オチのない話はしてはいけないのか?
「だって、たいてい話にオチないじゃん」
わたしが「話をさえぎらないで、最後まで聞いて」と言ったときの、彼の反応です。
プチ切れて、
「はあ?お笑い芸人じゃあるまいし、何でいちいちオチをつけなきゃいけないワケ?」と反論しました。
よかったら、最後まで話を聞いていただけないでしょうか。
日本には落語や漫才など、しゃべりで楽しませる文化があります。立川志の輔師匠の落語をライブで聞いたときは、それはそれは感動しました。NHKの教養番組100分で名著の伊集院光さんを見て、心の中で勝手に弟子入りしました。
話がおもしろい人、説明が上手な人は、クレバーかつサービス精神旺盛な印象で、好感度が高いです。
なぜなら、おもしろい話をする、理路整然と説明するというのは、相手を思いやる姿勢でもあるからだと思います。相手の気持ちや状況に配慮して、できるだけ有益な時空間にしようという大人の態度でもあります。
素晴らしい。敬意を抱きます。でも、言いたいのは、いつでもどこでも誰にでも、クレバーかつサービス精神旺盛な大人としてに振る舞わないと、ダメなのか?ということです。
仕事なら、わかります。仕事ですから、努力します。
仕事の場面では、わたしもそう振る舞います(できてるかどうかは別として)。
だけれども、彼や家族、親しい友人関係でまで、クレバーかつサービス精神旺盛な大人としてに振る舞わないと、ダメだとしたら、キツい。
だって、いろいろあるじゃないですか、ただ生きてるだけでも。それを、いつも人様を楽しませるために、加工してから出さなきゃいけないなんて!
「話にオチがない」
という彼の言葉は、わたしにとっては「いつでもクレバーかつサービス精神旺盛であれ」と言われたに等しかったのです。
彼には、こう言いました。
「わたしが交際相手に求めるのは、一日の終わりに、あーでもない、こーでもないとその日にあったことを話せて、いろいろあるけど明日もがんばろうと思える人だよ」。
ありがたいことに、彼とは今でも仲良くやっています。
【参考文献】
『過剰可視化社会「見えすぎる」時代をどう生きるか』
第3章「見える化」された心と消えない孤独
與那覇潤 東畑開人
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