「愛」という名のイリュージョン(全文#1〜#18 22000文字)
私はずっと前から「国際結婚」に憧れていた。格好良いアメリカ人の彼氏を作って、英語で喋って、結婚して、子供が可愛いハーフで、大きい庭付きの家で暮らす、という絵に描いたような結婚を夢見ていた。しかし現実となると簡単にはいかない。「恋愛」→「結婚」の難しさは国境を越えると尚更かもしれない。
アメリカ人となれば、育った環境から習慣、考え方まで全てが違う。通常50%のアメリカでの離婚率が、アジア人、アメリカ人のカップルだと80%を超えると言われている。 基本的には、アメリカ人と日本人の本質が違いが、いっしょに暮らす中で傷害になって行くパターンが多い。一方でその違いをお互いに理解し尊敬できる、幸せな結婚例もたくさんある。
彼との出会い
彼と初めて会ったとき、品が良くて、「良いおじ様」風で、スラッと背が高く、でもどこかに陰りがある印象だった。
インタリジェントで、教養があり、私が苦手なコンピューターに詳しくて、私が持つ日本文化に興味を持っていた。「正直な人」だと思った。その奥にある寂しさを私は「落ち着いた人」だと受け止めていた。
人の印象は育った環境や両親や教育に影響されるが、彼だけが持っている“孤独”は、自分自身を縛り付けている何かから解放せない殻からきている、完璧さ、厳しさ、人や自分を信じられない硬い殻からきているのかもしれない。でもそんな人を愛し、もっと彼の硬い世界を自分の世界へと、切り崩せないかな、自由な世界へ導きたかった。そのカラを破りきれなかった。もしかしたら私の中にある“孤独”と愛情の欠乏だったかもしれないと今になって思う。“愛する力”が足りなかった。
彼と初めて会ったとき、彼は別れた奥さんの話をしていたし、その離婚がとても自分を傷つけたと言っていたので、私はつい最近離婚したんだなあと思っていた。「まあ、こんな紳士的な人とどうして離婚しちゃったんだろう」と考えていた。
彼の笑顔がとても魅力的だった。「こんな笑顔をいつも見せて欲しいな」と密かに思った。私達は吸い付かれるように、初めて会ったにもかかわらず、もう5,6年は知っている友達のように、カフェで一時間くらいプライベートな話をした。私も(その時の夫と)別居中だと彼に言った。
彼は48歳。私は37歳だった。アメリカの大学を卒業したばかりで、まだ就職も決まらず、家を探している最中で、なにもかもが“これから始まる”ところだった。アメリカに移住して3年目の夏、1999年8月の出来事だった。
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アメリカで初めての就活と出会い
その夏は私にとってクレイジーな夏だった。学校を卒業したのに就職も決まらず、どうしようもない不安に襲われたり、アパートも決まらず。これからのアメリカ生活に一人で生きる自身が無かった。
ただ大学を出ただけなんて何もならない。皆もっとすごい学位を取ってるのに、まして日本人で英語も留学生並なんてアメリカでは通じない。。。履歴書を何十枚送ってもどこからも反応がない。
当時サンフランシスコ、ベイエリアでは、アパート代が高騰し、収入もない無職の私には不利になっていた。それならいっそ日本でリッチなダンナの元で贅沢をしてくらす方が良いのか。。。この選択が出来きずに悩んでいた。
初めて会った時、彼は私に、「真剣に付き合っている彼女がハンガリーに居る」と言った。でも1時間も続いた話の中で、最後の方だった。15年も前に離婚した奥さんとの事を散々聞かされた後。私が今住むところがなくて困っていると言うと、「何とかして助けてあげたいから、僕の知り合いの日本人女性を紹介するよ」といって、電話番号を教えてくれた。
彼は私の事をどう見ていたのだろう。日本人に興味があったのだと思う。私のスリムな足や歩いている姿を見て「話てみたいと思った」と後から聞いた。
それから少しすると私は初めてアメリカでの就職が決まった。就職と言ってもアメリカの大学を卒業した後のOPTという研修期間だ。それと同時に住む家も決まった。バークレーの狭くて汚いアパートだが、選択の余地はなかった。
私の人生がまた動き出した。「あの時カフェで会った彼と同じ町。でも、だから、この町に住むことにしたのかな?」と密かに思った。
9月にロサンゼルスで研修を終えてバークレーに帰ってきたとき、彼にメールをしてみた。「この町に引越してきました」という短いメールだった。そうすると彼の方からすぐ「Welcome!」と返事があった。そしてハンガリーから帰ってきたら是非会いましょうと書いてあった。
私は9月から超忙しくて超貧乏な生活を送っていた。「就職をしたから、もう仕送りはいらない」と言って、日本のダンナからの毎月の仕送りをとめてもらっていた。
お金は必要だったけど、人の助けを借りないで自立したかった。その後4ヶ月は全く収入が無く、貧乏のどん底だったが、それでも仕送りは強請(ねだ)らなかった。これが今でも私の自信に繋がっている。
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おじ様メッシー君のつもりが本気になる
11月初め、私は出版会社での取材や広告営業で忙しく走り回っていた。夏からずいぶん時間が経っているが、彼と2回目の再会をした。カフェで待ち合わせたが、食事時間だった事もあり、彼は「僕のお気に入りの寿司屋に行かない?」と誘った。
貧乏暮らしが続いていた私にとって寿司とは夢のような食事。「ええ、寿司?」と聞いた私に、「僕におごらせてね」と言った。「やったー!寿司が食べれる」と私は浮かれ足だったが、冷静を装った。彼は聞き上手な人だった。いろんなインテリジェンスな質問をしてくる。食べ物についてもグルメのようで、「お金持ちそう」という印象を抱いた。
そのディナーのお礼に、情報雑誌の記者として太鼓イベントの取材がバークレーであったので、彼を誘った。その夜もディナーに行った。私は、その頃貧乏底無しだったので、「もしかして、このおじ様、私のメッシー君になってくれないかな」と思った。
それから私達は度々会った。ある日、とてもゴージャスなディナーに誘われ、そこで突然、「ねえ、僕の彼女にならない?」と聞かれた。私は(彼に)彼女が居る事を知っていたので、「え、何言ってるの?あなた、彼女いるじゃん」と即断ったが、内心はとてもうれしかった。その夜のディナーの時の彼の笑顔や私のエスコートの仕方がとても心地よく、「これからもずっと会っていたい」と思った。
私は多忙を極めていたが、相変わらず貧乏で惨めな暮らしをしていた。仕事は寝る暇もなく、“コミッションオンリー”という制約に、4ヶ月以上も給料が支払われず、1日一食$1の生活がしばらく続いた、そんな時、彼とのディナーは惨めな日常から脱却でき、違う世界観が味わえ、私にとって貴重なものだった。「このままメッシー君をキープしたい」と思っていた。
11月25日、サンクスギビングデー、初めて彼の家に行った。ほとんどの家庭が家族とにぎやかに過ごすこの日に、彼の家はひっそりと静まり返っていた。中年独身男の寂しい雰囲気が漂っていた。家具も家も古めかしくて、シンプルで女気もなかった。
