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神なる闇、剣なる影にて

 糜爛の神《ヴィラ・ディチビラアト妄塔マウキレカスの永夢》がおわす祭壇は、それを直に見た者ですら信じがたい、極大なる威容を誇っていた。アシュバイィルの螺旋宮殿ですら収まるかと思わせる、地下断層の狭間にて掘り抜かれたる大空洞。その中心を上下に貫く黒鋼塔の最上部こそが、世界の頂上にて鎮座めされる神を直接拝みうる唯一の場所であった。
 シャエニは恐怖している己を自覚する。
 いまだ年齢が一桁にしかならぬ少年は、精一杯の怯えを表現していた。歯の根がどうしても噛み合なかった。汗が冷たいことを、このときはじめて知った。
「かあさま、こわい」
 消え入りそうな声で必死に訴える。かたわらにて己の手を引く母親に伝えるために。しかし母親は耳をかさぬ。常ならぬ強い力でシャエニの手を握りしめ、ここではあらぬどこか遠くを見ていた。
 その眼は笑っていた。濁っていた。
 黒い岩盤を陰風がなぶり、老女の断末魔のごとき高音を響かせている。塔の頂きから望まれる広大な虚ろは果てが見えず、ただ絶対の闇のみが松明の光を呑み込んでいた。暗黒は天空を象し、塔は大地を徴す。この空間自体が、糜爛の神の君臨する世界そのものを象徴していた。
「こわいよ」
 シャエニは、母親の変化をつとめて意識せぬようにした。それを認識したら、もはやあの優しいかあさまが戻って来ぬような気がして。
「かえろうよ」
 ひときわ強く、腕を引っ張る。すると、ようやく母親は少年のほうを向いた。
 シャエニは息を詰まらせた。幼子を見るその眼は、少なくとも慈母の眼などではありあえぬ。己の意に添わない存在に対する不快感しか感ぜられぬ。
「あなたは今宵、越境者となるのです。そのために産んだのですから」
 えっきょうしゃ。
 その言葉の持つ意味に、躯の中心からおこりが広がっていった。漠然としていた恐怖ははっきりと形を成した。噛み合ぬ歯の間から悲鳴を絞り出す。
「……い、やぁだ……!」
 後ずさる。しかし母親はシャエニの細い腕を握りしめてそれを許さぬ。
「いやだよぅ!」
「ッ!」
 不意をつきて死力を絞り、拘束を強引に振りほどく。勢い余って躯が後ろに倒れ込んだ。はずみで上方の濁った闇が視界に入った。
 呼吸が止まった。
 何かがいる。
 それは最初、天を満たす暗闇が涙で揺らいでいるだけのごとくに見えた。だが、違う。そこは暗黒ではなく、虚無だ。世界に長い亀裂が走っているのだ。孔が開いているのだ。その向こう側に、高さと長さと厚みしか存在せぬ世界の住人では把握しきれぬ狂気の世界が広がっている。無と非存在が渾然と混じりあっている。そこでは時が極限の熱量に溶かされて歪み、左には過去があり、右には左があるのだった。原因に依らぬ可能性が結果を惨殺し、そこから無数の蛇が這い出てきたかと思えば、未来の方角へ身をねじらせつつ己の尾を噛んだ。だがそれも一時の永遠でしかあらず、霊が無と、肉が非存在と重なりあい、反応して線状の闇を爆発させていた。
 絶叫が聞こえた。
 自分の喉を痛めつけるその叫びで、シャエニはようやくそこから眼をそらすことができた。理解を超えているどころの騒ぎではなかった。そこには確実に何かが存在し、恐ろしい意味を伴いて回っていた。だが自分にできたことといえば、知識と感情を用いた認識偏向によって強引にそれらに名前をつけて理解した気分にひたり、発狂をまぬがれるだけであった。
 己の喉が狭まり、呼吸に耳障りな擦過音を付与している。
 やがて狂気の亀裂の端と端が、黒い岩盤を伝う液体のように下方へ広がっていった。世界が軋み、名状しがたい悲鳴を上げている。
 大いなる糜爛の神が、現世に手を突き込む入り口を裂き広げようとしているのだ。
 シャエニを連れ去るために。
 近くで、足音が聞こえた。
「さぁ、立ちなさい。月齢は満ち、約束の刻が到来しました。あなたは神さまに選ばれたのですよ、愛し子よ」
 母親は陶酔に濁った声で語りかけてくる。
「そのために私はあなたを産んだ。そのために私は神の種を宿した。立ちなさいシャエニ。拒絶は許されません。神が許しても私が許さない」
 恍惚の声は、徐々に嫌悪と憎悪にしゃがれてゆく。
「あの恐怖。あの屈辱。今日この日を思えばこそ! お前を愛し育んであげたのも、今この時を思えばこそ! 立て! 古き邪悪の血を流す忌み子! おぞましき神の呪いよ!」
 我が子の手を捕まえ、強引に上空の狂気の亀裂へ引き立てようとした。
「――!」
 魂の底から冷たく掴み掛かる絶望的な危機感に、シャエニの体は全力で抗うた。母親はもはや味方などではないことを、ようやく理解した。腕を激しく振り回し、この場から遁走せんと暴れた。
 白くたおやかな母の喉から、憤怒の咆哮がほとばしり出た。握られた手が少年の細く硬い躯を殴り跳ばした。少年は愕然と眼を剥いた。痛みはほとんど感ぜられぬが、肢体が震えて動かなくなる。心臓が不規則な痙攣を繰り返す。
 母親は髪を振り乱し、野獣のように襲いかかってきた。何度も何度も拳が打ち下ろされ、顔面を衝撃と灼熱が弾けた。少年にはそれが信じられぬ。
「かあ、さま……や、め……」
「贄め。神に喰われてしまえ」
 ひときわ強烈な衝撃が毒のようにシャエニの頭蓋に染み入り、意識を吹き飛ばした。

