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鶏肋さんが仕えた詩人・曹植
皆さんこんにちは。ただのオタクです。
友達がキングダムの映画を見に行ったらしいんですけど、話の先を大分ネタバレしてしまうというやらかしをしてしまいました。
キングダムって女性の武将が結構出てくるよねみたいな話をしてただけなんですけどね…(笑)
さてさて今回は曹操(そうそう)の5男であり、七歩の才の語源となり。「詩聖」と謳われた人物。
「曹植(そうしょく)」を紹介したいと思います。
見たことが無いんですが「曹植系男子」っていう草食系男子との韻を踏んだようなタイトルの作品があるみたいです。
今2期のアニメが始まっていて実は僕も好きで読んでる「薬屋のひとりごと」の漫画を描いてる「ねこクラゲ」さんが書かれているみたいです。ちょっと読んでみようかな?
ーー曹植の人生ーー
さっき曹植は曹操の5男と紹介しましたが、曹操の正室になる卞氏(べんし)を母にもつ息子としては3男になります。兄は曹丕(そうひ)、曹彰(そうしょう)、弟に曹熊(そうゆう)がいます。
あまり名前を聞かない弟の曹熊ですが、早世したという記録と221年(曹丕が皇帝に即位後)に蕭懐公(しょうかいこう)、229年に蕭懐王を追贈されました。子どもが跡を継いだという記録もありますが、この息子も15年の在位期間の後、後継ぎがいない状態で亡くなったため家は断絶しました。
因みに「三国志演義」にも登場しますが、同母兄である曹丕に曹操の葬儀に参列しなかったことを咎められ恐れた末に自殺することになっています。
さてさて少し話が脱線しましたが、曹植は幼少のころから詩集を諳んじていたと言われています。
息子の中でも文章に異才を放っていた彼を怪しんだ曹操が「誰かに代筆を頼んだのか?」と曹植は尋ねられたところ、曹植はその場で詩にして返しこれを気に入った曹操から特別寵愛されることになります。
詩の内容が書かれている内容が書かれているのを見つけましたが、全く詩に通じていない僕は全く訳せず意味も分からなかったので割愛します…。
曹植はなにより酒が大好きで闊達さと奔放さを併せ持った天才肌な人物だったと言われています。
これが行き過ぎた失敗も多く、天子の専用通路を勝手に通ってしまい、曹操が激怒したということもありました。
この場面はドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」でも取り上げられており荀彧(じゅんいく)が自決する伏線として使われていました。
曹植は実は14歳から曹操の遠征に従軍していたそうです。ただ、目立った軍功というものは無かったのかあまり取り上げられることはありませんでした。
参戦した戦いは烏桓(うがん)遠征・潼関(どうかん)の戦い・張魯(ちょうろ)征伐など軍歴はそれなりに積み重ねていたようですが、戦に関しては曹操がいないと何も出来なかったともとれる戦歴でもあります。
ただ軍に関しても飲酒で失敗していたこともありました。
樊城(はんじょう)の戦いにおいて曹植を援軍として樊城に派遣しようとしていましたが、曹植は酒に酔っていて曹操の招集にすら応じることが出来ませんでした。
そのため援軍は徐晃(じょこう)が派遣されることになったと言われています。
曹丕と曹植の後継争いが段々と加速してくると、それぞれに付いている臣下たちの勢力争いという系図に変わっていきました。
曹植側としては主だった人物は楊脩(ようしゅう)、丁儀(ていぎ)・丁廙(ていよく)兄弟になります。
結果的に曹丕が後継者となり魏王になると曹植の側近者たちが迫害を受けていきます。丁儀・丁廙兄弟は曹丕により処刑。
楊脩の死に関しては不明な点が多く、一説では曹丕を後継に決めた曹操が後顧の憂いを断つために処刑の機会を窺っていたとも言われています。
他には楊脩の母親が袁術との縁続きであったことを考慮したとも言われています。
曹植は魏王、魏帝との縁続きとは思えないほど惨めな生活を送っていくことになります。
その大きな要因としてはひたすら転封を繰り返されることにありました。禄は増えつつも曹植が満たされる生活を送れたとはとてもいいがたい処遇だと思います。
北方謙三先生の三国志では曹植は酒による失敗を繰り返しており、これを理由に転封させ続けます。
しかし、曹植は小さな失敗を大きな企みを隠すためと見抜いた曹丕は本当の理由が腹心達と連絡を取り合っていることにあると諜報を使って知ることになります。
不穏な動きを挙げて曹植を弾劾すると処刑をしなければならず、そうすると2人の実母である卞氏が傷つくことになります。
曹丕の元からの陰湿な性格も相まってか転封と言う惨めな方向に持っていくわけですが、司馬懿もそこに絡み禄は増えるがその分の収入が見込めない荒んだ土地を選んで転封させる場面があります。
曹植はただ捨扶持を得るのを良しとせず曹丕と曹叡(そうえい)にも政治的登用をしてほしいと訴える文章を送っていたと言われています。
つまり曹一族としての権力も欲しがったということだと思います。
ただ曹叡が即位している時には親族間との交流を復活させてほしいという嘆願する文章が増えたとされています。これに曹叡が答えようとしますが、何者かの諫言によって断念したとされています。
鬱々とした日々を過ごした曹植も、232年11月28日に41歳で死去します。この時代の人物としては珍しく没年も何歳だったかも判明しているみたいです。
曹丕の時代になってからもその前でも文章を操って乱世を生きた曹植(ついでに酒も)ですが、曹植自身は詩文の才があることは立派ではないと思っていたとされています。
側近である楊脩に送った手紙があるとされ、内容が「私は詩文で名を残すことが立派だとは思えない。揚雄(ようゆう)も男子たるもの戦で武勲を挙げ、民衆を慈しんで善政を敷き、社稷に尽くしてこそ本望というものだ」と語っています。
曹丕は「文章は経国の大業にして不朽の盛事なり」と真逆の事を語っています。知らなかったんですが、この曹丕の言葉が「文章経国(もんじょうけいこく)」という言葉の由来になっているそうです。
簡単に言えば文学が栄えると国家経営の大業に繋がって国が安定するという思想です。
曹植が語った中に揚雄という人物が出てきたと思うんですが、この人物は前漢にいた文人にあたる人物です。
知ってることはそんなに無いんですが、揚雄は当時異端とされていた道家思想を持っておりただ世間からなかなか同意を得ることが出来ずに文章を作るではなく研究することに人生を費やした人だったと思います。
その過程のどこかの作中に曹植が取り上げた一説があったのかもしれませんね。
ーーまとめーー
まとめと言う名の反省ですが、曹植の事を書くならねこクラゲ先生の作品を読んでからの方がまだ書けることが多かったんじゃないかって思います…。
前述に書いたことで曹植について知ってることは全部書ききった気がします。
あとは煮豆燃萁(しゃとうねんき)という故事成語の元になったという話もありますが、これも七歩の詩の話の続きであることなのでここで書ききっちゃいます。
曹植は文学の才が先行しているせいか曹丕との後継争いが始まるまでは登場すること自体が無い人物だからでしょうか。こういう性格って言いきれる印象もない気がします。
ドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」に至っては酒に酔ってる場面ばかりでしたし、北方謙三先生の三国志でもやたら宴を開いている場面が多かった気がします。
曹植は酒が大好き!!まとめ以上!!!!
次回はどうしようか悩んでいますが、曹植つながりで楊脩にしようかと考えていますが、いきなり変更することもあるかもしれません。
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