12月になり、町がクリスマスムードで盛り上がっていた頃、人々は“クリスマスショッピング”に明け暮れていた。ベイエリアはシリコンバレーのドットコムバブルが弾けた直後だったが、まだ景気が良かった。レストランもショップもとてもにぎわっていた。
そんな時彼が私に、「買い物に付き合って欲しい」といった。私はふたつ返事で、彼の(彼女への)プレゼントのアドバイスなどをした。結局彼はすごく品が良く高級なセーター($250)をプレゼントとして買った。その時定員が、「誰へのプレゼント?」と言った。
私が横に居たので、当然私が彼女で誰かにプレゼントと思ったのか、「妹さんへ?」と言った時、彼がいつものスマイルで、「to my girl friend」
と言った時、初めて強い嫉妬を感じた。
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#4 計画性を持って“その日”を仕掛ける
12月、彼の彼女が来た。彼が突然電話してきて、「僕の彼女といっしょにディナーしない?」と言ってきた。「いいよ」と私は出かけ、その時始めて見た彼女に対して、「勝った」と密かに思った。彼女はおとなしそうで、プレインな中年女性、私はまだ若くはつらつとして、彼をいつも笑わせていると勝手に自己評価をして、うぬぼれていた。
彼は私に「クリスマスやお正月はどうするの?」と気を使ったような言い方をしていた。「家族と会うから」と適当に濁したが、実は、私は日本のダンナとハワイ旅行を計画していたので、そっちの方で気がまぎれていた。
この年、年末年始旅行が、私とダンナの最後の旅行になった。「ミレニアム」を祝おうという事で、私達は特別なホテルを予約して、カウントダウンも楽しんだ。ハワイへ二人で行くのは10回目。結婚して5年目から毎年のように連れて行ってくれた。(この優しいダンナさんとの事は別のブログに書き記そうと思う)
1月から2月にかけて、私達のデートは真剣になってきた。彼は貧乏そうなアパートに住んでいる私に対して、「僕の庭にスタジオを作るから僕からアパートを借りない?」などと言ってきた。急速に私達は近寄りだした。
雨が多い2月だった。私達は毎週のようにバレエやシンフォニーに出かけていた。コンサートがあるときは必ず彼は食事に誘ってくれた。私はおしゃれをして出かける機会が増え、このおじ様といっそう(精神的に)近づいた。あるロシアのピアニストがソロリストで演奏したコンサートにとても感動した。そんな私の様子を見て、そのピアニストのCDを私にプレゼントしてくれた。これが最初の彼からのプレゼントで、私はそのCDを聞きながら、毎日彼の事を思った。
彼が3月にまた3ヶ月ハンガリーに行くと言っている。私はすでにその頃、「この人が欲しい」と思っていたので、それまでに彼の心を私の方に強く向けたかった。
そして、その日はやってきた。運命を変えるのはいつも男と女の関係になる時だ。私は計画性を持って“その日”を仕掛けた。
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#5不思議な夢のお告げ
その日を境に私達の関係は変わった。心がもっとそばにある気がした。そんな最中、彼はハンガリーに行ってしまった。これから3ヶ月間、私は一人で何をしようかと考えていた。
私の仕事は相変わらず超忙しかったが、まだ貧乏の最中。そんな時、事件が起こった。車がアパートの駐車場から盗まれてしまったのだ。そんなことがあり得るのか。さすがアメリカならではだ。翌々日車は見つかったものの、事故をした挙句タイヤがパンクし、ボディーも傷つけられ、路上に乗り捨ててあった。私はその修理費とH1ビザ(アメリカでの専門職ビザ)の申請の為の弁護士代で、お金が必要になっていた。その車の修理代と弁護士代で約$4000が必要だった。
あるメールを彼に送った。「車を盗まれて、事故車になって戻ってきた。それを修理するのに、どうしてもお金が必要だから、$2000貸してくれない?」という内容だった。こんな大胆なメールは関係を持った人意外には書けない。
すると、なんと次の日にリクエストより上乗せされた$3000のチェックがCITI BANKから送られてきた。そこには「For my frind」と書かれていた。私はその時の心強さは忘れられない。それと同時に彼に対する信頼が一層増し、家族のような暖かさと友情を感じた。同時に彼女のところに居る彼に強い嫉妬心も抱いていた。
私と関係を持って、ノウノウと彼女と暮らしている彼がとても憎らしかった。彼からは3日に1回くらいのペースでメールをもらったが、そんな私の感情の起伏で私は3週間以上も全てのメールを無視した。
彼のメールは長く退屈で、ほとんど“私が知らなくても良い”つまらない情報ばかり。その彼の日記には、彼が彼女からとても良いバースデーを祝ってもらった事も書いてあった。私がどれだけやきもちをやくかわかって書いているのか、悪気なく書いているのか不思議だった。
メールを無視し続けたある日のこと。突然、そんな私の感情を露にしたメールを送った。彼はビックリしてたちまちメールを返してきたが、中身は, (私が)そんなに彼の事を思っていて、君を傷つけてしまって「sorry」と何度も書いてあった。彼も真剣に私と向き合う姿勢であるという気がした。
でもここまで私のメールをマジメに捉え、落ち込んでいる彼の性格は、正直、マジメ、暗いの3拍子が揃っていた。でも、どこか謎めいて、“セクシーなおじさん風”に私には映っていた。これから、この人をどうやって私のものにするか考えていた。
そんな時、私はとても不思議な夢を見た。この夢はまるで“神のお告げ”のように私に信じ込ませるパワーを持った。しかもクリアに目が覚めてもそのシーンがビビットに記憶されているのだ。
その夢とはーー私は彼といっしょにツーシートのスポーツカーに乗っている。彼は得意のドライビングでどんどん飛ばす。でもそれは真っ暗な闇の中で坂道はほとんど直角。その直角の真っ暗な道を彼はどんどん走っていく。「恐い、停めて!停めて!」と私は叫ぶが、彼は自身たっぷりに突き進む。そしてその直角にあがって行った車がブラックホールから抜け出すようにスポーンと宇宙に抜けた。
そしてそこにはミルキーウェイが広がり、私の体は無重量の中、中にフアフア浮きステキが銀河を見ている。私はずっとその夢が神のお告げだと思っていた。
「今は無き将来もいつかこのように彼が私をリードしフリーダムを手に入れるだろうか」と密かに思った。
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#6 まるで愛人ーその場だけの愛の伝達
