見出し画像

「前生のいんねん」って何なん

天理教の教えについてあれこれと調べていると、時々驚くような発見があります。
たとえば、天理教の代表的教理の一つである「いんねんの教理」について、板倉槌三郎さんは

私は二十七の年から、郡山の方へ出て布教さして貰つたのであるが、その時分の私としても、お助けをして因縁を切って貰ふとか講社をこしらへるとかいふ様な考えは毛頭もない。
(中略)
『因縁』といふことも教祖の時分には仰しやらなかった。それで私等の布教に出かけた頃にでも、先も言ふ様に、人様を助けて因縁を切て頂けといふ様なことは一寸も言はなかった。
これは、御本席がお立ちになってから『身上うかがひ』をするのに対して、これは『因縁』であるとか何とか仰せられたまでであった。

『道乃友』1922(大正11)年二月号「私の青年時代に於ける信仰(二)」

と語っています。板倉槌三郎さんといえば

板倉槌三郎(いたくらつちさぶろう)
万延1年(1860)2月18日(河内国高安郡恩智村‐現・大阪府八尾市恩智)
昭和12年(1937)2月27日出直し:78才
明治9年(16歳)兄の病をきっかけに入信
中河分教会(現大教会)2代会長・平安支教会(現大教会)2代会長・水口大教会2代会長

天理教教祖伝参考年表

とあるように、教祖ご存命中に信仰を始めたお道の重鎮です。
入信時の先輩は西田伊三郎、村田幸右衛門、仲田儀三郎、辻忠作、山中忠七、山澤良治郎、山澤為造、岡本重治郎、上田平治、桝井伊三郎、前川喜三郎、飯降伊蔵・おさと夫妻、矢追治郎吉(喜多)、松村栄治郎、山本利八・利三郎父子、西浦弥平、大阪の泉田籐吉、河内の増井りん、などそうそうたるメンバーです。上田ナライトさんも板倉槌三郎さんと同じ年に信仰をはじめています。
槌三郎さんが16歳で入信してから11年後の27歳で布教に出るまでの間に、教祖から「いんねん」または「いんねんを切る」というお話しを聞いていなかったなどと、にわかには信じられませんでした。
前掲の綺羅星きらほしの如き高弟も、教祖からいんねんについて聞いたことは無かったのでしょうか。
たとえば山澤為造さんの場合

明治十四年頃、山沢為造が、教祖(おやさま)のお側へ寄せて頂いた時のお話に
「神様はなあ、『親にいんねんつけて、子の出て来るのを、神が待ち受けている。』 と、仰っしゃりますねで。それで、一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって、末代の理になるのやで。人々の心の理によって、一代の者もあれば、二代三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて、悪いんねんの者でも白(はく)いんねんになるねで。」と、かようなお言葉ぶりで、お聞かせ下さいました。

稿本天理教教祖伝逸話篇90 一代より二代

という明治14年の有名な逸話があります。これは板倉槌三郎さんが21歳の時のことです。
あるいは

堺に昆布屋の娘があった。手癖が悪いので、親が願い出て、教祖(おやさま)に伺ったところ、「それは、前生のいんねんや。この子がするのやない。親が前生にして置いたのや。」と、仰せられた。それで、親が、心からさんげしたところ、鮮やかな御守護を頂いた、という。

稿本天理教教祖伝逸話篇172 前生のさんげ

という逸話もありますので、教祖がまったく因縁を語らなかったとは思えません。では何故槌三郎さんは
「私等の布教に出かけた頃にでも、せんも言ふ様に、人様を助けて因縁を切て頂けといふ様なことは一寸も言はなかった」と断言したのでしょうか。
しかも「私」ではなく「私等(わたしら=私たち)」と言っています。
これはどう受け止めたらいいのでしょう。
もしかすると大正7年の「茨木事件」で茨木基敬いばらきもとよし罷免ひめんされ、天啓を継ぐ上田ナライトさんから中山たまへさんへ「おさづけの理」の授与者が代わり、大正10年、松村吉太郎主導の倍化運動を経て「応法おうぼう派(迎合派)」が教祖の正統を継ぐ「教祖派」を席巻せっけんしたことに関係があるのかも知れません。
板倉槌三郎さんは次のようなことも語っています。

教祖時代の信仰に生きる板倉槌三郎本部員は、それを次のように指摘した。
これは四十年祭後のことであるが、教祖時代の信仰からの比較であるから、その主旨は当然この時代に対しても適用性を持つものと考えられる。

