安心・不安という名の麻薬
以下、保健体育の教師の一言である。
「例えば保存料としてハムなどに使われるソルビン酸には発がん性があります。このように避けた方が良い危険な食品添加物について、次の授業までに調べてきましょう」
耳を疑った。
高校で教鞭を執るには、教員採用試験に合格する必要がある。
教員採用試験を受けるためには、大学に入学する必要がある。
ということは、目の前にいるのは自分よりも人生経験が豊富で、ある程度の一般常識を身に付けている人間だ。
それなのに、聞き齧っただけの知識をブログでひけらかす中学生のように、あるいは井戸端会議で「熱いお茶がコロナに効く」と吹聴する奥様方のように、精神的に未熟で知能や常識も発展途上の高校生たちに向かってそう宣ったのだ。
これまでにない使命感を覚えた。すぐに訂正しなくては、と。
だがここで話を遮っては、この先、奇人や変人の目で見られ、寂しい学園生活を送ること間違いない。
そこで、この授業においては、来週の発表でこれを指摘することが真の正解なのだと自分に言い聞かせた。
そこからの1週間は、ほぼ毎晩インターネットの海に潜り込んだ。
厚生労働省や各食品メーカーのHPを読み漁り、添加物として使用されるものはどのような審査体制で認証され、安全性の評価にはどういった方法があって、その結果と使用上限にはどれくらいのギャップがあるのかなどの情報をA4のレポート2枚にまとめた。
思い返せば高校生並みの拙い知識ではあったが、同じクラスの高校生や、彼らにホラを吹く高校教師に多少つつかれた位ではボロを出さない自信があった。
運命の日。
全員の発表後、彼の口から転び出た総括に、再び唖然とした。
「危険な食品添加物について、皆さん詳しくなれましたね。健康に気を付けるためにも、食事に含まれる成分を把握して、取捨選択をしましょう」
ADI (注1) やJECFA (注2)、ラットからヒトへの外挿 (注3) の話はどこに行ったんだ!!
1週間かけて調べ上げた知識は、統括者の不安を煽る一言で帳消しになった。
いくら安全性を主張しても、食品添加物が含まれるその一点のみで忌避される食品メーカーに同情した。
結局彼ら消費者は、添加物は「何となく不安」で、無添加や天然由来という言葉に安心したいだけだったんだ。
安心と安全は、必ずしもセットになりえないことを認知できないでいるんだ。
せめて自分の周りの大切な人には、正しく理解してほしいように思う。
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注1: 一日摂取許容量。動物実験において安全性が確認された「最大無作用量」の1/100。
注2: 合同食品添加物専門家会議。各国の専門家が毎年1回以上集まり、食品添加物の規格や安全性の評価を行う。
注3: 最大無作用量からADIを算出する際、動物とヒトとの種差を考慮して安全性を見積もる。
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