彼が居ない3ヶ月間、私の貧乏生活は底知れぬものだった。大体OPT(大学を卒業した後に研修として働けるビザ)でコミッションで、1日$1の生活が何ヶ月も続いた。しかしやっと暗いトンネルを抜けたようにビジネスの方法を見出し、スポンサーも取れるようになり、仕事が乗り始めた頃だった。死ぬほど働いて、一日中アパートから一歩も外に出る時間もなく、UPS(配達)もいつもピックアップに来てもらっていた。意識がなくなると寝るだけで、朝は電話で6時(NY時間の9時)に起こされる毎日だった。
そんな時、以前女に騙されて私を追い出す羽目になった元ルームメイトがその女と別れ、また私をサンマテオの家の同じ部屋に呼び戻してくれた。春には他の出版会社からヘッドハントされ、アメリカの就労ビザをスポンサーする事も決まった。仕事は忙しかったが、環境はバークレーのボロアパートよりよほどマシだった。そうやって仕事に明け暮れて3ヶ月が過ぎた。
6月、私の誕生日の前の日に、彼がハンガリーから帰ってきた。いつも彼は帰ってくると、ハンガリーの生活の事ばかり話す。私を誕生日ディナーに連れて行きながらもそんな話をする彼に「無神経だな」と思った。でも初めて私に披露してくれたネクタイ、スーツ姿はとても格好よかった。その夜、私達はロマンチックな夜を過ごした。3ヶ月の穴埋めと思いたかったが、まだ彼の心は私の方には完全にはなかった。
でもそれからの一ヶ月間、私のしたたかな努力もあり、また彼の心を少しずつ取り戻したような気がする。私達は頻繁に会い、よくコミュニケーションをとっていた。しかしどれだけ頑張っても私はいつも2番で彼女が1番。いくら抱き合っても、砂のように流れていく、その場だけの愛の伝達だった。私はまるで不倫をしている愛人のようで、会話の中には、未来の言葉は一切なかった。
いつも聞かされていたのは、彼女がいつ来て、彼がまたいつハンガリーに行くということだけ。そしてもうすぐ“私の時間(彼との)”が終わる時、彼にお願いした。「今度彼女が来たら私は去る(別れる)から、その代わり誰か男を紹介してね。あまりにも寂しすぎるから」と。
7月4日、アメリカの独立記念日に呼ばれた彼の友達が主催するBBQに彼といっしょに出かけた。友達に紹介されると、公認になったようでうれしかった。そこで出会ったカップルとは、この後もずっと付き合うことになった。
その夜、そこに居たお金持ちの友達の自宅で花火を見る事になった。
そこの家で私はハッパをして、また前のように意識が朦朧としてしまった。私を狙っている独身男が居たが、何も起こらないように、彼がピッタリ私の横について守って付いてくれてたのが心強かった。その手の暖かさを朦朧の中でもはっきりと覚えている。
7月の半ば、いよいよ彼女が来た。私はもちろんお呼びでないし、そっとしておいた。いつものようにサンマテオの家で仕事に没頭し2人の事は忘れようとしていた。
でも数日後、彼から毎日電話がかかってきた。彼はいつも多分彼女が寝た後、11時過ぎから夜中にかけてかけてきて、私は初めて、彼からの「愛の告白」を聞く。「僕が何を言おうとしているか分かる? 君に会いたい。。。」彼の心は揺れ動いていた。
そしてついに彼女が彼の家に居るにもかかわらず、私に会いにサンマテオまでランチにきた。その後私の部屋で関係を持った。「恋をしている男」を感じた。
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#7 三角関係のなれの果てー暗闇に入る
兼ねてから彼と約束をしていた事がある。「私は身を引くから、後釜になる男友達を紹介して欲しい」と。その約束どおり、彼の友達を紹介してもらうパーティーが、その友達の家で開かれることになった。彼のハンガリーの彼女も一緒に。
その時、私に送ってきた場所のディレクション(行き方)を見て少々恐ろしくなった。細かすぎる、長すぎる。その説明はきっと彼の性格そのものなのだろう。
そのパーティーで、私達はもう一つの約束をしていた。「絶対私の前で(彼女と)イチャイチャしないでね」。
でも彼は約束を破った。それは私が最初からやきもちをやくと分かってやったのか、自然に出てしまったのか。彼が紹介してくれた友達は、多少なりとも私を気に入ってくれたように映ったので、「彼の目の前でこの友達と性行為をしても良い」という気持ちになった。
そしてまた私はあてつけにハッパをして意識もうろうとした。その友達に寄りかかって泣き始めた。するとずっと涙が止まらなくなった。彼はそんな乱れた私を残して帰るのは、耐え難かったと後で言っていた。
彼女の前で私の頬や首にさわり「Are you OK?」と何度も繰り返し、後悔しながら帰っていった。
私とその友達は二人きりになったのに、その友達は私に何もしなかった。ただ大丈夫か、家に帰れるかと気を使って、ずっと私の意識がはっきりするまで待ってくれていた。車に乗っても、途中まで車で後をついてきて来てくれた。とても良い人だった。
それから2,3日経って、すごい事が起こってしまった。彼は滞在中の彼女をハンガリーに帰してしまった。その彼女を空港まで送った足で、私が住むサンマテオの家に来たのだが、私はあいにく外出中で、彼の感情的な置手紙を見てただただ驚くしかなかった。どんなに二人が傷ついたか手に取るように想像できた。
それから彼はクレイジー状態になった。きっと三角関係がねじれて、どうしようもなく恋をしている自分と彼女への想いや責任とで、暗い闇の中に入ってしまった。私に「彼女とは別れた」と言っても、心の中では罪の意識と思いやりを同時に持っていた。しばらくすると、私とも話せなくなったし、会いにも来なくなった。私は彼にもう少し時間を持たせようと思った。このまま上手く行くとも思わなかったし、この恋を終わらせたくもなかった。
しかしいつまで経っても答を出さない彼に私はイライラし始め、何の約束もないのにある日、バークレーの「私達が出会ったカフェ」まで行った。すると木陰のテーブルに暗い顔をした彼が座っていた。私達は2時間くらいそこで話した。
その後家にいっても彼の瞳はうつろだった。そのうつろなまま、私達は関係をもった。そこには、私が独占するはずだったベッドルームに彼女の写真が何十枚も飾られていた。彼女の笑った顔ばかりがそこにあり、そして彼女が涙を流した同じベットで私達はセックスをした。過去にこれほど空しく切ないセックスはなかった。
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#8 突然の愛の告白
一向に解決の出口が見えない中、私達は久しぶりのデートの約束をした。
闇の中にいる彼を連れ出そうとサンタクルーズに出かける企画を立てた。私が好きな海と遊園地がある場所で思い切り海風に吹かれ、ジェットコースターに乗れば気分も変わりそうだと思った。
サンマテオの家(その時はバークレーからサンマテオに引っ越しをしていた)に私を迎えに来た彼は、まだ悩みの底で昨日もほぼ眠れなかったらしい。でも私はこの日のデートに掛けていた。一日中彼とランチからディナーまで一緒に過ごすのは初めてかもしれない。それでも彼を闇の中から引っ張り出せなかったら、私の力不足に違いない。その時は諦めようと思っていた。
