【連載小説】「雨の牢獄」解決篇(三)
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【注意】
本投稿は、犯人当て小説「雨の牢獄」の解決篇です。
問題篇を未読のかたは、そちらからお読みください。
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控えめなヴォリュームのラジオから、懐かしい曲が流れてきた。
ABBAの"Like An Angel Passing Through My Room"だ。
――天使が通り抜ける。
フランスでは、会話の最中に不意に訪れる沈黙のことをそう呼ぶ。
この車内にも、天使がいるのだろうか。
誰もいない赤信号の交差点。
瀬奈の車が止まると、ジングルが流れ、ディスクジョッキーが喋りだす。
沈黙の天使を追い払うべく、黎司は口を開いた。
「解いたんだ……〈足跡の密室〉を」
信号が、青に変わる。
「裏口のマットについた泥について考えたんだ……」
瀬奈はそっとアクセルを踏みこみ、手探りでステレオを操作する。
ゆるやかなエンジン音にかき消されるほど、ラジオのヴォリュームが小さくなった。
「マットの汚れは『サンダルの足跡の主が離れから裏口へと歩いた』ことを示している……これは間違いないよね」
「ううん、一旦そう仮定して話を進めようか」
「ありがとう……ところがね、そうすると矛盾が発生するんだ」
「矛盾……」
「鑑識は『サンダルの足跡は裏口から離れに向かってつけられた』と断定した……つまり、マットの汚れと鑑識の結果が真逆の事実を示しているんだ」
黎司が言葉を続けようとすると、
「待って」
と瀬奈が片手を上げ、そしてラジオを消した。
なにか考えているらしい。
信号とトンネルをひとつずつ通り抜けたところで、瀬奈が唐突に会話を再開した。
「つまり……あのマットは、犯人による偽装工作だった」
「ええっ」
意外な展開に声を上げてしまう黎司。
「あのマットは元々、玄関にあったのよ……それを犯人が玄関から裏口に運んだんだ」
「どういうことだ」
「つまり、犯人は、事件の発見者に『離れと裏口の間だけを移動した』と思ってもらいたかった」
「離れと裏口の間……だけ……」
「そう、犯人は犯行後、離れから別荘の北側を歩いて、本館の玄関に向かったのよ」
「その足跡はどうするんだ」
「踏み消したのよ」
ようやく瀬奈の思考をトレースすることができた。
「つまり……第一発見者を装って……真っ先に先頭を歩くことで犯行時の自分の足跡を踏み消すことができた人物……」
「それができたのは」
「亜良多さん、ということか」
芝居がかった言動の、長身の看板俳優を思い出す。
「いや……でも、それは無理だ……」
「どうして」
「この数日〈ムーン=アイランド〉のメンバーは、ずっとあの別荘で過ごしていた」
「うん」
「ということは、裏口に足拭きマットがあることに違和感があれば、確実に誰かが言及していたはずだ」
「ああ……」
「つまり、マットは、最初から、裏口に、あった」
一言ずつ言葉を切り、力強く言う黎司。
「これを前提として……もう一度さっきの矛盾について考えてみよう」
無言で頷く瀬奈。
「鑑識は『サンダルの足跡は裏口から離れに向かってつけられた』と断定した……これは真だ」
「うん」
「マットの汚れは『サンダルの足跡の主が離れから裏口へと歩いた』ことを示している……これもまた真としよう」
「それだと……真がふたつあることに……」
「そうなんだ」
「ああ……」
「足跡は二種類あった」
マジックに喩えるなら、と黎司は続けて、
「足跡はすり替えられたんだ」
と言った。
「つまり、マットの手掛かりは『事件発見時に黎司たちが目撃した足跡と、鑑識が調査した足跡とが、別のものである』ということを意味しているんだ……鑑識が調査した足跡は、犯人によってつけ直されたものなんだ」