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ウォン・カーウァイ(王家衛)の映画が好きだ。
などと言いつつ、私は『天使の涙』も『2046』も、『愛の神、エロス』も、彼の最高傑作と名高い『花様年華』すら観ていない(u-next 、比較的作品数多くて好きなんだけど『花様年華』を置いてないのはマジでどうかと思う)。
観たことあるのは『ブエノスアイレス』、『マイ・ブルーベリー・ナイツ』、『欲望の翼』、『恋する惑星』、『今すぐ抱きしめたい』くらい。あとドキュメンタリーの『摂氏零度』。
観たことのある5作の中で何が一番好きかと問われれば、『欲望の翼』かも知れない。
1990年の作品なので『恋する惑星』の4年前、『ブエノスアイレス』の制作の7年前の制作ということになる。
カーウァイ独特の音楽や艶やかでキッチュで退廃的な色遣いはまだそこまで顔を覗かせてはなくて、どことなく野暮ったさも残した映像なんだけれど、レスリーチャン演じるヨディの色気がすさまじい。
あらすじはこう。
面倒だったから映画comから引っ張っちゃった。あは。
この後ヨディはスーの元も離れてフィリピンに実の母を探しに行くんだけど結局対面することは叶わず、現地で喧嘩に巻き込まれて死んじゃうんだ。ヨディは養母に引き取られて育って金銭的に特に不自由はしていない。
映画の最後でこの養母はヨディを引き取る時一定の額の養育費を受け取ることを約束したことが明らかになる。つまり養母の側にいくらかの打算がなかったと言えば嘘になるのだが、それでも自身がアメリカに経つのにヨディも一緒に来ないかと誘ったり、養子のことを気にかけない冷酷な養母と言うわけではない。
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ウォン・カーウァイの映画といえば、必ずと言っていいほど失恋した人間が出てくる(全作品観てないけど)。
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』では恋人と別れたてのノラ・ジョーンズ、『恋する惑星』ではミミという名の女にフラれて山のようなパイナップル缶を食べる刑事に、スチュワーデスの彼女に出ていかれた警官トニー・レオン、『ブエノスアイレス』では恋人と別れてブエノスアイレスでその日暮らしをしてるトニーレオンの元に再びレスリーが現れる———エトセトラ。
そしてまた特徴的なのは、かつて愛していた人にフラれた人間がまた別の人間を愛するようになる過程を、カーウァイは偏執的なまでに映画の中で繰り返し取り上げる。
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のノラ・ジョーンズは一通りの旅を終えるとブルーベリーパイのカフェ店主といい感じになり、『恋する惑星』の刑事は57時間後金髪のミステリアスな女に恋をし、彼女にフラれたトニーレオンはフェイと結ばれ……(『ブエノスアイレス』は前付き合ってた恋人とヨリを戻すからちょっと毛色が違うけど、愛することをやめたりまた愛したりという「揺らぎ」を描いているという点は変わらない)。
「いま目の前にいるあなたを愛している。けれど数時間後も愛しているかどうかは分からない」
カーウァイの映画の人間たちは率直にこの真理を行動で表す。
いたずらに永遠の愛を探そうとして絶望に陥ったり、現在の恋を過剰に美しく飾り立てるでもなく、ただ雨の日は傘を差して次のタクシーを待つように、彼らは次の恋を待つ。
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このカーウァイの恋愛の切り取り方はかなり独特だ。
そして彼の対極にあるのが、スイーツ系邦画だと思う。
最愛の人と出会って恋に落ち、いろいろ紆余曲折はあったけど最終的には運命の人だったので結ばれました!
みたいな「一つの愛」のイデオロギーが私は大嫌いなのでそもそもあまり観ないのだけれど。
あの手の映画にあるのは今はどうしようもなく孤独で不完全な私だけどどこかに私の人生を完全なものにしてくれる帰属先=運命の恋人がいるはず!という幻想である。
そもそも一つの愛が絶対化することがもし可能なのだとすれば、それは「ロミオとジュリエット」みたいに2人がその恋愛の最高の瞬間に命を絶つしか方法はないじゃないか。
ここまで「一つの愛」という恋愛イデオロギーに毒されていなくても、たとえばフランス映画だったら恋人同士が出会ってセックスして破局するまで、みたいに一つの関係性のはじまりと終わりにフォーカスした恋愛の切り取り方をする。
(ええっと、エート、『ラストタンゴ・イン・パリ』とか『アデル・ブルー…』だとか、アメリカだけど『キャロル』とか……あ、やめて恋愛映画あんまし観てないのバレちゃう)
だから、失恋した地点から始まって次の人を好きになるまでをドラマにしてしまうカーウァイは不思議な存在だ。
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この登場人物がいくつもの恋愛を乗り継ぎながら浮遊するカーウァイの世界観は、本質的に人間は帰属する場所などなく孤独なのだという寄る辺なさと寂しさでできている。
そして成熟とはその寄る辺なさを受容することなのだと思う。
(それが分からないというのなら、甘ったるいキャラメルポップコーンを頬張りながらいつまでも口当たりのよろしいスイーツ映画を観ていればいいのである。)
どうしようもない孤独と折り合いをつけながら、恋をしたり失恋したりをするから彼の映画の登場人物たちは愛おしく、またカーウァイの映画は十分に成熟した人間たちの物語なのだとも言える。
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えーと、冒頭で私は『欲望の翼』が好きだと言ったんだっけ。そしてレスリーチャンがめちゃくちゃ色っぽいんだと。
色気とは危うさである。
色気のある人とは、人にこの人を一人ではいさせられないと本能的に思わせる存在のことだ。色気というのはどこかに子どもっぽさがないと出て来ない。
ヨディはウォン・カーウァイ作品の中のキャラクターでもぶっちぎりで幼い。
定職にはつかない、養母の金で車に乗る、付き合う女の子には不自由しないしやたらモテるけど、結婚を凄まれるやいなやスタコラサッちゃん。
(こんな男に惚れたくないランキングぶっちぎりナンバーワンだと思う)
スーやミミという錚々たる美女を次々モノにするも、心の空白は癒せないままフィリピンに実母を探しに旅立つ。
恋人というのは基本的に代替可能なシステムである。飽きればいくらでも新しい人がいる。それは承知でいま目の前の人を愛しているという瞬間的な事実に自分自身を賭けるしかない。
ヨディはこの賭けに耐えれるほど精神的に成熟していない。だから恋人よりもより確かな繋がりを求めてフィリピンに発ってしまう。
この幼さ、寄る辺なさに耐えられない子どものような彼の姿は、カーウァイの他の作品の登場人物たちの見せる成熟にはあまりにも遠い。
そしてフィリピンで母に拒まれ死んでしまう幼き子ヨディは、その後の『ブエノスアイレス』や『恋する惑星』のカーウァイの「成熟した」登場人物の流産された原型として、はかなくも忘れがたい存在感を放つのである。
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