今日は時間がたっぷりある。久しぶりに彼と全く雰囲気の違う遊園地で遊んだり、食事をいっしょにし、フルデートを楽しんだ。彼女の話は一切持ち出さないように気をつけた。そして時間が経つほど、少しずつ彼の笑顔を見ることが出来た。その夜、サンマテオの家のルームメイト(女性)といっしょにお家で食事をした。家庭的な雰囲気で、全く当事者ではない人も挟む事で、新しい風を彼の生活の中に入れてあげたかった。
その後、私の部屋のベッドで彼が真剣に話を始めた。「君に言わなければいけないことがある。。。」私はとっさに、「別れ話なら聞きたくないから、何も言わずにこのまま帰って。もう傷つくのはたくさんだから。。。」と言って壁側を向いた。この瞬間「彼の決断を聞ける」でもきっと別れると言うんだと思い、今にも出てきそうな涙を必死で堪えて、覚悟を決めた。絶対に振り返って涙を見せないと自分に誓った。
彼は話を続ける。「ハンガリーにもう一度行こうと思う。今度は彼女と別れる為に。ちゃんと荷物も取りに行って精算したい」と言った。私はびっくりして振り返った。考えもしなかった彼の答だった。「え、、、??」あまりにも突然で言葉がでなかった。
しばらく沈黙が続いた後、私は「Do you love me?」と彼に聞いた。彼は、「。。。yes, I love you」と言った。この時初めて私たちは、「love 」という言葉を使い、愛を打ち明けた。
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#9 心がどんどん彼から離れていく
そしてその9月、彼はまたハンガリーへ行った。でもその3週間の間、私の心理状態が大きく変わってしまった。私のルームメイトのディスクロージャー(告白)で、私の彼に対する信用が大きく揺らいでしまった。
彼がそのルームメイトの首付近にカジュアルなキスをしたというのが原因だった。「彼女が居るのに私とも浮気をしている彼は外から見て、だらしのない大人に見えた。そういうことをする人だから、今度は私のルームメイトにキスをしたりするのだ。もしかしたら他の女性とも同時に関係を持っているか、これから持つかもしれない」という思いで脳が支配された。
彼を待っている3週間、そんな事を思い悩み、同時に彼に対する愛情がどんどん消えていくのがわかった。「だいたい別れる彼女の家にどうして3週間も滞在する必要だあるのだろう?」言わずとしれたことで、その間も彼女と寝ているのは分かってた。このような状況で二人の女性と同時に寝れるのだろうか?そして今回のキス事件。どれをとっても彼をマイナスに評価してしまう材料しか見当たらなかった。
そして彼が帰ってきた。空港に迎えに行ったが、彼と久しぶりに会えると言うのに胸のときめきさえなかった。インターナショナルロビーに行っても彼と会えなかった。そのうち携帯に電話がなり、私達は一応会えたのだが、私は「仕事が忙しい」と言って、彼を家に送っていこうともしなかった。
心が無いのを見透かされたくは無かったが、変に演技もしたくなかったので、軽くキスをしてその場から消えた。この週末に会いに行くと約束をして。
その間の彼の動揺は計り知れないものだったらしい。私の顔を見るまで何が起こったのか彼にはさっぱり分からなかった。涙の末、遥かハンガリーの彼女と分かれてきたばかりなのに、今度は私にまで振られるとは夢にも思ってかったに違いない。私の気持ちを確かめて旅立ったはずの彼の戻りを待っていたのは私からの別れ話だった。
その週末、私は「大事な話がある」と彼に予告をし、彼の家を訪ねた。私からの質問は「xxxxさんとした? xxxxさんとも出来てたの?」とか突拍子もない質問で、彼の口から過去に出た女性名前を勝手に出し疑った。
彼は目を丸くして、「what?」と何度も繰り返した。彼は私の誤解をすぐに解こうとしたが、私の中には彼への愛情がもうほとんど残っていなくて、ただ、「この人といっしょにいるのは退屈」と強く感じた。
いきなり「帰る」と言った私に、「どうして!3週間も会えなかったのに。。。いっしょにいたい」と言ったが、どうしても帰るといった私に対して、彼は泣きながら、私のガウンや下着をまとめて持ってきて私に渡し、「わかった、いいよ出て行っても」と言った。
彼は私に背中を向けて泣いていた。彼の悲しみがとても伝わってきた。「かわいそう」と私は同情した。「わかった、じゃあ今日はいっしょにいる」と彼との夜を心はエンプティーのまま過ごした。
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#10 三角関係から脱却ーー初めて恋人となる
それから何週間か経ち、その間彼は、私の心を取り戻そうと大変な努力をした。いつも「おはよう」や「おやすみ」のテキストや「Love」サインを送ってきたり、オンラインで綺麗な花を家に届けたり、プレゼントをくれたりした。そんな彼の努力の甲斐もあって、私の“空虚”は少しづつ回復していった。ガスがなくなった車にどんどんエネルギーが注ぎ込まれた感じだった。その間、「元カノ」の話は一切しなかった。
やがてエネルギーが満ちていくと車は再び走りだした。私達はもう誰にはばかる事もなく、アクセルペダルオンリーで恋をどんどん加速させていった。今まで愛人の立場で旅行も行った事が無かったが、初めてプランを立ててくれた。そして二人の初めての旅行は、私が予てから行きたかった、サンタバーバラだった。(大学がサンラバーバラだった為、この街は私にとって米国で第2の故郷となる)
彼はサプライズでマスタングのオープンカーを借りて、ホテルの予約もしてくれた。その時の彼の私に対する態度は彼氏として最高だった。食事や買い物やビーチでのアクティビティーなどすべて私の好きなことに付き合ってくれ、欲しいものは何でも買ってくれた。
今までずっとモヤモヤとした期間を経て正式に恋人となり、私達は次第に将来を語るようになった。二人が描く将来の夢はとても似てて、お互い「私達はきっとステキな将来をいっしょに送ることができる」と夢を膨らませていった。2人はフリーランスの立場。パソコンとWi-Fiさえあれば、世界どこに居ても仕事ができる恵まれた仕事環境を持っていた。
たとえば、「ヨーロッパとアメリカを半々くらいづつ住むのいいね」とか、「そこに日本も加えようか」とか、もう少し広めの新しい2人の家を持ちたいとか、沢山旅行をしたいねとか、子供がいない私達は自由な人生設計が可能だった。自分達のこれからのライフスタイルはきっと2人にとって素晴らしい未来になると期待を膨らませていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー夫からの手紙
そんな時、一通の手紙が日本から届いた。私の夫からだった。とても暑い便箋に、私はいつもと違う“何か”を感じていた。私たちはこの時点で5年間別居してて、それぞれの道を歩き始めていた。夫の思いやりで、私がアメリカで就職して合法に働けるビザが取れるまでは、離婚せずに待ってくれていた。私はその年にH1-Bステータスの就労ビザを取得していた。
