呉との戦に明け暮れた将軍・曹休(そうきゅう)
みなさんこんにちは。ただのオタクです。
冠婚葬祭の帰省から戻ったんですけど、実家の方にお出かけ着をそれなりの数忘れてしまっていました…。
むしろ実家の方が服の数が多いような気がします(笑)
前置きはこんなもので今回紹介するのは、
「曹休(そうきゅう)」を紹介しようと思います。
曹休はゲーム「真三國無双」では実は知らなかったんですが8からプレイアブル武将として登場するみたいです。主に「石亭(せきてい)の戦い」で重要キャラとして登場します。
しかし、7では司馬懿(しばい)にほとんどの手柄を持っていかれることになっています。
ーー曹休の生い立ちと人生ーー
曹休は乱世が始まって郷里を離れることになり、早くに父親を亡くしてしまいます。
父を埋葬した後老母と共に祖父が赴任していたとされる揚州(ようしゅう)呉郡(ごぐん)に向かいます。
曹操(そうそう)が挙兵したと噂を聞くと偽名を名乗って荊州(けいしゅう)を通って曹操の元へ赴きます。
自分の元にやってきた曹休と会った曹操は「この子は我が子の千里の駒なり」と曹休を褒めたとされています。
その後は曹丕(そうひ)と共に曹操から可愛がられて育てられたとされています。
曹休は仕官すると常に曹操の征伐に同行し、虎豹騎(こひょうき)という曹操の親衛隊を指揮し、後の大将軍でもあり族兄弟の曹真(そうしん)と共にあたります。
この虎豹騎というのは百人隊長を集めた精鋭中の精鋭で、曹操の親衛隊にあたります。
虎豹騎として設立する前は曹仁(そうじん)が指揮し、虎豹騎として設立されたら曹休を始め曹真、曹純(そうじゅん)が指揮したとされていて曹一族が率いる精鋭部隊ということになりますね。
曹休が初めて表立って手柄を立てた戦は曹洪(そうこう)が出兵した戦で、劉備が武都(ぶと)から漢中(かんちゅう)に侵攻した戦でした。
事実上の主将として戦に参加し、張飛(ちょうひ)と馬超(ばちょう)を撃破しました。
この手柄で中領軍に昇進しました。
そして曹休と言えば呉との戦です。曹休が呉に対しだしたのは元々呉に備えていた夏侯惇(かこうとん)が亡くなってから後任という形で任命され赴いたのが最初でした。
曹休が出発する際曹丕が自ら手を取って見送るという厚遇を受けたとされています。
任地に赴いてから夷陵(いりょう)の戦いが終わった直後孫権が派遣していた部将が歴陽(れきよう)に駐屯しており、付近にあった数千規模の陣営を破りました。
しかし、歴陽に駐屯していた全琮(ぜんそう)が固守。奮戦した結果魏軍を撃ち返し結果的に両軍ともかなりの犠牲を出して終戦。
この戦の功績で揚州刺史(ようしゅうしし)を含めて複数の昇進、侯に封じられます。しかし、この時期に曹休の母が亡くなってしまいます。
実の母が亡くなり飲食もせずに憔悴してしまい曹丕に心配されたとされています。
魏は呉に侵攻することを決めますが、曹丕の記事で書いた通りいろんな思いを抱いて呉への攻勢を強めることになりました。
いわゆる222年から223年にかけての三方面での戦いで曹休は征東大将軍に任命され東方面から呉を攻めます。部下には張遼がいたほどの重責でした。
呉は先に曹休と攻防を繰り広げた全琮や徐盛(じょせい)が呂範(りょはん)という人物が率いる部隊が洞口(どうこう)で迎撃。
古来から南船北馬という中華にて呉軍十八番の水軍が展開していましたが、運が悪く暴風雨が起き多くの船が転覆。若しくは流されてしまいこれを好機と魏軍は呉軍に攻撃を仕掛けます。
臧覇(ぞうは)に命じて襲撃させて勝利。追撃に追撃をかけますが、そこに罠があったのか徐盛・全琮が反撃。臧覇は大敗することになります。
勝利に乗じて今度は呉軍が追撃に移ります。しかし、曹休、張遼は反撃することが出来ず打ち破られてしまい征東軍全体としても大敗してしまいます。
ただ曹休は揚州牧(ようしゅうぼく)として昇進し呉への備えとして置かれることになります。
曹丕が崩御してしまうと曹叡(そうえい)から長平侯に封じられ、呉の皖城(かんじょう)に駐屯していた軍を破り呉の将軍が投降。この功績で大司馬(だいしば)に昇進し加増されました。
