#216_【まちあるき】いい路地あります_今屋敷西通り・西中須賀通り(対馬市厳原町今屋敷)
先日、厳原町国分の三軒屋にある路地を紹介をしました。
移住当初、この周辺は全て国分地区かと思っていましたが、最近ところどころ「国分」と「今屋敷」が入り組んでいることを知りました。
地理マニアや地図マニアの方同士が話をしているのを聞いていると、「飛び地」の話題に行き着くことが割とありますが、市町村の飛び地になっている場所というのは、川の流れを変えた時に自治体の区分をそのままにしていたために発生する、という例が多いそうです。
それでは、「国分」と「今屋敷」の境目はどうなのでしょうか。
Googleマップで見てみますと、生活者の感覚とは裏腹に、地図上スッキリしています。理由は単純で、金石川が境界になっているからです。
対馬市役所の前に架かる桜橋の幅が広いため、錯覚が起きているのではないかと思いますが、市役所の所在地が「国分」で、観光情報館ふれあい処つしまの所在地が「今屋敷」というのも、これで納得いただけますでしょうか。
地元の人間以外にはどうでもいい話ですが。
今回は、今屋敷地区の先端まで突いていく「今屋敷西通り」と「西中須賀通り」を紹介します。
今屋敷西通り
「今屋敷西通り」は、十八親和銀行対馬支店の駐車場の角から、港に向かって伸びる路地になります。
西中須賀通り
横町通りを境に「西中須賀通り」に名前が変わります。
横町通りから、「漂民屋跡」まで通じています。
漂民屋跡
「漂民屋」とは、日本全国に漂着した朝鮮人漂流民が集められ、朝鮮に送り返すための一時的な収容施設です。
対馬では、近世以前から漂流民の送還はしていましたが、1627(寛永4)年に制度として確立しました。漂民屋から送還された人は、漁民だけでなく官人や商人もおり、数にしてのべ9000人以上もいたそう。
日本史の授業で、江戸時代は「鎖国」だったと教わった方も多いと思いますが、対馬では江戸時代の間も朝鮮との交易はずっと行われていましたし、海とともに暮らす者として、「おたがいさま」という意識もあったのだろうと思います。
さいごに
漂民屋に収容された人々に対しては、もちろん密貿易や逃亡など怪しい人物ではないか身元の調べをしてから送り返していたそうですが、そのあたりのノウハウの蓄積も含め、対馬の置かれている環境により築き上げられてきた歴史を感じます。
日本で国境を感じる場所や機会って、なかなかないですもんねぇ…。
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