人類滅亡が何故悪になるのかー反出生の発表を聞いてー
先日大学の講義の中で四年生の卒論の中間発表があった。その中で「反出生」という話題に触れながら、そのニヒルな嘲笑のようなものを人生に重ね、人生観を後押しされた気になったので、少し備忘録に……
先ず生まれてきてよかったことの幸福と、逆の不幸の総量など、そんな話があった。確かにおいしいものを食べて寝て犯していれば三大欲求は満たされ、幸福に至るのだが、やはりそれを手に入れるため、或いは継続するためのランニングコストというものにおいて不幸は免れない。私にはセックスというものがどういったものなのか見当もつかないし、独りよがりになるしかないのではないかと言ったことさえ考えてしまう。不安な情緒の中に、それでも「生きていたい」とか「産み落としたい」とかを考えることが、私にとっては意味が分からない。ひとえに生まれた者への冒涜としてこの世界が設定されているように感じるからだ。
その世界の設定というものが目下の資本主義であることは間違いないだろう。というより私はそう思っている。金銭による労力のアウトソーシング、その呪縛、借金とのラットレース。その他諸々のこの世界の常識なるもの。それが今や人を阻害するのにしか一役買っていないのだとしたら、資本の上で笑っている貴族はいけ好かない下種である。
「人間が人間らしく」などのヒューマニズムなど糞くらえと思うわけだ。
社会に出て一人前になることが親孝行だ?
自分で稼いだ分で生きるのが真っ当だ?
初めての人生で何も選べないところからスタートしたのに、そのスタートラインは親の金銭状況に左右され、いかにも不合理なレースを走り続けることが生きることか?
それなら死んでしまうのは別に何も悲しむべきことではないだろう。むしろ夭逝は私の理想ですらある。子を残すか、伴侶はいるのか、そんなことをすべて台無しにする人生でも私を愛する人はいるのか。そんなものあってたまるか。この世に永らえ続けるための足枷など少ない方がいい。死にたければ死ねばいいのに、それが簡単にできない。
「死んではいけない」のは誰のため?
「経済や発展は自由にやっててください私はそこからドロップアウトしますが」というだけの簡単なマインドセットを持っているわけだ。
何がそんなに気にくわないのか、と思われても仕方がない。しかし私は反出生に対する態度を明らかにすることで、奇を衒っているのではない。根本的に資本主義に対して疑念があるのだ。数字のために生きていることがどれだけ意味のないことなのか、うまく言えないがGDPとはいったい何なのか。私たちの生活はそんなものに支配されなくとも近隣の関係さえあれば、自ら自給自足的な生活をすれば、逆戻りなどという単純な単系を押し付けなければ、つまり人間の進化というものになんらの重きを置かなければ、私たちのやっているこの無意味な資本の再生産というものは、その字義通りの無意味さを暴露することになるだろう。
本当に聖書の通りに「最初の人間はアダムとイヴであってその家族が人間」であるのならば、国境というものも言葉も超え、普遍的人間にアプローチする何らかの手筈があるはずなのだ。
それなのに想像の共同体という幻想は根強く、そして普遍的であるために、それを信じないものは単におかしな人間としてレッテル処理を受けるこのあほみたいな世界が現前するのだろう。
人殺しが悪なのは何故なのか。反出生が奇異なのは何故なのか。
それはひとえに信じている進歩というものがもはや意識の外に在って、しかし常識という薄っぺらい国民感情によって醸成された、その上澄みにいて、何も考えず、制度の奴隷となり、毎日の大半を仕事とポルノとキリングタイムに注ぐ、そんな自堕落な一般人に成り下がっているから、そんな風だから駄目なのだ。常に何かに対して疑いを向け変えていく努力がなければ薄給の20万というのを追いかけるだけの生活が永遠に続くだけなのだ。
別に人間が生きていようが死んでいようが関係ない。
そこに新たな生命が繁栄の契機を得、一頻りに膨れ上がるだけ、それだけなのだ。それがどうして認めてはならない危険思想なのだろうか。
Better stop living, and more: best stop human's existing in whole world.