パワハラで退職 → 米国移住 「私らしい働き方」を実践
時は昭和バブル期、某大手会社で働いていた私は、ある日上司と喧嘩をし
退職をする事になってしまいました。でも、その出来事が、私の人生に大きな変化をもたらすことになるとは、その時は思いもしませんでした。
当時の日本では、パワハラやセクハラが日常茶飯事で、そうした問題を取り巻く雰囲気に、当時働く人々、特に女性は耐えるしかありませんでした。なんでも会社の”方針”に従い、いつも上司の顔色を伺いピエロの顔で過ごす日々でした。
あの日、(あまり意味のない)夕礼での事件が、すべてを変えるきっかけとなりました。営業職で15分遅刻してきた私は皆の前でこっぴどく怒られたのです。上司の侮辱的な言葉に、私の中の怒りが爆発。今まで私が抱える不満や、同僚たちの思いも代弁し、立ち上がりました。その一言が、「あなたのツマラナイ説教を聞くより、会社に貢献する契約をとって来た私の方が正当性がある」でした。
それが元で私の職場環境は一気に悪化。でも簡単には引き下がりませんでした。上司の上司や支社長に話を聞いてもらい、私の立場を説明しましたが、結果はいずれも「理解はできるけれど、助けることは難しい」というものばかりでした。これこそが、日本のハイアラーキーな社会の厳格なシステムなのだと、痛感しました。結局その後、退職に追い込まれましたが、
例え優秀な人材でも、イチ従業員は尊敬もしなければ発言もできない。こんな社会には未練はない。でもどこへ行ってもきっと繰り返されるだろう。組織の中に以上、出る芽は摘まれてしまう。これが現状でした。この国は私の住むところではないのでは? いっそ海外へ移住?でもどうやって? どんな手段を使っても「自分らしく生きたい」という思いが込み上げてきました。
「海外就職」ーー頭はその一色になりました。当時31歳。ここから人生を変えられるのか。不安でもやらずに後悔するより、たとえうまくいかなくてもやってみたほうが良い。その強い気持ちが決断を助けてくれました。
しかし大きな問題が憚ります。夢ばかり膨れても、英語もダメ、学歴もない私が海外就職する方法はほとんど皆無に等しいといえました。しかも結婚もしている。誰に相談しても「無理」の一言でした。でもそれから無謀とも言える、人生を賭けた旅が始まりました。背中を押してくれたのは、私が最も尊敬する1人である(元の)旦那さんでした。
最初の一年は、日本の大学にあるESLで英語を学び、めちゃくちゃ勉強をしまし、約2年でアカデミック(英語の授業)が受講できるレベルになりました。人間、やる気になればできるものです。そして次の年には留学のため、カリフォルニア州に移住しました。それから日本には一度も(住むために)帰っていません。
「無理」と言われるとやってみたくなる。自分らしい未来を追求する強い意志が私を突き動かしていました。海外留学を経てその後OPT研修→就職、ビザ獲得→永住権獲得まで漕ぎ着けましたがそこまでの年月は約8年かかりました。
「何をしたいか」「何ができるか」模索して飛び込んだ出版業界
米国での就職の始まりは、大学を卒業する時でした。米国の大学を卒業すると1年間研修として働ける「OPT」と呼ばれる制度があります。私はその制度を利用できる一年が「勝負」と感じていました。通過地点で、目標を決めた書類を提出必要がありました。
なのに、自分が「何をしたいのか」「何ができるか」がさっぱりわかりません。とりあえず、今まで日本でした事のある数々のアルバイトの内容を振り返ってみました。ほとんどがお金の為にしていた仕事ですが、一つだけとても評価された仕事がありました。それが、ガイドブックや会員制旅行冊子、グルメクラブといったような営業を伴う小冊子の作成でした。
旅行をしながらホテルやレストランと交渉して冊子に掲載する代わりに会員にメリットがあるよう割引や飲み物など特別待遇をしてもらうという内容でした。
「日米のブリッジになるようなコミュニティー雑誌、新聞などを作りたいです」。アドバイザーに言いました。すると、口にした事でどんどんその仕事へのチャンスが自分の方にやってきたのです。
数ヶ月後、私はロサンゼルスにある某新聞社に採用されました。当時、アメリカはドットコムバブル最盛期。サンフランシスコというエコノミーと利便性も後押しして「サンフランシスコの代表者になってくれ」と言われたのです。「何をするんですか」?と聞くと、「タウン雑誌を発行しているので、その枠の広告を取ってくれれば良いから」。
