吐血潮流 #4
「『好きな山本常朝は何か』なんて問いを人生のうちで発する機会なんてあるか? あいつの繰り言聞いてるとボクはわりと真面目に気が狂いそうになるんだが」
「まぁ落ち着きなって。人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて有頂天」
「ただの変態じゃねえか! ……それから! あいつらの会話はもう恋の告白って雰囲気じゃねえよ! 単なるボケポジションの奪い合いだよ! 相手の予想を外してボケマウントを取ることでしかコミュニケーションを図れない狂人どもによる血を吐きながら続けられる哀しいマラソンだよ!」
「いやぁ、でもあの子……鋼原さんだっけ。ツッコミもそれなりにこなせてはいるよ」
「篤の野郎がアホ過ぎてツッコミに回らざるを得ないだけだ! すぐ破綻する!」
「さすがに一年もの間彼にツッコミ続けた男の言うことは含蓄があるね。でもまぁ乱入は待ちなって」
「なんでだよぅ!」
「あの教室、二人っきりじゃないよ」
「……は?」
「もう一人いる」
●
「そこにいるのは何者か?」
篤は不意に、鋼原射美から目を外した。
その視線の先には、掃除道具の入ったロッカーがある。
「ほぇ? どーしましたでごわすか?」
「俺たちの決闘領域に、想定外の者が入り込んでいる」
「いや決闘領域って……」
篤は視線を漂わせ、
「ふむ、そこか」
おもむろにロッカーへと歩み寄る。
そして躊躇いもなく扉を開けた。
……開けようとして、奇妙な手ごたえを感じた。まるでロッカーの扉がヒモでつながれているかのような抵抗があった。
篤は構わず腕に力を込め、扉を引き開けた。
ぱら、と、床に何かが落ちた音がする。見ると、制服のボタンが三つ、木目の上でフラフープのごとく踊っていた。
そして、ロッカーの中には、
「こ、こんにちはぁ……」
なんか、いた。いるはずのないものがいた。
あまつさえ困ったような笑顔で小さく手を振りだした。
思わず、まじまじと眺める。
なにがいるのかはわかった。しかしなぜいるのかがわからない。
そいつは少し頬を染め、篤から目をそらした。
「あのぅ、諏訪原くん……そんなに見つめないでもらえるとうれしい、かな?」
「…………」
無言で扉を閉める篤。
「ど、どーしたんでごわすか!? 中にいったい何が!?」
「いや、何もいなかった。モップと箒とバケツとチリトリと霧沙希きりさき藍浬あいりが置いてあっただけだ。異常はまったくない」
「最後のキリサキアイリって何でごわすか!?」
「掃除道具だ」
「それでゴマカしているつもりでごわすかー!」
むっ、と篤は息を詰まらせる。本当にそれでゴマカせると思っていたのだ。
「誰か……っていうか霧沙希って人がいるんでごわすね? 今までずっとそこにいたんでごわすね!?」
鋼原射美は頭を抱えて宙を仰ぐ。
「うぬぬぅ……! 話をゼンブ聞かれていたでごわすかぁ~!」
そして突然目を見開き、
「……うぐっ!?」
あわてて口を押さえ――
「ゴふェェッ!!」
いきなり血を吐いた。
「うおぉっ!?」
口を押さえる手の間から、赤い筋が垂れている。
――趣味は吐血とか言ってたけどホントに吐いたよこいつ!
「けほっ、けほっ」
「…………」
しばらく、鋼原射美の咳き込む音だけが教室に響いた。
「ああ、その、大丈夫か?」
篤、呆然としながら聞く。
射美は慌てた様子もなく手の甲でぐしぐしと血を拭い、息をつく。
「うぃ~、ひさびさにやっちゃったでごわすぅ~」
ゲロ吐く酔っ払いみたいに言うな。
夕闇忍び寄る教室で、口元を真っ赤に染めた少女が照れ笑いを浮かべている。見る人が見たら、恐怖のあまり全身の穴という穴から変な汁を出して気絶しそうな光景である。
「射美はコーフンするとつい血を吐いちゃう体質なんでごわす♪」
「いやそれどんな体質モガッ!」
「はいはい出歯亀中出歯亀中」
そして忍ばない二人。
なぜ彼女に気付かれないのだろう。不可解というほかない。
「うぅ~、そんなことより射美は一世一代の告白を他の人に盗み聞きされちゃったことがショックでごわす!」
「あ、こら」
篤が「実はもう二人ばかり隠れて聞いている奴がいるんだぞ」と止める間もなく、射美はずんずんと歩みを進め、血に塗れた手でロッカーに手をかけた。
「文句言ってやるでごわすぅ~!」
がたん。
開けた。
「…………」
そして固まる。
「あら……?」
ロッカーの中から、ささやくような、典雅な声がした。
篤は目頭を押さえる。
今鋼原が見ているであろう光景が、手に取るようにわかった。
そこには、紳相高校の夏季制服に身を包んだ女子生徒が挟まっていることだろう。
ロッカーというものはそもそも人が入れるようには作られていないので、無理に入り込もうとすれば相応のしっぺ返しが付いてくるのが当然である。
――その女子生徒は、格子のように立つモップと箒によって身動きが取れなくなっているのだ。ロッカーを閉めた際、扉の裏側にあるチリトリを引っ掛ける金具に誤って箒の柄が引っ掛かり、固定されてしまったのである。体を屈めて引っ掛かりを外せば良いのだが、空間的余裕の問題で、屈み込むにはにはロッカーを開けねばならず、開けてしまっては篤と鋼原に気付かれてしまう。それゆえ、彼女は今まで身動き一つできなかったのだろう。
問題点はもうひとつある。
悲劇と言ってもいい。
たぶん、篤がロッカーを開けた時に起きたことだ。
ボタンが外れていた。
薄手のブラウスの第一から第三ボタンが、ちぎれて飛んでいったのだ。