「お道は皆一戸の信徒もないところから四方八方に流れて、年限経って教会を願うようになったのである。 教会を頂くと所長様や会長様である。自分の力でなったのやない。神様のお力、御教祖様のお力でならしてもろうたんだ。世界でも、〝神官社壇の鼠〟ということがある。つまり氏子から上がったお金や品物を下げて自分が食って通るからであるが、天理教の宣教所長が信徒から上がったものを食って、社壇の鼠になっているようではどうもならん。所長が社壇の鼠になって神様をダシにおまんま食べているようでは神様のために働いているのやない。自分のために働いているのじゃ。そんなものは何の役にも立たない。飯食って、くそたれて、つまり、人糞製造機じゃ。どうも人間というものは欲深い。少しよくなると増長する。その慢心が邪魔になる。この慢心を意見してやろうと、神様はおたすけがあがらないようになさる。
今の教師は信徒が十名二十名できたら講元様、教会こしらえて所長様、先生然として上から下を向いている。御教祖存命中とは全然精神が違う。昔の真実と今の真実は比較にならん。その頃は下から上へ上っていったが、今は上から下を向きたがる。今日の道は、いささか道に働いて、苦労の道をちょっと通って、早く大先生になりたい、何でも早く上へ上がりたいと、水に浮いている浮草のように根が定まらぬから落ちるより他に道がない。どうでも自分の真実の心の種を蒔きおろすことが肝要や。そうすればおたすけもあがる。御利益が現れる。それで片っ端から人々は信徒になる。改心しよる。牡丹餅持ってこい、銭持ってこい、酒もってこいと言わいでも、一人で寄ってくる。今日はどうも名称に丸もたれや。苦労を嫌い、不自由を嫌うて、所長然、会長然、先生然と構えて、替盆で飯食わせにゃ不足を言う。種蒔くことを知らずに、苦労せずに、徳とることばかり考えている。それで親神様の御守護がない。そんなものに御守護があったら、増長して死んでしまわにゃならん」。

『みちのとも』より 号数不明ながら出典確認済み

昭和元年の教祖40年祭後に話されたとされるお話しですが、倍加運動後の会長や所長のあり方を痛烈に批判しています。
倍化運動時代、「いんねんの教理」はおたすけ(布教)をする上での教理の柱の一つであったと聞きます。
冒頭の「『因縁』ということも教祖の時分には仰しやらなかった」という言葉も、見ようによっては「いんねんの教理」を用いて推し進められた倍加運動への皮肉ともとれる気がしないでもない。
あくまでも、私見に過ぎませんので、これらの板倉槌三郎さんの言葉について、詳しい方がいらしたら是非ご教示ください。

さて、今回のタイトルでもある「いんねんの教理」ですが、これをお道に定着させたのは廣池千九郎ひろいけちくろう博士であるという説があります。廣池氏は天理教にも大変深く関わった方です。

廣池千九郎博士

廣池千九郎(ヒロイケチクロウ)は
慶応2年(1866年)3月29日に生まれ、慶應義塾の関連校である中津藩の洋学校・中津市学校に学ぶ。歴史家として論文・書物を著した後に法学を学び、早稲田大学講師を経て、神宮皇學館じんぐうこうがくかん教授となる。また、当時の国家的事業である『古事類苑』(日本の古事に関する大百科事典)の編纂に携わるとともに、「東洋法制史序論」について研究し、独学で、1912年(大正元年)12月10日、東京帝国大学より法学博士号を取得する。
その後、道徳の科学的研究を深め、1928年(昭和3年)、『道徳科学の論文』を著し、「モラロジー(道徳科学)」を提唱する[1]。この頃から「三方よし」の教えを説き、「三方よし」の語を初めて用いた人物は廣池である可能性が高いとされている。
1935年(昭和10年)、モラロジーに基づく社会教育と学校教育を行う道徳科学専攻塾(現在の公益財団法人モラロジー研究所、学校法人廣池学園)を千葉県柏市に設置した。

ウィキペディア

とあります。様々な文書から廣池氏と天理教の関係をまとめてみると、1912年に東大の法学博士号を取得する以前に病を得たことで天理教勢山支教会の矢納幸吉会長の知遇ちぐうを得、その人柄とお道の教理に感銘を受けて入信しています。
同年12月27日には初代管長中山真之亮が天理教本部入りを要請し、廣池氏はそれを受諾します。法学博士号を授与されたことで学者としての地位を確かなものにした廣池氏は古神道と現代神道(教派神道)を比較研究し、天理教教理の体系的研究を進めていました。その頃に本部から三顧の礼さんこのれいをもって教育顧問ならびに天理中学校の校長として招聘しょうへいされています。淫祠邪教いんしじゃきょうそしりに悔しい思いをしてきた教団首脳としては、高名な学者がブレインとなることで天理教の社会的地位を確立したいと考えたはずです。
廣池氏は管長中山真之亮の人柄に感銘を受け、管長もまた廣池の卓越した学識と真摯な求道の姿を認めていました。校長となった廣池氏は「教育の要は慈悲寛大の精神にある。人生の目的は徳性の涵養かんようであり、身体の健康と才学はあくまでもその目的を達する手段に過ぎない。但し、徳を修め、健全な身体を持っていても、学力や才知がないと、道徳を活用して天職を十分に全うできない」(「伝記/廣池千九郎」、モラロジー研究所刊)の信念を持って教職員と学生に接していましたが、初代真柱中山真之亮(新治郎)の死(1914年12月31日)によって教内での後ろ盾を失います。
廣池氏は翌1915年1月12日の管長追悼講演会で

