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ケイネス先生の聖杯戦争 第三十六局面
ディルムッドは、実体化した。
即座に女はこちらの気配を察し、小銃の筒先をこちらに向けた。意を発さぬ無拍子の所作。積み上げられてきた鍛錬のほどを感じとり、ディルムッドは目を細めた。
こちらに気づき、振り向き、照準し、引き金を引くまでに0.2秒。ディルムッドにしてみれば充分に余裕をもって対処できる時間だった。
音もなく、空気を動かすこともなく、ふわりと間合いを詰める。黒い銃口を掴み、上にそらす。逆の手で自分の唇に人差し指を当てた。
「静かに。この家の者らを起こすのは忍びない」
彼女の対応は素早く、的確だった。ナイフを抜き放ち、ディルムッドに斬りかかるのではなく自らの頸動脈を斬り裂こうとしたのだ。
即座にナイフを握る手を掴み、自殺を阻止。
ディルムッドは、密かに胸を痛めた。騎士たる己にとって女性は敬意の対象であると同時に、庇護すべき者だ。このような娘が、極限状況で自殺こそが最善手と僅かなタイムラグもなく決断し、実行に移す。彼女にそこまでの覚悟を強いた生まれ、境遇、生活、因果のすべてが悲しかった。
だが、おそらく哀れみは彼女を救わない。ディルムッドは努めて内心を押し殺し、不敵な笑みを頬に刻んだ。
「手向かっても無駄なことは弁えているようだな」
女は、氷の刃でももう少し温かみがあるであろう眼差しでこちらを見ている。その頭の中では、どうやってこの窮地を脱するか、あるいはどうやって自殺するか、何か状況に変化を起こせる要素はないかと思考が高速回転し、あらゆる気配に鋭敏になっていることであろう。
その手から小銃を力任せにもぎ離し、後方に放り投げる。
互いの鼻先が触れ合わんばかりに顔を近づける。
そこまで至り、ディルムッドは己が何を判断し、何をしようとしているのかを自覚した。
怯懦と葛藤が胸の裡を渦巻く。これから自分は、生前奉じた「騎士道」と「愛」を同時に裏切ろうとしている。
――駄目だ。躊躇うな。忠義を全うしろ。
女の目を覗き込む。人間性を喪失した、虚無と奈落の瞳。きっと彼女は、愛も幸も知ることはなく、野良犬にも顧みられない死を迎えることであろう。そしてそのことに何の痛痒も覚えていない。
かような有様を見て取った瞬間、踏ん切りがついた。
手をゆっくりと持ち上げ、魔貌殺しの仮面を、外した。
●
当然ながら、久宇舞弥は強靭極まる意志力と判断力を併せ持った人間であり、しかも衛宮切嗣より魔術の手ほどきを受けている。
本来であれば、魅了のホクロに対するレジストなど可能、どころか容易ですらあった。
ある程度の距離を開けた遭遇の段階で、槍兵の魅了の魔力に感づき、心機を強く臨戦せしめ、造作もなく効果を打ち払えたはずであった。
だが、魔貌殺しの仮面がその機会を奪った。舞弥は鼻同士が触れ合うほどの至近に至るまで、よもやディルムッドにそのような能力があるなどと予想だにすることができなかった。
心の中にあったのは、暴力への覚悟と警戒のみ。自らに「愛」を植え付けられる可能性に思い至ることができるヒントなどどこにもなかった。
だからその瞬間。
秀麗な目尻にあしらわれたホクロが視界に入った瞬間。
自らの心身に何が起きたのか、まるで理解することができなかった。
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