それから4ヶ月、バークレーの狭いアパートで朝6時から夜中まで死に物狂いで働きました。広告は売った事はないけれど、日本企業に「買ってください」などと戦略もなくただ電話しているだけの日々が過ぎて行きました。その出版社とはフルコミッション契約。蓄えも底を着き、いよいよ生活が苦しくなり、食べる事もままならない生活になりました。「いよいよ私も夢破れ、日本に帰国しないと生きていけないかも」。
でも頭によぎったのは「ここで負けて帰りたくない」。収入は相変わらずゼロ。「電話をかけるだけの営業ってもう古いのでは」?という思いが湧き上がり、私は勝負に出ました。
当時、サンフランシスコはコンベンションが盛んに行われていて、「シーフードショー」がイベント会場で開催されるという事を知り、シーフード卸業者一社と契約しました。「私が書く記事で御社に利益を与えると思います」。私は今まで新聞に記事を書いた事もなく、誰からも「書け」と言われたわけでもないのに、そのショーの記事をタブロイドサイズで4ページ書きました。そのタイトルは、「日本食革命」。アメリカで人気が出てきた日本食ブームを取り上げた内要でした。その記事が私の運命を変えました。
なんと、この初めて書いた記事をあらゆる食品企業に売り込みに行ったところ、10社のスポンサーがついてくれたのです!私はこの経験を境に次々とテーマごとに取材をして広告をとって勢いづいていったのです。「営業はモノではない。付加価値を認めてもらうことが」と学びました。
そしてOPTの一年が近づいてきた時、私の活躍を聞きつけて、ある出版社からヘッドハンティングされたのです!
それからの5年は1日15時間以上働く、勝負の日々でした。ずっと狭いアパートに住んで、「何をどうしたら広告収入が得られるのか、どんな記事を書けば、スポンサーに協賛してもらえるか」トライ&エラーを繰り返しながら、成長していきました。
人間、ゴールを作るとその目標に向かって突進していくパワーはすごいなと感じました。OPT研修から6年目、米国永住権を獲得し、フリーランスになりました。
時々人から「どうやってフードライターになったの」?と聞かれます。私は何かに「なる」為に学校に通った事も無ければ、誰かに教えてもらった事もありません。でもフリーランスになってからはもっと大変でした。従業員と違い、「自分で案件を持っていく」「顧客を獲得する」必要がありました。
そうした中で、転機となったのは、ローカル雑誌を作っていた時に連絡をもらい情報を提供したきっかけで最初と仕事となった「地球の歩き方」(ガイドブック)でした。
自身の足で歩いて、ローカルのエピソードや風景を、文字という筆で描き出すこと。それは私が理想としていた仕事そのものでした。そんな地道な取材活動が、新しい扉を開きました。
それまでタウン雑誌で培った食リポを活かし、特集記事やレストラン情報を主に書いていました。自分のインスピレーションと人との出会いが不思議とビジネスになっていったのです。
そこから驚くべき展開が待っていました。なんと、7つの出版社からオファーが届き、私はサンフランシスコやシリコンバレーのガイドブック制作に携わることとなりました。地元の魅力を伝える「現地ガイド」として、スペシャリストと呼ばれるようにまでなりました。
先ほどの答えですが、「フードライター」になろうとしてなったわけではなく、まず、「好き」と思える小さな”ジョブ’から始まり、コマを進めるたび、それまで何も知らなかったグルメの世界へと広がっていき、記事を書く度に知識も増え、この街の情報スペシャリストとなっていきます。テレビや雑誌の特集の現地コーディネーターの依頼も増え、徐々に活動範囲を広げました。
フードライターからコーディネーター、リサーチ、視察ガイド、アドバイザー と更に広がりました。一環しているのは、素晴らしい両国の食文化を通じて人に喜びを与えたいという想いです。
「毎日が新鮮で学びがあり、人を喜ばせる」気がつくとあの時夢に描いた理想の仕事をいつの間にか手にしていました。私には上司がいません。通勤や出勤時間もない自由な環境ですが、その分固定した給料もなく何も守られてないリスクを覚悟しています。会社名や所属もなく、一個人ですが世界と繋がっています。
あの上司と喧嘩をし日本を出てから27年。学歴も英語も出来なかった私が、米国でフリーランスとして「私らしい働き方」を実践しています。あの時の「決断」は正しかったと今振り返って思うのです。そしてこれからも「私らしく」大好きな仕事を続けていきたいと思います。