かいぶつのうまれたひ #31
篤のウサ耳やウサ脚やウサ眼が、一斉に変化したのだ。
「おおう……」
唐突に変異した脚の構造ゆえ、バランスを崩しかける篤。
藍浬に支えられながら、篤は自分の体を眺める。
五体全てが人間に戻っていた。
頭に手をやると、ウサ耳も消えていた。
「むむむ、消えてしまったか……」
同時に、全身の傷が、かすり傷程度にまで小さく浅くなっていた。
さすがに失った血までは元に戻らなかったせいか、頭はボ~っとするものの、さっきまで体を責め苛んでいた痛みは嘘のように鳴りを潜めている。
不思議な力で傷が癒えたというよりは、全身の肉体変異によって傷が掻き消された、と言ったほうが正確だ。
「神秘、だな」
しみじみと、篤は呟いた。
●
敗北感。
それは乗り越えるか否かによって、意味合いが大きく変わってくる感情だ。
乗り越えれば成長をもたらし、乗り越えなければ腐敗をもたらす。
――乗り越えてなど、やるものか……!
タグトゥマダークは界面下空間を泳ぎながら、そう決意した。
鋭く尖った牙を軋らせ、妖眼をすがめながら。
まったく、今日はとんでもない厄日だった。
――何が『常住死身』だ。死ねばいい。
生きるために死ぬという意味不明な信条は、どうしようもなくタグトゥマダークをイラつかせる。
そんなに死にたきゃ死ねと言いたい。どうせ死ぬ気なんかないんだろ! 目立ちたいだけだろ!
胸の中で、思いつく限りの罵倒を諏訪原篤へと浴びせかける。
負けた自分をも貶める行いではあったが、タグトゥマダークはその自傷行為をむしろ嬉々として敢行した。
だが。
同時に、自らの腹の底で、闘志が滾っていることに気づく。
危ういまでに薄く鋭い己のありようが、何か力強いエネルギーによって補強されてゆくかのようだ。
――まただ!
闘いの最中にも感じた、この不愉快な高揚感。
自分の心に宿るはずのない感情。
――何なんだよ!
おかしい。今日の僕はおかしい。自分の心すら、思い通りにならない。
まるで、自分の心ではないかのように。
……思い当たることは、ある。
諏訪原篤。
彼の生き様に影響を受けているという可能性。
――ッ!!
その考えが浮かんだ瞬間、タグトゥマダークの体内を、黒紫色の憎悪が駆け巡った。
体中の臓腑を焼け爛らせながら、この清澄な熱意を追い出そうと、荒れ狂った。
――負けるものか。
鼻面に皺を寄せ、牙を剥きだして。
――負ける、ものか!
ボロ借家にたどりつくと、タグトゥマダークは息をついた。
憎しみに強張った顔を揉み解し、「優しい爽やかお兄さん」の仮面を取り繕う。
――もういい。どうでもいい。そんな精神的葛藤なんかどうでもいい。
今大切なのは、夢月に泣きついて甘えることだけである。
――夢月ちゃんは、優しくて可愛いものだけ見ていればいい。僕の腐った本性なんか知らなくていい。
ただひとりの肉親に、本音をさらけ出す勇気すらないのだ。その事実は、タグトゥマダークの魂に屈折と腐敗と快楽をもたらしていた。
――あぁ、夢月ちゃん、夢月ちゃん、夢月ちゃん!
玄関を開け、靴を脱ぐ。
ぎしぎし言う板張りの床を、足早に通過する。
――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん……ッ!!
甘えよう。ひたすらに甘えよう。甘えてダメになろう。優しいあの子はダメなお兄ちゃんでも受け入れてくれるに違いない。
そうに違いない。
――夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむ夢月ちゃん夢月ちゃん夢月ちゃんむむ夢月ちゃん夢むつき月つきちゃん夢月つきつきちゃんむ、むむ夢月ちゃん夢月ちゃぁんッッ!
そうでなければ、ならない。
部屋の前に、たどり着く。
襖に手を掛ける。
「夢月ちゃああああああああん!」
叫びながら、中へと飛び込んだ。
――今行くよ! キミの胸の中へ!
埃が、もうもうと吹き上がった。
窓から差し込む日差しが、それを浮かび上がらせていた。
「……あ……?」
《ブレーズ・パスカルの使徒》が支給した、さまざまな装備品が、雑然と積み重なっている。
薄く、埃をかぶっている。
「……あ、あれ……?」
天井の隅には蜘蛛の巣が張っていた。
壁紙は所々破れ、木材が剥きだしになっている。
「……部屋……間違えた、かな……はは」
耳鳴りがする。
それは、心の奥底に封印されていた、恐るべき記憶が、胎動する音に思えた。
「……ひ……」
ひゃっくりのような声が出た。
我知らず、後ずさっていた。
耳鳴りが、強くなった。
「……ひ、ひ……」
何かが、間違っていた。
どこかで、間違っていた。
「……ひひ、ひひひっ……」
――それは、いつからだったのだろうか。
「ひひっ、ひはは、ひはっ……」
――いつから、僕は間違えていたのだろうか。
歪んでゆく世界の中で、タグトゥマダークは口元を戦慄かせた。
「ひはっ、ひははははっ、はは、ひ、ひはっ」
――諏訪原篤と戦った時だろうか。
――彼を始めて眼にした時だったろうか。
「ははははははっははっははははははははっ」
――あるいは、《ブレーズ・パスカルの使徒》に入った時だろうか。
――それとも、師匠に拾われた時だったろうか。
タグトゥマダークは乾いた声を上げ続けた。
笑いというには何かが欠け、何かが余分だった。
「はは、ははは、はひっ、ひひっ! ひひは!」
――それとも。
「ひはははは! ひはは! ははぁはっはははっははっ!」
――もっと前。
視界に、罅が入った。
割れ目から、毒々しい血液が流れ出てきた。
「あははははははあっはハハっはっははっはっはははぁはぁはぁはひぃひひひっ!」
――夢月ちゃんが、死んだ時からだろうか。
「あっははっはっはははっひははひはひはひはぁーッあっひひひひッ!」
砕けた。
深紅の汚流が、襲い掛かってきた。
獣のような声が、彼の喉を引き裂いた。
世界は原型も留めぬまでに歪み切った。
腕に異様な力が滾った。蛆虫のように蠢く指が、獲物を見つけたかのように突発的に動き、頭の肉ヒダに喰らい付いた。
そのまま、床にくずおれ、うずくまった。
「……ひぃ……ひぃ……」
体を丸め、頭を抱え、怯えきっていた。
ぬるい汗が、肌を伝い落ちた。そろそろ日が昇りきる頃合だった。すでに真夏だった。外は晴れていた。強い光が窓から差し込んでいていた。耳鳴りがやかましかった。ここは薄暗かった。埃っぽかった。涙と涎が粘っこかった。耳鳴りがやかましかった。尻に当たる床が少し痛かった。寒かった。暑かった。どうしようもなく寒かった。ぬるい汗が全身を濡らした。手が震えていた。脚が震えていた。臓腑が震えていた。耳鳴りがやかましかった。
独りだった。