その手紙には離婚届が入っていた。もうすでに夫の名前は記載されていて、私の名前を書き込むだけだった。そしてそれに添えられた手紙には、世界で一番やさしい夫の私に対するたくさんの想いが込められていた。私達はすでに別々の国で違う生活を始めて5年が経っていた。二人で納得して結論づけたはずなのに、夫と出会ってからの18年間を思うと、これまで暖めあった愛情や楽しかった結婚生活の一シーンが次から次へと蘇り、後から後から涙が溢れた。でも私達はすでに新しい未来に向かってムーブオンしていた。私はこのままアメリカで成功するしか道はないと改めて確信した。
#11 恋愛と仕事の不均衡「君は僕に時間をくれない」
アメリカの”新しい彼氏”は色々なイベントや旅行のプランをして、私を楽しませてくれた。クリスマスにはバレエ、ロマンチックディナーやプレゼント等用意したり、クリスマスツリーを二人で買いに行ったり、初めて迎える二人だけのクリスマスは、バレエの後、ゴージャスなディナーをプランしてくれ、最高の恋人同志の夜だった。
彼がやっと私のものになったのに、100パーセント私の方を向いてくれると、私自身は少しずつ苦しくなってきた。
一月にはフロリダ、私の誕生日にはカリビアンクルーズとイベント計画は次々にやってきた。同時に彼の独占欲も強くなり、私は少なくとも束縛感を感じはじめていた。私の仕事は相変わらずとても忙しく、支局長の役割を果たすべく、1日15時間は働いていた。週末もほとんどなく、そんな日本的な仕事への理解は得られず、彼はストレスを募らせていた。
私が「週末も仕事」と言っても、仕事をしても良いから必ず家に来るように要求したし、雑誌の取材や配達にもついてくるようになった。そして「君は僕に全く時間をくれない」と文句も言うようになった。私は自分の仕事だけでもコントロールするのが大変だったうえ、このわがままな彼氏をケアするのは仕事以上に困難を強いられた。
レストランに行く時間も無かった私は、彼との時間を作るのがストレスとなり、デートを次第に楽しめなくなっていた。この外国で就労ビザを取り、グリーンカードに繋げる事がどれだけ大変な事なのか、この人には分かっていなかった。自分の仕事に責任感とやり甲斐も感じていた。
ある日私は、「ちょっとデートの約束きついから付き合いを休憩したい」と彼に申し出た。彼は「え」?とびっくりした表情で、「どのくらい?」と聞いたので、「とりあえず2,3ヶ月くらい」というと、「2ヶ月も会わなかったらそれはもう恋愛とはいえない。別れるのと同然」と言ってきた。しかし彼は相変わらずバレエ、フィルハーモニックオーケストラの第ファンで、購読チケットを購入して、ディナーをセットにして私の予定を容赦なく埋め尽くすのだ。私は仕事と恋愛の両立にとても苦しんでいた。
1月、そんな行き詰まった雰囲気を変えようと、思い切ってフロリダ旅行に出かけた。フロリダには彼の親友と私の従兄弟がいる。私達はフォートローダーディルで3泊したあと、従兄弟のいるオーランドへ移動した。世話好きな従兄弟は、私達を大事な客のようにもてなし、ディナーも毎晩彼が勤めるレストランでご馳走してくれた。
その夜、私はセクシーな黒いドレスを着てディナーに出かけた。15分ほど早く着いた私達は、レストランで何かすごく良い雰囲気に包まれ、この旅行で二人で居ることにとても自身が着いていた。そしてこれからもその気持ちがずっと続くような気がしていた。
そのフロリダの滞在中、レストランで従兄弟を待っている時、突然彼から、「僕達きっとすごく楽しい人生を送れるよ」と彼は大きく目を見開いた。「結婚したい」と言った。
私はこの彼のプロポーズ的な言葉に安堵感を感じながらも、なんと返事してよいかわからず、「そうね、きっと幸せになれるかも」と言った。彼はとてもびっくりしたような、そしてとても幸せそうな顔をして、二人はしばらく見つめあっていた。そこに従兄弟が来た。
フロリダ旅行が終わると、私達の絆は揺るぎが無いものになっていくと同時にケンカも増えていった。
3月、彼の誕生日を初めて二人で祝った。私は彼をカリストガ(北カリフォルニア、ワインカントリーに位地する温泉地)に連れて行き、そこで一泊をし、カップルスパ、泥浴、ハイク、そしてロマンチックディナーを楽しんだ。彼との関係はこの頃最高潮に達していたと思う。
いっしょに居てもセックスをしても愛の表現は満たされなかった。もしセックスをすることが最高の表現だとしたら、それだけではものたりない。この人とこれからもずっと一緒に時間を過ごすことが究極の愛の表現なんだと思い始める。私の頭の中で、「結婚」という文字がぐるぐると巡っていた。
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#12 離婚から立ち直れない、私の中の“エンプティー”
4月、私は人生最も悲しいイベントの為、日本へ一時帰国した。離婚の最終整理をしに夫が住む東京に一週間滞在した。この時、夫もまた真剣に付き合っている彼女がいた。ほぼ同居をしているにもかかわらず、私が滞在する2週間、彼女は私達を二人きりにしてくれた。私は、「なんという理解ある彼女なんだろう」と感動した。
夫は私が帰ってきたのをとても喜んでくれ、毎晩私が作る料理を喜んでくれたり、彼も私に料理を作ってくれ(最後の)夫婦のような生活を過ごした。でも荷物の整理をしているうち、空しさと彼と別れるという現実に、毎日涙を流した。
その15年の重みは半端ではなかった。彼からもらった手紙やプレゼントなど、思い出が多すぎて、夫の私を想う優しさがあちこちに刻まれていて、感情を抑えることが出来なかった。でも彼は私よりも先に精神的なけじめをつけていた。新しい彼女も紹介されたし、家には彼女の趣味であろうハーブの鉢植えが幾つもあった。5月の一番心地よい陽気の中、心は寒かった。
夫は成田まで送ってくれた。「お互い第二の人生をしっかり送ろう。これからもずっと家族だからな」という言葉が最後だった。アメリカへ戻る飛行機の中でもずっと泣き続けた。書類のサインだけだが、法律的にもう彼が私と家族でないということがとても悲しかった。
出会ってから常にいっしょに過ごした18年間、そして14年間の結婚生活はサイン一つで消えてしまった。私の人間性を育てあげ、そしてアメリカ留学を全面的にサポートしてくれ、アメリカでの新しい生活が始まるまでの5年間を応援をしてくれた夫。
二十歳の時に出会い、共に劇団を立ち上げ、一緒に愛を育み成長してきた二人の歴史や愛情は消せるものではない。様々なシーンが走馬灯のように頭に浮かんでは、涙があとからあとから溢れてきた。私は夫に心からの「ありがとう」を繰り返しながら、次の人生のステップの準備は始めなければとサンフランシスコ空港に向かった。
5月、日本から帰った私を彼は懇親の笑顔で迎えてくれた。でも私の心はエンプティーだった。彼に触られるのもイヤなくらい、ずっと夫の事を考えていた。今まで私の人生に深くかかわってきた人間が私から遠ざかる。もう他人にもどってしまった現実をまだ信じたくなかった。し
