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AI短編小説「蝉と領収書」

朝の電車内、湿った吊り革に手を伸ばした瞬間、田中は一瞬だけ生を実感した。

だが、それは消え去る。ちょうどエアコンの冷気が座席の隅を撫でる瞬間のように、何も掴めない感触だけが残った。

靴の裏で踏んだガムがべたりと床に伸び、カラスの羽が駅構内を転がっていくのを視界の端で見つめる。電車は、予定通りの遅延を告げるアナウンスとともに、彼を目的地とは呼べない職場へと運んでいった。

オフィスに入ると、田中は自分の机の上に置かれた1枚の領収書に目を止めた。

それは、前日の無意味な接待で使った居酒屋のものだった。「お疲れさまです」と書かれた赤い判子が、妙に誇らしげだ。なぜそれがここにあるのかはどうでもいい。重要なのは、その紙の質感と、印刷が若干ずれているという微妙な事実であった。紙の端を指先で撫でる。指紋がこすれる音が妙に心地よい。

その一方で、今日の仕事の進捗や会議の準備などは、頭の隅でかき消された。田中はふと、ペンのインク残量が気になったので、メモ帳に意味のない線を何本も引く。黒いインクの線が交差するたびに、彼は確かな存在感を求めた。だが、それはただの線だった。

昼休み、彼はコンビニの前で蝉の死骸を見つけた。

乾ききった羽根が日差しに透け、アスファルトの上で風に揺れている。だが、そのことにはさほど心を奪われなかった。彼の興味は、蝉の足の曲がり具合が左右で微妙に違っているという奇妙な事実に向けられていた。それを眺めながら、「自分もこうして干からびるのだろうか」と漠然と思う。

同僚が何か話しかけてきたが、内容は耳に入らなかった。ただ、その言葉のリズムだけが気になった。彼らの会話は、きちんとした論理に基づいて展開されているようで、実際には意味のない響きの連続だった。まるで夏の終わりの蝉の鳴き声のように、何のための音なのか理解することはできなかった。

定時が過ぎた後も、田中は帰ろうとしなかった。

机の上で丸めた領収書を転がし、行き先のない時間を潰す。時計の針の動きは奇妙に遅く感じられ、まるで針が何か重たいものを引きずっているかのようだった。

外では、街灯の下で蛾が舞っている。蛾の翅が街灯にぶつかる音は、誰にも気づかれないまま消えていく。その音の微細な変化に、田中は耳を澄ませた。

「お先に失礼します」という同僚の声も、田中の中では背景音の一部に過ぎなかった。重要なのは、その声の裏に漂う微かな虚しさであった。それが誰も気に留めない重要な事実であるように思えた。

帰り道、蝉の死骸がまだ同じ場所にあった。

田中は立ち止まり、しばらくそれを見つめた後、そっとその横を通り過ぎる。そして、彼はふと空を見上げた。星も月も見えない曇った夜空の下で、彼は自分がまだ生きているという事実に少しだけ驚いた。

だが、そのこともまた、大した意味を持たなかった。

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