色は一つ。混じるものなし
ひとつではない。十本の蔓が、十振りの短剣を取り出していた。
あの小ぶりな刃を中心に、世界が組み変わっている――それはかつて〈虫〉を初めて目の当たりにした時にも似た、しかし遥かに強烈極まる印象であった。
「仰げよ虚空。無色の光――」
瞬間、少年の声から、何かが去った。
「この命に意味はなく、この宿世に業はなく、ゆえにこそ生きるに値する」
四方に満ちるは否定の意。
「絢爛たる〈宿命〉の織物は、衆生を欺く幻影にして牢獄」
声が孕むは冷徹なる熱情。
「眼を開き、真理を識れ。何のためでもなく、誰のためでもなく、ただそこに在るという現実を!」
詠われるのは虚無と覚悟。
「刮目せよ、世界はお前のことなど嫌いですらないと言う真実を――!」
白き利刃が一斉に方々へと射出され、幽骨の床に突き立った。
「歪律領域――架空浸蝕」
その言霊が世界に染み入った瞬間、この場から何かが決定的に失われたことを、総十郎は悟った。
まず起こった変化は、円状に配置された短剣群の内部空間が、ごっそりと空白になったことである。まるで油の浮く水面に石鹸の雫を一滴垂らしたかのように、ぽっかりと大きな穴が開いたのだ。それはまったく破壊を伴わず、何の音もしなかった。
総十郎の身代わりたちは一斉に札に戻り、下方へひらひらと舞い降りてゆく。
そして何より――
――あの内部で、禁厭法の呪力が働かなくなってゐる……!?
ぽっかりと開けた円柱状の空白領域には、いかなる呪いの力も存在しない。あそこだけ完全に退呪されている。
だが、〈道化師〉が高度な呪術戦に勝利した――などという牧歌的な状況でないことは明らかだった。あれはそういう次元の現象ではない。呪術を成り立たせている世界の仕組みへの干渉。形而上的な虚無。絶対的無意味性。
「おや、どうしたのかな、ソーチャンどの? 表情がなくなってるよ?」
その中央で悠々と浮遊しながら、〈道化師〉はしめ縄を無造作に握り、軽く振った。すると五芒星は力を失ったかのごとく形を崩し、重力に従って垂れ下がる。
「魔術魔法の類ならなんでも、ってわけにはいかないけどね。今王国を覆い尽くしているような、世界に新しく意味を付与する感じの術ならば覿面に効果があるよ。この短剣を作ったのは僕の、まぁ、上司? みたいな人だけどね。彼はそういうのをことのほか嫌うから」
言っている意味はよくわからない。だが、警戒心は際限なく膨れ上がりつづけ、戦いに身を置く者としての本能が狂おしいほどに警鐘を鳴らし続けている。
〈道化師〉を中心に発声したあの円柱状の空間には、総十郎を総十郎たらしめている何かが存在を否定され、根絶されているのだ。
「おやおや、そんなに怖がらないで欲しいな。別にこの中に入ったからと言って死ぬわけじゃないし、力のすべてが封じられるわけでもないよ。存分にその剣技を駆使して僕を屈服させるといい。大丈夫、まだまだあなたのほうが強いから」
「買いかぶりすぎだ。小生、呪術の力なくば君には対抗できぬよ。」
実際、手詰まりである。今飛び出したところで拘束術式に囚われるだけであった。
少年は懐より黒曜石めいた材質の竜の細工を取り出した。
「ギデオン、道は確保したよ。王城のどこかに穴が開いたはずさ。そこから垂直に降りて来てほしい。くれぐれも幽骨には触らないよう注意してくれよ」
〈玉座への侵入経路は確保できたのか?〉
「いや、そのへんはあなたに案内してもらった方が早いかと思って」
通信装置か。間もなくここにギデオンがやってくる。
だが、狙いは何だ? 玉座だと? そこに行ってどうするつもりだ?
まぁ、いずれにせよ。
「……こちらの勝ち、であるな。」
「なに?」
「時間をかけすぎである。本当に警戒すべきは小生ではないのだよ。」
口角を釣り上げ、優美な笑みを見せる総十郎。
〈なに……馬鹿な!〉
竜の細工より、ギデオンの狼狽が伝わってきた。
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