ばらく彼に笑顔も見せることができなかったのに、彼は私を無理やり抱いた。「思いやりがない人だ」と思った。また私の中の“エンプティー”を埋めるのにどうして良いか分からなかったが、彼は私がまた「別れる」と言い出すのではないかと心配していた。
彼は私が興味あるもの全てにチャレンジしていた。10歳の年の差はあまり感じなかったが、夜のアクティビティーは世代の違いで退屈だった。旅行やディナーの好みは一致していたが、夜、ダンスなど遊びに行きたい私と家で映画を観たい彼とは温度差があった。
当時サルサに夢中だった私といっしょに踊るために一緒に個人レッスンを受けたり、デートも几帳面にいろいろリサーチしてロマンチックな時間を演出してくれた。
私に合わせてそういう事をしてくれたのか、それとも単なる独占欲でそうしたのか、今となれば後者だったかもしれない。仕事の合間に女友達に会う事もままならないまま、時にはデートが仕事からのエスケープにもなり、時には負担だった。
しかし彼の歩み寄りとは裏腹に、私たちは真剣にデートをすればするほど、喧嘩が段々激しさを増していった。そして時々別れる、別れないの口論も頻繁になった。一度は私が彼のデートではなく、彼になにも告げず他のパーティーに行った時、そのパーティーの証拠写真を突きつけられて責められた事がある。その時は恐怖を感じた。
私たちは真剣にデートをし、傷つけあい、泣き、孤独を感じ、また仲直りする、その繰り返しが数年続いた。
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#13 カリビアンクルーズでロマンティックに浸る
私の40歳の誕生日をカリビアンクルーズの船上で祝いたいと兼ねて彼が予約していた、初めてとなるクルーズに出発した。私がいままで経験した旅行の中でも一番贅沢でロマンチックになった。まして海好きの私にとってはたまらない。青い空と青い海の真ん中で、何が起こるのかワクワクしていた。
大きなクルーズ船に乗船すると、すでに多くのアメリカ人が乗り込んでいて、皆表情が明るく、カクテルやワインを手に恋人や家族と語らっていた。私たちは窓付きの部屋に案内され、そこでサプライズの大きなバラの花を受け取った。これは彼がサプライズで用意してくれたもの。私のクルーズスピリットは大きく高鳴り、夢のような舞台で主役を与えられたような気分になった。
クルーズは、超贅沢な事を毎日やっても許されるスペースと知った。イベントやオプショナルツアーなどすべて彼がセットアップしてくれた。海を眺めながらのスパやネイルやフェイシャルまで、これまで味わった事のないラグジュリアスな体験だった。
夜のイベントで私の好きなダンスパーティーで、彼はタキシード姿で現れた。私はロングドレスを着て、紳士淑女を演出したり、まるで新婚気分。私達は全身全霊でこの旅行を祝い、ロマンチックなムードに浸っていた。
まるでカリブの海を独り占めしているような錯覚に落ちるほど360度美しい海に囲まれ、潮風が吹くデッキに座り、カクテルを飲んだ。私達の雰囲気は絶好調に達した。
すると、「僕たち結婚しない?きっとハッピーになれると思う。どうしたら結婚してくれるの?」と言った。「え」?私は正式なプロポーズとは受け止めていなかったので、心地よく彼からの愛の言葉を聞き流していた。その夜、最高の誕生日をエメラルドグリーンに輝くカリブ海で何度も愛を確かめ合った。
サンフランシスコに戻ってから、私達はまるでもう家族のように、新しい家を探したり、新しい家具を買ったり、一緒に指輪を見に行ったり、私の“結婚”に対する期待と夢は大きく膨んでいった。
「きっと私はこの人と結婚する」。この人となら私の理想のライフスタイルが手に入ると思った。ロマンス、お家、そしてヨーロッパとアメリカに拠点を置くライフスタイルが可能になる。2人ともパソコンひとつで世界どこでも仕事ができるライター。未来の人生をカタチをお互いに想像していた。
おとぎ話から現実へーー傷つけあう2人
しかし、そんなおとぎ話のようなストーリーは長く続かなかった。現実は、愛していても傷つけあう恋人のフェイズに入ってしまった。特に彼は好きになればなるほど相手を独占したい気持ちが強まって、私の自由を尊重しなくなり、やきもちを焼いたり、また自分の習慣や考えを私に押し付けたりしていた。独占欲が強い彼といくら楽しい週末を過ごしても、家に帰るとどっと疲れていた。
彼との喧嘩は次第にエスカレートした。その度に夫を想って泣いた。夫は私を泣かせたりする事は一度も無かったし、いつも私を中心に物事を進めていた。
そこには全く違う“愛”の形があった。ひとつは自分の気持ちを犠牲してでも相手の幸せを願う“犠牲愛”と、もう一つは、自分中心に物事を進め自分のものさしで相手を判断する“自己中愛”だ。
この思いやりの違いは、後になって私に深い疑問を抱かせる。自己中心的な愛は、相手を変えようとするヘンな力が働く。愛しているのに、どうして2人は傷つけあうのか、どうして恋愛にストレスを感じるのか、その時はわからなかった。
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#14 バレンタインデー:プロポーズの日
2002年のバレンタインでーの日、私は自分が受け持つタウン雑誌の3月号の取材原稿をかき集め、朝からバタバタと忙しくしていた。この月、日本の有名野球選手がサンフランシスコジャイアンツに入団した事もあり、寝ない日もあるくらい忙しかった。
恋人同士にとって大切なバレンタインデーの日、約束のレストランに着替えと化粧道具を持ち込みで汗だくで駆け込んだ。それでも30分も遅刻してしまった。
それでも普段待ち合わせ時間にうるさい彼が、なぜか何も言わず私に暖かく接してくれた。「あれ、怒られない?」 私も髪の毛を振り乱しながらもこの日は“何か”を予感していたのかもしれない。
高級レストランに遅れて登場し、レストランのトイレで化粧を直し、ドレスに着替え、更に時間をかけている。支度を終え彼の待つテーブルへ向かった。彼はいつもよりニコニコしていて、スーツを格好よくキメていた。
そしてその時は来た。
コース料理も終わり頃でデザートにさしかかった時、彼は目をキラキラさせながら、ダウンニーで「君が欲しい。君だけを見て生きて行きたい。Will you marry me?」と言い、私にダイヤモンドの指輪を差し出した。「これこそ、今までアメリカ映画に出てきたシーンだ。それが今、私の人生で現実になっている」。私はこみ上げてくる涙を抑えながら、「Yes」と言った。もう心の準備はとっくに出来ていた。この瞬間こそ、女の幸せを感じたことはない。何よりも女性は愛されて幸せになるんだ。左指に光るダイヤの輝きを毎日見てはニヤニヤしていた。
「私達は家族になるんだ」という喜びは日々私の精神状態を落ち着かせていた。そして私の家族にも挨拶をしようと私達は初めていっしょに日本に行く計画を立て、その年の桜が咲くであろう4月1日に日本へと旅立った。
私のクライアントの計らいでビジネスクラスをとってもらい、機内でお祝いのシャンペーンをサービスされた私たちの幸せ度は最高潮に達していた。初めての日本訪問に彼の半端ない高揚感もしっかり伝わってきた。
