『みちのとも』6月号に教祖140年祭に向かう歩み方についての両統領によるインタビュー記事が掲載されました。
私の系統では大教会長から全部内教会長に対して「必ず読むように」との至上命令が降りました。なんだか「読まんかったらタダじゃおかんからな!」という勢いでした。
気の小さい私など「え。読まんかったらどうなるの?埋められちゃうの?沈められちゃうの?」と雨に濡れた子犬のようにブルブル震えましたよ。
もちろん届くや否や、襟も膝も正して拝読いたしました。いたしましたとも。これでも素直なところはあるのですよ。
でも今日はそのインタビューの内容全体については触れませんが、その中で語られた「陽気ぐらしとは何ぞや?」に絞って考えてみたいと思います。
まず、インタビューの中で語られた「陽気ぐらし」に関する文章を列挙してみます。
おおよそこんなところでした。
さて、皆さんは「陽気ぐらし」、あるいは「陽気ぐらし世界」とは具体的にどんな状況を思い浮かべますか?
「みんながたすけあって明るく生きていて、気候は暑くもなく寒くもなく、衣食住に困らず、病気もしない、争いもない、ストレスフリーで楽しいなあ」みたいな、ふわっとしたイメージでしょうか。
そんな世界が本当に楽しいかどうかは今回はスルーします。
でも両統領が、とりあえず今の世界は陽気ぐらし世界ではないってことと、「もっと頑張らんと絶対にたどり着けねーかんな!」って言ってるのは分かりますね。
でも「陽気ぐらしへの歩みという悠久の時間の流れのなかで」とか言われた日には、タクマカラン砂漠をゆくキャラバン(隊商)が喜多郎の名曲「シルクロード」の流れる中、脳内をのんびりと進んで行きましたですよ。
あ。ディスったわけじゃありませんから悪しからず。
だけど、陽気ぐらしはそんな遥か彼方にあるものなのでしょうか?
「陽気ぐらし」について論じるときは
という、使いたおされた感のある『おさしづ』を引用して記述するのが王道みたいですね。でも私は学者じゃありませんので、このおさしづは見て見ぬふりをいたします。後半部で部分的には引用しますが・・・
代わりに天理教の公式WEBサイトによる説明から抜粋してみます。
バリ天だった二十歳の頃にこれと同じ内容の講話を聞いたのですが、「なるほど、ごもっともです。グーの音も出ません。だけど『言うは易く行うは難し』って言いますやん。無理っすよ。と思ったものです。
でも、何年かして以下のようなお話しに触れる機会がありました。
記憶の底から掘り起こしたものですので、間違ってたらごめんなさい。
と、こんなお話でした。私も少し泣きました。
このおばあちゃんの思いと行動って、まさに「陽気ぐらしの瞬間」が具現化したものではないでしょうか。
「陽気ぐらし」は待っていてもやって来るものではない。でも陽気ぐらしの瞬間というものは、心ひとつで誰にでも獲得できるものだということを教えられている気がしました。
もう一つ例を挙げさせてください。
LGBTトランスジェンダーの鈴木優希(すずきゆうき)さんの書かれた文章です。一部を抜粋しようかとも思いましたが、私には一言一句が欠くことのできない鈴木さんの心と身体の一部のような気がしたので、全文を掲載させていただきます。鈴木さんの文章には陽気ぐらしの何たるかが詰まっています。
鈴木さんは言いました。
「だから、幸せを探そう。」と。
そう思えたときこそが、陽気ぐらし世界に我が身を置いた瞬間と言えるのではないでしょうか。
何よりも素晴らしいのは、この記事を読んだ多くの方が勇気をもらい、あるいは何かしら感じるものを得て前向きになれるってことなんですよ。
陽気ぐらしをする姿は周囲に伝播するのです。
「陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という」との言葉そのままに、真の陽気を生み出していますよね。
陽気ぐらしや感謝や喜びって、なにも天理教の専売特許じゃないんですよね。感謝したり、感激したり、感動したり、海外布教に飛び回る来世を夢見たり、こうした陽気ぐらしの瞬間が沢山出現する世界こそが「陽気くらし世界」なんじゃないかな。と思っています。
さて、あまり気がすすみませんが、少しだけ両統領のインタビュー記事に目を向けてみますね。
言ってる意味は分かります。でも「貴族の遊びかよっ!」ってツッコミが入りそうですね。
会長が自分の教会に点数なんか付けれるとお思いか?
教会の日常は数値化できないもので満ちているんです。
何故ならそこには人がいるから。
泣いたり笑ったり怒ったり。勇んだり不足したり。
猫の目のように目まぐるしく変化する心を持つ、不完全な生身の人間が集う場所だから。
毎月の御供、別席者数、帰参者数、年間のようぼく・教人登録者数、月次祭参拝者数、おつとめ奉仕者数、おさづけの取次ぎ数。
それだけじゃ計れないものってありますよ。
修養科に行くことを夢見て、日参を心定めし欠かさず実行しても、突然配偶者が病に冒され、断念せざるおえなかった方。
仕事の関係で月次祭に参拝できず、それでも必ず翌日には参拝に来てくださる方。
少ない年金の中から倹約をし、毎月感謝の心を添えて二千円の御供を運んで下さる方。
遡れば、手が不自由なためにおさづけが拝戴できなかった方。その方はおさづけの取り次ぎの代わりに十二下りを夜通し何度もつとめられていました。
そんな人々が集う教会に私が点数を付け、加点したり減点したりするなど考えられません。数値化できない世界、いや数値化してはいけない世界はあると思うのですよ。
採点ができるとしたら、それは神様だけです。会長が自己採点などできるものですか。
その、数値化できないものの中にこそ、大切なものがあるんじゃないかな。と思っています。
ここで、とある婦人会支部長の言葉を紹介しますね。
確かにここで語られるAさん、Bさん、Cさんの信仰姿勢に優劣はつけられないですよね。でも私はやはりCさんの信仰に惹かれるのです。
それは陽気ぐらしの瞬間をより味わいやすいように思えるからなんです。
陽気ぐらし世界は悠久の彼方に存在する世界ではありません。いつか訪れるであろう世界などではなく、私たちの日常にそっと潜んでいるものなんじゃないでしょうか。それを見つけ出そうとすることで、私たちはより良く生きられるんじゃないですかね。
陽気ぐらしは数値化されないものの中にこそ在ります。そしてあなたが見つけ出すことのできた瞬間に煌めきを放ちます。
生まれ変わったら海外布教に駆け回りたいと願ったおばあちゃんのように。
絶望を感謝に変え、幸せを探そうと決意した鈴木さんのように。
※本記事は2022年5月27日 に投稿した「『みちのとも』6月号を読んで -数値化されないものの価値と陽気ぐらし-」を改稿したものです。
2022年5月27日 22:46
『お道の女性について語ろう』
『人間思案んでいんじゃね?』
『その時、神は何をしておられてのか』
6,503 文字
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