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鶏肋さんこと楊脩
みなさんこんにちは。ただのオタクです。
実は最近この最初に書く内容が無くなって来てしまいまして…。
まぁこの記事にかこつけて話すなら「秀麗伝」の後半部分を見返したっていうくらいですかね。
この作品面白かったんですけど、「蘭陵王」を見返しながら見てたら内容があまり頭に入ってこなかったんで見返したっていう感じです。
さて上っ面な話をしたところで本題に入らせていただきます。
今回は「鶏肋さん」こと「楊修(ようしゅう)」を紹介させていただきます。
因みに「楊脩」と表記されることもありますし、ぶっちゃけ変換も楊脩としか出てこないのでこっちの方が有名なのかもしれません。
ーー楊修の出自と活躍ーー
楊修は弘農郡の出身と言われており、弘農郡の楊氏と言えば四世にわたって大尉の職に就いた名門だと言われています。
先祖には丞相だった人物だと伝わっていますが、その信憑性は怪しいとされているとも言われています。
楊修は年号が建安年間の内に推挙されて官位に就くことになりますが、後に曹操(そうそう)直々の要請で主簿(しゅぼ)を務めることになりました。
赴任したころの丞相府は内政や軍事の仕事が累積していたと言われていますが、楊修はこの激務をよくこなしており曹操にさらに気に入られます。
ある時益州(えきしゅう)を治めてる劉璋(りゅうしょう)から張松(ちょうしょう)という人物が遣わされます。
しかし曹操は張松を冷遇します。楊修は張松の才能を高く評価しており曹操に正式に張松を召し抱えるよう進言しますが、曹操は承知することはありませんでした。
その後だと思いますが、楊修が曹操が編纂した兵法書を張松に見せたところ後に参加した宴席にて暗誦するという有能さを見せました。
これを受けて楊修はますます張松を評価しました。
この一連の件はドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」にて登場しています。
ただ、劉璋が曹操に降伏か講和の使者として張松を遣わします。曹操は使者の応対を軍営で受けて曹操軍の威光を見せびらかし、わざと張松の名前を間違えたりと挑発的に応対します。
結局怒って帰る張松が帰り道劉備に優遇されて心酔するという劉備を持ち上げる布石として使われた感があります。
そして楊修の記録はかの「鶏肋事件」でもある漢中遠征になります。
曹操が劉備と漢中(かんちゅう)で持久戦を続けている時でした。曹操が不意に放った鶏肋(けいろく)という言葉を楊修が耳にします。
「鶏肋は捨てるにはもったいないが、腹の足しになるほど肉がついていない」という意味で、つまり「漢中という地は惜しいが今が撤退する時」という意味であると楊修が1人で読み解き、撤退の準備を命じます。
夏に曹操軍は漢中から撤退することになりました。
しかし、撤退後まもなく曹操によって処刑されることになります。これが同年の秋のことだったと言われています。享年45歳でした。
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楊修の処刑理由として楊修が曹植に対して「答教」という教科書(調べましたが、どういう物かよくわかりませんでした…)を用いて曹操の意向を教えたり、妄りに諸侯と連絡を取り合ったためとされています。
王からみたら処刑の理由としては十分なものだと思えますね。
曹操の意向を教えるのは曹操の考えどころか曹植の考えさえ先に読めるということですし、諸侯と連絡を取り合うのは叛乱の動向と取られても仕方がないですね。
しかし、処刑の時機がこれだけではないとも思えます。
楊修は曹植派の丁儀(ていぎ)兄弟と両翼で曹植を支える代表的な存在でした。
その為曹丕(そうひ)の後継が決まり、曹植への寵愛が薄れていき後顧の憂いを断つために楊修に罪を被せて処刑する機会を窺っていたと言われています。
楊修も曹植との関係が自分の身に危険を及ぼすことは察していても曹植との交際を断つ動きはしなかったということです。
個人的にはこの説の通りだとしたら丁儀兄弟は曹操に気に入られていたとはいえ後顧の憂いを断つという意味では兄弟2人とも生きているのはちょっと謎です。
もう一つあって楊修の母親は袁術と縁続きであったことを曹操が考慮したとも言われいます。
まとめると明確な処刑理由は明かされていないということです!