 昏倒していたのはわずかな間であったようだ。
 意識が覚醒した瞬間、眼に飛び込んできた、
 黒い壁。
 視界を覆い尽くす闇色のなにか。
 ちがう。めをそらすな。
 これは肉だ。汚れた血を脈動せしめる、暗黒の肉壁だ。
 亀裂が、開ききったのだ。祭壇塔の存在する球形空洞自体が裏返り、“あちら側”へと呑み込まれたのだ。だが、宇宙の究極の本質たる《ヴィラ・ディチビラアト妄塔マウキレカスの永夢》の全身を受け入れるには、その亀裂はあまりにも狭すぎる。結局、現世に顕現しえたのは、その神聖なる肉体が無数に蠢かせている黒き御手の一本、それも特別小さな一本のみであった。
 とてつもない鼓動が、肉壁に轟いている。一拍ごとに世界が破壊され、創造されているかのごとく。
 シャエニは、己が宙に吊り上げられていることを知った。腹部に暖かく柔らかい感触を覚え、見下ろしてみると、異形の肉塊が胴を包み込んでいる。怖気だった。それは暗黄の表皮に、暗緑の襞と黒濁した血管が幾重にも走り、全体は爛れ、膿み、悪寒を催す異臭を放っている、雄大なる触手であった。
 至尊なる神の御手だ。
「ひ……あ……」
 これほどだというのか。神はこれほどまでに醜怪なのか。汚らわしい。見るだけで正気を喪いそうな邪悪。それが今や己の躯に巻き付いている。かつてない危機感が、意識を保って現状と対峙することを強要していた。再び気を失うことができたらどんなに良かったか。
 悲鳴。必死に身をよじらせる。
 完全なる無意味。単なる一人の幼子が万象の原理たる神意に抗いうる道理など、この世のどこを探しても見つかりはしない。それでもシャエニは諦められなかった。このまま身を委ねれば、おぞましい狂気の陵辱を受けるであろうことを本能的に悟っていたがゆえ。
 脾腹を掌握している異相の触腕に白い手を突き、懸命に抜け出そうとあがいた。神の肉皮を隙間なく覆っている疣がシャエニの手に潰されて、黄色い腐液を吹出させた。吐き気を飲み下してより強く腕を突っ張らせると、生暖かい汚肉は張力を有していないのか、掌が際限なく沈み込んでゆく。全身に鳥肌が立った。悲鳴を上げて両腕を引き抜かんとしたら、手の皮膚が引き攣れるような感触があっただけで、一向に抜けぬ。ばかりでなく、掌全体が熱く不快に脈打ち始めていた。見ると、指の間から蚯蚓が這い上がってくるかのごとくに、黒く汚濁した血管が無数に伸びていっているさまが白皙の肌を透過して確認できた。やがて両手に黄ばんだ膿泡が無数に発生し、次々と花開いて腐敗した臭気の膿汁を飛び散らせた。
 侵蝕。
 同化。
 少年は、極大なる不浄と同一の存在に造り変えられつつあった。神に掴み込まれていた己の胴体も、強靭なる脈動とともに人外と化してゆく。無数の襞が奇怪な陰影を浮き立たせる、醜汚なる神の肉へと。
 恐怖があった。嫌悪があった。
 脈動が轟く。穢れた世界の端々に。
 一拍ごとに暗黒の体液がシャエニの躯に流し込まれ、異形なる部分は眼に見えて領域を拡大している。表面ばかりではなく臓腑や骨肉までも完全に変異してゆく、ごきごきとした激痛が少年の胃を絞り上げ、次の瞬間押し潰した。無理な膨張と変質を続ける肉が腹腔を捻り裂き、破れた腸とともに糞尿が吹き出る。鮮血とともに。
 ことここに至って、限界まで追いつめられた少年の心身は、最後の防御機能を働かせた。精神を発狂せしめることにより、少年の魂を醜汚極まる外界の情報から遮断したのだ。丸い瞳から知性の光が去った。小さな口から吐瀉物とともに痴愚のうめきが細く漏れた。ついに発声器官も神の汚猥なる改造を受けたのか、澄んだ声は汚泥が煮立つかのごとき醜悪なる唸り声と化す。白濁した眼から、涙が一筋こぼれ落ちた。それはシャエニが最後に行った人間らしい反応であった。
 やがて、不潔な暗黄色に染まりきった少年の肉体であったものを、巨大な触手は液体のように形を変えて完全に呑み込んだ。

【続く】

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