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三国時代の代表的な文学者の一人・呉質(ごしつ)

みなさんこんにちは。ただのオタクです。
実は最近漢字でGO!というゲームにはまってまして日本の地名の弱さに自分でビックリしてます(笑)

日本に疎い僕ですが中国史はしっかりお伝えしていきます(笑)
今回紹介するのは「呉質(ごしつ)」曹丕の太子四友の一人です。
こんなこと言っといてなんですが、実は僕あまりこの呉質に詳しくないんですよね…。
というのも、この呉質が物語の中心に出てくる作品を見たことが無いので、手元の資料が全てでございます(汗)

ーー呉質の生涯ーー

呉質はその才能と見識から曹操(そうそう)や曹丕(そうひ)から寵愛を受けていたとされています。
曹丕と曹植(そうしょく)が後継争いを始めると、呉質はこの2人の間を上手く立ち回りながら曹丕に助言をしていました。

呉質は劉楨(りゅうてい)と共に曹丕の元に賓客として出入りをしていましたが、この劉楨が不敬罪によって処罰されてしまうと、呉質も左遷させれてしまいます。
左遷中に曹操は曹植を殊の外寵愛しており、これに危機を覚えた曹丕は呉質を呼び戻して一緒に対策を練ようとしました。
と言っても呉質は左遷中の身なので行李に身を隠して密かに参内して曹丕と会っていました。
これに感づいた曹植派の楊脩(ようしゅう)は曹操に呉質が任地を離れていると諫言します。曹操はこの言を特に調査することはありませんでした。
しかし、曹丕は不安を覚えて呉質にどうするか問いました。「それなら次から行李の中に絹を入れて参内させましょう。」と助言。
曹丕が再度絹を入れた行李を参内させると案の定楊脩が再び諫言。さすがに曹操も調査に踏み切りますが、中には絹しか入っていません。
これを受けて曹操は「楊脩こそが曹丕を陥れようとしているのではないか?」と疑うようになりました。
もしかしたらこれが揚州の十八番鶏肋(けいろく)の伏線だったのかもしれませんね(笑)

217年から建安七子(けんあんななし)という建安時代の代表格の文学者が疫病などで次々亡くなっていく中、呉質は生き残り曹丕の寵愛がますます深くなったと言われています。
因みに先に不敬罪に問われた劉楨も建安七子の一人で、この217年に他三名の建安七子と同じ病気で亡くなっています。
曹丕が太子になると曹丕の太子四友になりました。
そして、曹丕が即位するとかつての遊び仲間の中で呉質のみが官職が低いままだったのを哀れみ、北中郎将に任命し列侯に採り立てます。
それ以外にも宴席などでも呉質は特別待遇を与えられました。ただこれをかさに着て呉質は傲慢で好き勝手に振舞っていました。
大将軍である曹真(そうしん)や同じ太子四友である朱鑠(しゅしゃく)にまでも無礼な振る舞いや発言が目立っていたと言われています。
それ以外にも幽州(ゆうしゅう)刺史だった崔林(さいりん)が呉質に頭を下げようとしなかったのを恨みにもち、功績を挙げていたにも関わらず河間(かかん)太守に降格したとされています。

曹丕が崩御すると詩を送って死を悼みました。
曹叡(そうえい)の代になると陳羣(ちんぐん)の記事の有料部分に書きました。誹謗中傷の一件が呉質の目立った動きと言えば動きで下。
この一件のうちに呉質は病没しました。
死んだ後は「醜侯」と諡されました。後に呉質の子である呉応が事実に反すると上奏し、それが容れられ「威侯」と改められたそうです。

傲慢に振舞っていて大将軍にすら無礼だった呉質は諡から見ても嫌われていたことが一目瞭然ですね。
「当て屋の椿」という漫画で知ったんですが、「醜」という字には頑丈なとか頑固なっていう意味があるそうです。
だから、台風でも元気に咲いている花、紫苑の別名「鬼の醜草」にも漢字が使われているみたいな件があったと思います。
そういった意味では疫病で大多数の文学者が亡くなった中生き残ったっていうことも踏まえて「醜侯」だったのかもしれませんね。

さてさてこんなところで呉質の話は以上になります。
次回は太子四友の一人朱鑠か司馬懿(しばい)を紹介将と思ってたんですが、朱鑠はあまりに功績等々の記録が無くて司馬懿は晋の初代皇帝の司馬炎(しばえん)の祖父に当たるのでまた別の機会に紹介しようと思います。
なので、次は曹叡の代で大司馬にまで昇った曹休(そうきゅう)を紹介しようと思います。
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