そして今度は司馬懿(しばい)、賈逵(かき)とともに再び三方面から呉の征伐に当たります。
曹休は侵攻に当たって山越(さんえつ)という呉の勢力圏にいる少数民族を扇動しようと画策していることが孫権(そんけん)に露見します。
これに当たって孫権は曹休を油断させるための内通者を募り周魴(しゅうほう)が自ら願い出ました。
周魴が孫権への不満の書状を送りましたが、曹休は周魴を信じることはしなかったが、周魴の近辺を調べていると内通を気取ったかのように中央から詰問の使者が何人も訪ねていました。
役所の門にまで出てきた周魴が剃髪してまで謝罪していました。これを知った曹休は全面的に周魴の内通を信じ自ら10万の手勢を率いて皖城に侵攻しました。
曹休が進軍する前に同じく三方面の一つの大将であった賈逵が到着。周魴の内通の話を聞いた賈逵が疑っていました。
しかし曹休は進軍を決定してしまっていた為敗北に備える形で共に進軍しました。
陸遜(りくそん)率いる軍勢が待ち伏せており曹休は計略にかかっていたことを悟りましたが、大軍を率いている曹休はそのまま決戦に挑みました。
左右からの攻撃で曹休を破り周魴もまた曹休の軍勢を分断し、賈逵の予想通り曹休が大敗、呉軍が勝利します。これが「石亭(せきてい)の戦い」です。
曹休の部下であった王淩(おうりょう)の奮戦。備えていた賈逵の援軍により曹休は命からがら逃げ帰りました。
この敗戦後に心に負荷を負ったのか悪性の腫瘍を患いそのまま快復することなく死去。憤死ともいえるような最期でした。
曹叡は曹休が倒れたことを悲しみ「賈逵の進軍が遅すぎた」と逆恨みするほどだったと言われています。
ーー三国志演義との違いーー
曹休は作品によっては曹真と同じく諸葛亮(しょかつりょう)や陸遜の功績を輝かせるための凡将として描かれることがあります。
ドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」では諸葛亮が北伐に向かうにあたって司馬懿を警戒する諸葛亮が魏領内に流言を実行。
司馬懿が謀反を起こして帝位簒奪を企てているという流言が飛んでおり、これを報告したのが曹休でした。曹叡はこれを流言と見破りますが密かに兵を集めているとさらに諫言します。
これは事実で諸葛亮が陽動作戦を実行しようとしてることを見破ったためでした。
司馬懿以外に陽動と誰も思っていないため司馬懿は罷免。後任として曹休が雍、涼2州を守備する役目に就きましたが、散々に打ち破られてしまい曹叡が怒り心頭に達するという場面がありました。
この作品に至っては主人公として活躍する司馬懿の引き立て役となってしまいました。それにこの場面が最後に登場することはありませんでした。
「石亭の戦い」はカットされてしまってましたし、諸葛亮が敢えて周魴と同じ作戦を行い曹真を散々に打ち破ることに成功。2人して凡庸なところが描かれることになりました。
三国志演義では金禕(きんい)という男の反乱を鎮圧したことが目立った功績として描かれること以外にはあまり登場しません。
特にドラマなどでは「石亭の戦い」はカットされることが多いので、曹休は名前しか登場しないという事もあると思います。
これは呉に対しての任務にずっと赴任していた曹休は諸葛亮や司馬懿が主人公の作品では登場することが少ないのは必然かもしれません。
ここまで書いといてなんですが、そういえば呉の人物が主人公な作品ってみないですよね。孫権自身が天下統一の野心を持っていたとはあまり思えないのも一つの要因かもしれませんね。
今回は長い無料記事になりましたが、情報をつらつらと書いただけなので有料ではなく無料とさせていただきました。
次回は大将軍にもなった曹真を書いて行こうと思います。
個人的にはドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」の曹真が大好きなので話が脱線してファン心を熱弁するかもしれません(笑)
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