こんな破天荒な私が突然アメリカ人の婚約者を連れてきても、両親は暖かく迎えてくれた。温泉旅行にも連れて行ってくれ、彼をもてなしてくれた。自分が生まれた国を好きな人に案内できる、これほど嬉しいことはない。
どこを見せても私の誇れる国の情景や郷土料理や世界先端の料理など一緒に体験しながら、彼が私の国を好きで楽しんでくれることに心から喜びを感じた。彼はどこに行っても私の家族や親族、友達からキングのようにもてはやされ、上機嫌だった。
初めての日本の景色は彼にどう映ったのだろう。彼の夢だった日本訪問はこうして生涯の思い出となった。
#15 愛が崩れる時
アメリカに帰って私達はケンカが激しくなった。婚約したら当然、その先にあるのは結婚。新しい二人の家を夢見るに私に対して、彼の冒険できない、“小心者”の性格にイライラし始めた。
数字を綿密に計算して100%自信が無ければ物事を進めないタイプだ。私を「愛している」という彼の言葉とは裏腹に、具体的に2人の理想の住まいを夢見る私の期待を裏切ってしまう。「進めない」「決定できない」そんな私たちの低速走行は、未来の景色を阻む壁となって立ちはだかった。
同時に性格の不一致も浮き彫りになってきていた。理数科、現実的、理論派の彼と、文系、理想的、直感でものごとを判断する私は人間として全くの正反対。家を探したり、リモデリングや家具の配置など大きなものは何一つ動かせなかった。
「思い切り」のなさは裏返すと自信の無さだったのか、愛が足りなかったのか。もしくはケチな性格そのものだたのかもしれない。
私生活でもたまに一緒に過ごす週末だったりバケーションだったりは、彼が主導となり、もし失敗があっても(でも恐ろしくほとんどない)問題ないのだが、私がたまたま選んだ行き先やレストランが失敗したりするとたちまち彼の機嫌が悪くなった。恋人同士なら、「That’s OK」と言いそうなもんだが、見逃してくれなかった。
夢と現実のギャップはどんどん広がっていった。
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準備ができないまま同棲を始める
2003年、3月終わり、彼の家に引越しをした。理由は単純に私が住んでいた家が売りに出てしまった。やはり環境を変えるのはすごく勇気がいった。「でも慣れていくかもしれない」と自分に言い聞かせていた。
でも小さいケンカは益々増えた。例えば新しく買った電子レンジの置き場所や向き、私が彼の酒ボトルを棚に整理しただけで、怒鳴られるなど、粗いものの仕方、洗面の使い方、一つの物の置き方まで、注意をしたり怒鳴ったりされた。一緒に住み始めるとそんな本当の「彼」が見えてくる。
彼は私の小さなウソに敏感になっていたし、疑い深くもなっていた。何も言わずにソーシャルパーティーに外出した私の証拠写真などをメールで送りつけたり、友達女性だけで集まる事も「自分を優先にしてほしい」と言ったり、私を苦しめていた。
最初の頃は、自分に欠点があるのだろうと言い聞かせていたが、「いっしょにいるって我慢することではないよ」と友達に言われた時、愛する意味を束縛に置き替えている彼に怒りを感じた。
前の夫の包容力や“本当の愛”を思って泣いた。比べるべきものではないのは分かっているものの、この“愛”の定義の違いにいつも過去の夫に感謝し、反省していた。夫に会いたくて話したくてしょうがなかった。
でも彼が再婚した新しい奥さんが私に焼きもちを焼くので、2人が連絡を取り合う事は禁止されいてた。その奥さんから言われた事をちゃんと守る優しさもまた「彼らしいな」と思った。
ここではもう誰も私の身は守ってくれない。引き返す部屋もない。ひとりでこの困難を切り開くしかなかった。愛しているのに、どうしてこんなに苦しいのか、どうしてもっと自然にフィットしないのか、これは本当に「トゥルーラブ」なのか、毎日のように悩んでいた。
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#16 エンゲージリングを返す日
ついに私が彼にエンゲージリングを返す日がやってきた。すでにこの何ヶ月、結婚の話もしなくなっていた。「この人と上手くやっていけるのだろうか?」二人の疑問が段々大きくなり、どちらかこの話を持ち出したら、多分、「別れ」が具体的になるのを恐れていた。
そんなある日、私の方から切り出した。ケンカをしたり、結婚するかどうか分からない関係をこれ以上続けるのは意味が無いと思った。ダメならダメで一人でやり直すしかないと覚悟しなければ、無駄な時間ばかりが経過していく。多分そのモヤモヤした期間は、二人が同時に思っていたことで、私から持ち出すほうが都合がよかったように思う。
「結婚の事だけど、どう考えているの?婚約してもう一年半も経つのに、なにも進展がないじゃない。もししたくないのなら、ちゃんと言って欲しい。このままどっちつかずの生活は出来ないし、別れるなら別れるでムーブオンしたい」とはっきり言葉にして言った。
彼は「僕が結婚を申し込んだんだから、僕は決めるべきだよね」と言って、しばらくし沈黙した。いつも2人が机を並べて仕事をする部屋に風が入ってきた。その瞬間緑が鮮やかに映り、狭い部屋がいつもとなく広く感じた。彼はしばらくの沈黙の後、長いまつげを何度もしばしばさせて、暗い顔をやっと持ち上げた。そして「別れよう」と言った。
サプライズではなかったが、全ての感情が弾けそうになったので、「OK」とひとこと言って、サングラスと携帯だけ取って外に飛び出た。出た瞬間、何秒か抑えてた涙がこみ上げてきたので、走って家から遠ざかった。
まるで子供が大泣きをするような現象が大人になって起きた。坂を走るとサンフランシスを見下ろせる小さな公園があり、そこで立ち止まった。止まったらまた涙がどっと溢れて、サングラスの下からポタポタと地面に落ちた。そこに偶然居合わせた子供が心配そうに私の顔を覗き込んでる。サングラスをかけていてもその様子はきっと異常だったのだろう。
その時、友達から携帯に電話がかかってきた。親友からだった。「今、別れた」というだけで後は声にならなかった。「あれだけ頑張ったのに!残念。。。」。その友達も私と一緒に電話口で泣いてくれた。
私達はいったい何を創り上げて何を失ったんだろう?あんなに沢山あった夢や愛情や将来のカタチは今、膨れ上がった風船のように一気に割れてしまった。二人が見たいろいろな景色や食べ物や数えきれない愛の言葉やキスはもう無い。私を分かって欲しいからたくさん話したのに、そんな何年分の会話も全て無になってしまった。
それから私は毎日泣きながら夜中まで仕事でパソコンに向かっていた。こうなったら“やるべき”自分の仕事があった。こんな事で負けてはいられない。せっかく前の夫がくれた自由と理想の国で職を与えられているだから、強い女にならなければバチがあたる。ここまで来たのだから、グリーンカードも自分の力で取ってビジネスを再建すると決心した。もう日本に帰る家は無い。
