絶罪殺機アンタゴニアス #15
無垢なる深淵が、男を見た。
男もまた暗く沈んだ視線を向けた。
無言のまま、何かを交わし合った。
「……お前は、誰だ? 何だ?」
《声紋登録――完了。以降当機はあなたの声に従います。導き手よ、作戦目標を設定してください》
また老人とも子供とも男とも女ともつかぬ声がしたが、男には意味がほとんどわからなかった。
ただ、黙して少年の目を見続けていた。
少年は、こちらを見返しながら軽く首を傾げた。透き通った、濁り果てた、その瞳。
幼くありながら、老いたまなざし。
「お前は、神代の人間か? 地上に生きていたのか?」
《発言意味不明。導き手よ、作戦目標を設定してください》
「この声は、お前が喋っているのか? 悪いが言葉は通じないよう……だ……」
ぐらりと、視界が傾ぐ。血を流しすぎた。もはや限界か。
《導き手の脈拍と血圧の低下を確認。まもなく生命の維持に最低限必要な閾値を下回ります。早急な措置を推奨します》
男はその場に崩れ落ち、浅い呼吸を繰り返した。意識が遠ざかるのが分かった。
少年が棺桶からゆっくりと身を起こした。体の動かし方を思い出そうとするような、たどたどしい所作だった。そうして管の何本かを引き千切りながら、棺桶のふちから身を乗り出してこちらを見下ろしてきた。
男は、口の端を吊り上げた。
「なんだ……心配してくれているのか……? 会ったばかりだろうに、妙なやつ、だな……」
その場に身を横たえ、アーチ状の梁が複雑に交錯する遥かな天井をぼんやりと見やる。
思い起こす。何も守れず、何も成せず、ただただ無意味だった自らの生を。
冷たい涙が、目の端から伝っていった。
「……俺は……何だったんだろうな……何の、ために……」
愛していた。守りたかった。あの二人のためならば、命など惜しくはなかった。その気持ちは誓って嘘ではない。
嘘ではない、はずなのに。
気が付くと、病衣の子供は男のもとへと這い寄ってきていた。足腰が立たないのだろう。
頭の横で崩れ落ちるように座り込み、不思議な奥行きのある瞳で見つめてくる。まるで、男の全存在を記憶に収めようとするように。
こうしてみると、本当に小さい。十にも届いていないだろう。四肢から血を垂らしている。管を外すときに傷ついたか。
「坊主……お前は……俺のような……大人には……なるな……」
だが――胸は不思議と温かかった。誰かに看取られるというのが、これほど救いになるとは思わなかった。
「……お前、この巨人を、操れるのか……? だったら、なぁ、ちょっと頼みを聞いてくれないか……」
滔々と流れる涙は、もう冷たくはなかった。
「……俺は……馬鹿でよ……どうすれば良かったのか……どうすれば、もう少しマシな結末に至れたのか……今でも、まるでわからない……」
昔を思い出す。どうして銃機勁道を極めようとしたのか。どうしてそこまで力を追い求めたのか。
「……変えたかったんだ……誰もが苦しみ……誰もが耐え忍び……なのに上から下まで誰一人として幸福になれない……そんな世界を……」
目が霞む。もう長くないことが分かった。
――あぁ。
ようやく気付く。
自分はきっと。
自分はずっと。
誰かに、弱音を聞いてほしかったんだ。
だから。
あぁ、だから。
「……誰も泣かない、世界が、欲しいんだよ……」
体から、熱が失せてゆく。意識が失せてゆく。
その瞬間、死にゆく男は、あどけない声を聴いた。
「だ、るぇ、もな、かなぃせ、くぁ、い?」
最後の力で、微笑んだ。
あぁ、そうだよ。
おれは、それが、みたいんだ。