、がんばるニャン!」
――結局、ネコ耳について出来ることは、現時点では存在しないらしい。
ヴェステルダークが『禁龍峡』を見つけてどうにかするまでは、このまま語尾に「ニャン」をつけるという死にたくなるような生活を強いられるようだ。
タグトゥマダークは、息を吐きながら昨晩のことを思い出す。
帰ってきた射美には笑われるし撫でられるしプラスチックの猫じゃらしで遊ばれるし、ディルギスダークには「現代医学の敗北」とか「オタ文化への主体なき追従」とか「フィギュア萌え族」とかひどい言葉を散りばめた陰鬱なマシンガントークで精神的に追い詰められるしで、何度死のうと思ったことか。
しかしそれでも、最終的には気分が落ち着いた。
なんつってもヴェステルダークに任せておけばいずれ解決する問題なのだ。わりかし気は軽い。
「あぁ、でも私は正直心配ですわ……」
「ははは、夢月ちゃんは心配性だニャア。でもうれしいニャン」
夢月は頬に手を当てて、憂いに満ちた目を伏せる。
「お兄さまは道中でシオカメウズムシに捕食されないかしら……」
「どうしてそこでゾウリムシ扱いされなきゃならないのか全然わかんないニャン!」
「捕食されればいいのに……」
「願望になった!?」
夢月はそこで小さな肩をすくめた。
「はぁ、それでは戦に臨むにあたっての重要なアドバイスをひとつ」
「うん! うん!」
「首級が見苦しくなるので口は閉じておきなさい」
「うわぁい! 夢月ちゃんは本当に心づかいが細やかだニャア! 死にたい! 死のう!」
「それから……」
不意に、夢月は歩み寄ってくる。
「ん?」
「はい、これ」
手渡されたのは、神社で売ってそうなお守りであった。
「買いましたわ。安物ですが、身につけておいてくださいませ」
「あの、うれしいんだけど、これ交通安全のお守りだよね……?」
「あら、安産祈願のほうが良かったかしら?」
「何を生ませるつもりなの!?」
ひしっと。
唐突に、夢月はタグトゥマダークの胸元にしがみついた。
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」
「……うん」
「夢月を一人にしないでくださいね」
「うん、大丈夫だニャ」
両腕で、そのあまりに小さな肩を包み込んだ。
温かかった。