いろいろな感情がミックスされて、また一人になる自分を自分で応援していた。「男に頼らない、私は強くなる!」。今の雑誌の仕事で借りていたオフィスに15時間くらい居た。
それから9日間、彼とは全く口をきかず、目も合わせなかった。夜中に帰ってきてとりあえず寝るだけだった。週末になると私は次に住む部屋を探しに出かけた。
その先々で「どうして今の家をでるの?」と聞かれた時、また感情がこみ上げてきた。月$2500~$3000の収入で借りれるアパートは限られていた。そしてそこを事務所にもしなければいけなかったので、必然的にぎりぎりの生活になるのは分かっていた。でもやるしか無い。どんな酷い条件でもパソコンさえあれば仕事はできるのだから。
真夜中に帰って、彼の寝顔を見ていた。私が好きな唇、長いまつ毛。ここで何度もキスをしたっけ。もう終わりだと分かっていてもまだ好きだという感情は残っていた。
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#17 波乱続きの恋愛の果て:大どんでん返し
私にはアメリカでの労働許可VISA(H-1Bステータスという専門職ビザ)の延長問題があった。すでに初期のビザは取得しているから、あと3年の延長を申請し切り替えるだけだったのだが、婚約もしているし、結婚をすれば必然的にグリーンカードに変わるし、忙しさもあって放って置きっぱなしになっていた。
それに弁護士を通じて更新するには$5000かかるので、その費用の工面もあった。思いがけない事態を予想してなかったので、完璧に油断していた。(私が雇われたロサンゼルスの出版会社はビザ申請にかかる弁護士代を持たないし、サンフランシスコ事務所の家賃などもなぜか自己負担になっていた)
この別れ話で、アパートの資金や引っ越し代やまた新たな事務所の設立など、巨額な出費は免れない。「自分1人でこの苦難を乗り越えられるのか」?何度も自問した。答えはひとつ。「どんな犠牲を払っても、ここで生きてゆく。日本に帰るオプションは無いのだから」。
別れが決まって10日目、私はやっとバークレーの隣町、エミリービルに小さなアパートを見つけた。事務所の机がギリギリ置けるくらいのスタジオルーム。ここならサンフランシスコ、サンノゼまでミーティングや営業に行ける。次の日に契約をして、この部屋を確保する前金を置く事にした。
「彼に話さなきゃ。引っ越しの準備をしなきゃ」。1人で生きる覚悟はできていた。
10日間の沈黙を破り、やっと私は初めて彼に口を開いた。「引越しをするアパートが決まったから、今日契約をして、一週間後に出て行くね」と言った。彼は半分目を伏せたまま暗い顔で振り向き、10日ぶりに私と目を合わせた。
「わかった。。。」と言って、また背中を向けて泣いていた。つられて私も泣いた。そして口を開いたついでに、この様に私達が別れる羽目になった原因を探り合い、またお互いを責め合って、理由をごちゃごちゃ言ったりした。
でもこんな口論も私は今回が最後だと思って、「結果は本当に残念だけど、愛していたのは事実だから」と自分の気持ちを素直に伝えた。すると「どうして僕達は愛し合っているのに、こんな辛い思いをするの?」と聞き返した。それから仕事にでかける前の2時間、私達は懲りもせずこんなやりとりをした。
「今更そんな話をしても、私は今日、今から決めたアパートに手付金を払いに行くから」と言った。その時私はなぜか、彼が私を引き止めるか引越ししてもまた迎えにくるような予感がした。
最初は感情的だったが、「出る」のは決まったんだし、我慢する必要も無いと思うと、言いたい事は言って2人とも落ち着いた。彼もこの10日間、抑えていた感情を出し切ったのだと思う。次第に言葉が途切れると、少し暖かい雰囲気に変わった。
すると、彼はもう一度、問題解決をしようと、私に建設的な話を持ち上げていた。一番ケンカの原因となった家の改築など、歩み寄るよる対策を挙げてきた。
この10日間、どれだけ泣いたか分からない。どれだけ覚悟を決め人生の再設計を模索しただろう。これ以上私にはするべき事は無かったし、これ以上あれこれ話しても時間の無駄だと思った。もう時間は正午を回っている。
「じゃあ… 私、そろそろ行く…」。でも彼にはこの「行く」の意味が最後だというのも分かっていた。一度下を向いてちょっと覚悟したように、また振り向いて、「Don’t go. Stay with me」と言った。
「え…。」「いますぐ結婚しよう!」「今なんていったの?」「僕達、結婚しよう。そうしたら、もうお互いに値踏みしたり、ケンカする必要もなくなるよね」と言った。
私はあまりにも予測しなかった展開に戸惑いすぐに反応出来なかった。ただ、別れても私たちが育んだ愛は生きていた「愛の奇跡」を感じた。
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#18 人生2回目の結婚式「I DO」を交わす
彼から別れを引き止められた3日後、私は最終的に2度目の彼からの結婚の申し入れを受け入れた。
「ブライドになる」この喜びは女性なら誰でも共有できる、「女として生まれた最高の褒美」だと思う。彼のお嫁さんになる。輝く私。私は街にショッピングでかけ、「式に何を着よう」と考えたり、化粧品などを物色しながら高まる“ブライダルスピリット”を押さえられなかった。
2003年11月、私達は小さな結婚式をした。二人の母親と10人の友達を呼んで、形式だけの小さな結婚をサンフランシスコのシティーホールでした。「I DO」とアメリカ式の誓いの言葉を交わした瞬間、あまりにも嬉しさが全身からこみ上げてきて涙が溢れた。
彼もとても幸せそうな顔をして私の手をずっと握っていてくれた。彼の母と私の母にお礼を言って抱きあった。こんな小さい結婚式でも幸せ感は大きかった。「この幸せがずっと続けば良い」と心から願った。きっと彼も同じ気持ちだったと思う。
リムジンも呼ばず、披露宴もしなかったが、仲の良い友達と母親が集まり、私達が大好きな地元のレストランで小さなパーティーをした。それだけで十分だった。それ以上望むとバチが当たりそうなほど幸せに満ちていた。
あれだけ覚悟した別れから結婚までが、まるでドラマのシナリオの様に急展開だったので、悪夢から天国に導かれたような数週間だった。「これで私たちきっと落ち着くね」。2人で顔を見合わせ頷いた。お互いにとって人生2回目の“ビッグデイ”を終えた。
夫婦になった実感はじわじわと湧いてきた。初めて「This is my wife」と人に紹介された時はドキドキした。「ワイフ」って良い響き! ジェットコースターのような波乱の恋愛ゲームも終了。私はこの結婚で全く動かなかった“2人の仕事”もスムースに進み、自分の望む全ての物が手に入ると信じていた。
しかしそううまく行かないのが人生なのか。その後しばらくしてまた嵐が迫ってくる。彼の元カノの逆襲が始まったのだ。それは、ちょとオカルトっぽくもあり、女の執念を感じる大逆転劇となった。
国際結婚に学ぶ「愛」という名のイリュージョン(後編)
「愛の奇跡〜愛が壊れる時)」#19 元カノ怨念の逆襲 に続く。