ただ、父である楊彪(ようひょう)は引退していましたが健在でした。曹操が自ら楊修の死を知らせて楊彪の反応を見ようとしました。
楊彪は目に見えて憔悴してはいましたが、それでも堂々と曹操と対していたため曹操の方が逆に尻込みをしてしまったと言われています。
楊修は曹丕に剣を献上したことがあり、魏を興して皇帝に即位した曹丕がその剣を見て楊修が自分に対して冷淡な態度であったことを思い起こすことがあったとされています。
これで分かるのは楊修が死んでも尚誰かの心に残る存在であったということですね。どんな形であれですが…。
ーーその他の鶏肋事件ーー
まだ趙雲伝がそこまで見れてないんですが、これまで見た作品でも結構いろいろな鶏肋事件がありました。
まず代表的な「三国志演義」ですが、正史と同じく劉備との漢中攻防戦にて曹操が鶏のスープを食べていた曹操が鶏肋と呟きます。
楊修はこれを誰かから伝え聞き、曹操が撤退の意思を固めていると解釈し撤退の準備を進めることになります。曹操は勝手な行動であると憤り楊修を処刑します。
曹操は軍を退く気はないという意味を示すために劉備軍への攻勢を強めましたが、ただでさえ劣勢のうえ長征の疲労気味でもあった曹操軍は敗走。曹操自身も矢を受けて前歯が折れてしまいます。
楊修の言う通りに軍を退いていれば損害を最小限に食い止められていたかもしれない。と考えた曹操は撤退を決断。
撤退後、曹操は楊修の遺体を手厚く葬るように指示しています。
ドラマ「三国志ーThree of Kingdomsー」では曹操が漢中攻防戦に進軍中で事件がおこりました。
既に夏侯淵(かこうえん)が定軍山(ていぐんざん)で戦死した報が届いており、劉備からも挑発的な文が届いて曹操が激昂している折でした。
一人鶏のスープを食べていた曹操が鶏肋を箸で摘まんでいる所に夜の合言葉を兵が聞きに来ます。そこで曹操が「鶏肋」と伝えました。
その合言葉を楊修が聞くと、軍を退く準備をするように命じます。
何故か将軍(?)が聞くと「鶏肋は捨て難いが旨味もある、つまり曹操は撤退の意思がある」と伝え。撤退の準備を始めます。
気配を感じた曹操が司馬懿(しばい)と共に外に出て何故撤退の準備をしているか曹操が尋ねると、さっきの将軍らしき人物が楊修に言われたことを伝えます。
士気を乱したことを怒った曹操が楊修の処刑を命じます。
因みにここで司馬懿が残った将軍らしき人物に「良かったな首と胴体がくっついている」「魏王ではなく一臣下の命令を優先するようでは頭などついていてもしょうがないわ」
と言って幕舎に戻ります。この場面が大好きなんです(笑)
ついでにこのドラマでは他に楊修の登場場面があります。
赤壁(せきへき)から戻ってきた曹操が楊修に促されて修繕をしていた屋敷の庭を見に行きます。ところが曹操が一つの門に止まって「活」という字を書いて何も言わずにどこかに行きます。
不思議に思った他の臣下達でしたが、楊修はこれを見て門を壊すように命じます。何故か聞かれると「門に活は闊(ひろい)と書くこの門が広いのが丞相は気に入らないのだ」と答えました。
場面が変わって楊修が厨房に行くと「一口酥」と書かれた箱が置いてありました。これが何か厨房の人間に聞くと西涼の馬騰(ばとう)から届いた菓子を曹操が見るとそれだけ書いてどこかに行ってしまった。と言いました。
楊修は笑うと皆で菓子を食べようと言い、その場にいる皆で菓子を食べると曹操がやって来て誰が食べてよいと言ったのだ?と問い詰めます。
しかし、楊修は平然と「丞相が食べてもいいと書き残しましたので。」と答え。「一人一口の酥」と書かれていたので皆で食べろということと解釈したことを伝え、曹操は笑って楊修を褒めました。
この後呼ばれた荀彧(じゅんいく)と馬騰の真意を話し合います。この時荀彧に例の菓子を食べさせており、味の感想を聞いたりしていますが「毒の心配はない楊修達に先に食べさせた」と言われています。
曹操の言葉の読みは出来るのに詰めの甘さがここで出てきてしまい、鶏肋事件の布石のようにも見えました。
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北方謙三先生の「三国志」では、漢中攻防戦で初めて楊修が登場します。
死んでしまった荀彧の代わりとして兵站を担当させていました。しかし、馬超(ばちょう)と五斗米道(ごとべいどう)という宗教の教祖の弟だった張衛(ちょうえい)という人物が度々現れて兵站を乱しているという報告が入ります。
これを受けて曹操は兵站の方に増援を送ることにしますが、馬超と接触した西涼の兵が脱走するまでに至ってしまいます。
楊修が兵糧の状況を曹操に報告すると、「兵站はもう乱れませんか?」と聞いてくる楊修に不満を感じ始めます。荀彧ならば兵站の事を任せていれば何も心配はいらなかった。間違っても兵站が乱れるかどうかなど聞いてくることは無かったと嘆きます。
そして、楊修と話している時に自分が連れている幕僚についても考え始めます。
張郃(ちょうこう)はいましたが、それ以外は若い将軍しか連れてきていないことを後悔し始めました。これからは若い者の時代という意識もあり、経験を積ませるという意味でも従軍してきた人達は楊修も含めて若い人材でした。
その事を考えながら鶏肉を食べていると、「鶏肋だな」と呟きます。これに対して楊修は「鶏肋ですか」と返して頷きます。
翌日軍が撤退の準備をしており、楊修を問い詰めると「丞相は鶏肋と仰いました。鶏の肋は捨て難いが役には立たない。つまりこの漢中の地のおkとを仰ったのでしょう。」と答えました。
これに曹操は楊修の処断を命じ、側に控えていた許褚(きょちょ)に首を刎ねられてしまいます。
曹操は楊修を含めた幕僚の事に対して言ったのであり、漢中のことではないとしていました。司馬懿とは器が違う。と司馬懿の危険さと才能の豊かさを表す場面にもなってしまいました。
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鶏肋事件は書きたかったので、今とっても満足してます(笑)
正直ここまで登場場面が少ないにも関わらずここまでネタにされてるのって凄いですよね。
曹操や、王莽(おうもう)のように現代においてその治世が評価されたり、主人公として取り上げられたりっていうことじゃないんですよね。
一発屋芸人みたいに「鶏肋」というネタ?一芸?として登場しつづける楊修でした(笑)
さて次回何を書こうか少し悩んでいますが、「三国志ーThree of Kingdomsー」で曹丕の禅譲に尽力した華歆(かきん)を考えています。
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