「私は『明治教典』を不完全だと思っております。大和舞もありがたく思わず、祭式も祝詞も、将来は全面的に改めていかなければならないと思います。また、教導職も今の御道に添うものではなく、お助けには不用のものと思います。
(中略)
今日までを振り返ると、真の教理の研究が十分でありません。もう少し深く教祖のお心や行いをご研究いただきたいと存じます」

と講演し、応法派(迎合派)の反発を招き教育顧問と校長を退きます。その後は時代の要請による教団側からの歩み寄りもあって一時関係は修復されますが、昭和初期に天理教の堕落ぶりを嘆き天理教から離れていくことになります。
真っ直ぐで真剣だったがゆえに国策におもねった『明治教典』の内容をはじめ、教団の方向性を許容できなかったのでしょう。
廣池氏は天理中学校長時代、

教理の精神を教育の中に入れたいと意向を表明している。その具体策として神殿掃除のひのきしんを挙げる。上の人が自ら行って下の人がこれを見て倣うのが天理教の主義であり、大病後の管長も毎朝これを行っている。校長も自ら行いたいので教員にも参加をと依頼し、教師のひのきしんは因縁切りにつながる。
(中略)
生徒に神殿掃除のひのきしんをさせるので、職員も交替でひのきしんに出席されることを依頼するが、これは命令や強制ではない、決して学校のためや生徒指導のためではなく、あくまでも自分の因縁切りのためであるとの自覚を求める。
(中略)
さらに、教師が授業や事務をとるという仕事をするのは義務や命令ではなく、教師という職業を通して因縁果たしをはかるという、ひのきしんと思うべきであると、あらゆることを因縁の自覚に基づいて行うべきであるという認識である。

(「中学校校長としての広池千九郎(上)」P68.諏訪内敬司.『モラロジー研究』No39.1994)

と述べ、あるいは大阪府知事官邸で

悪因縁を断除するだけの善行的努力をする事が自己の最終の幸福である。

大阪府知事官邸で開かれた救済研究会例会にて

など「因縁」に重きを置いた講演の記録が残っています。そこからは廣池氏の因縁の教理に対する思いが迫力をもって伝わってきます。
また1912年2月25日に、内務次官の床次竹二郎が主導して行われた、神道(13人)、仏教(51人)、キリスト教(7人)の代表、計71人による会議、「三教会同(さんきょうかいどう) にあわせて出版された『三教会同と天理教』で説明される天理教の教理の中心は「因縁論」であり、これは昭和24年発行の現行『天理教教典』 に引き継がれています。そしてこの『三教会同と天理教』の原案を書いたものが廣池氏ではないかとされているのです。
つまり廣池氏はいんねんの教理を浸透させ、教祖の教えを二代真柱以前に体系化することを試みた先駆けだったと考えられます。

さて、ここからは暴論(多分)になります。横山やすし的に言うと「正味の話し」というやつです。

横山やすし 西川きよしの相方

かつて淫祠邪教と謗られた天理教が社会に認知されるよう尽力くださり、増野鼓雪こせつ氏以前の思想的リーダーでもあった廣池博士には申し訳ないのですが、私はこの「いんねんの教理」がとても嫌いなんです。ですから信者さんに説いたこともありません。
中でも『天理教教典』に記される「前生のいんねん」の教えが教祖によって教えられたものであるとしても、それは教祖なればこそ語ることができた「目に見えない世界」の話しであり、人間がエラっそーに説くべきではないと私は強く思っております。
昭和58年の『陽気』に掲載された「人に笑われた衛生業」の内容が差別的であるとされ

「世間にあるがままの差別を容認し、それに『神様の意志』まで付与して語られる時、それはもはや『人を救う』宗教ではないと断じざるを得ない」

『天理教「陽気」差別事件糾弾要綱』P5.1983.部落解放同盟奈良県連合会

との糾弾きゅうだんを受けて『教典』の「因縁」にかかわる記述が改訂されています。
当然といえば当然すぎる糾弾です。
現在では差別的文言が教団の出版物に掲載されることはありませんが、いまだに「前生のいんねん」という言葉が『天理教教典』で採用されている事には疑問を感じています。糾弾された部分は改訂されているとはいえ、言っていることの本質はまったく変わっていないように思えてしまって。

いんね んも、一代の通り来りの理を見せられることもあれば、過去幾代の心の 理を見せられることもある。己一代の通り来りによるいんねんならば、 静かに思い返せば、思案もつく。前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。

天理教教典 第7章 かしもの・かりもの

と記述されています。
これ、いいの?
「前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。」
無理ですよ。先祖を振り返るって一体何代先まで遡ればいいのでしょう。信頼できる家系図でもなければそんなことはできませんし、できたとしても先祖個々のパーソナリティや、その人生にどんな所業しょぎょうがあったかなど分かるものですか。
なので前生のいんねんの自覚など、所詮は中途半端に曾祖父母の代くらいまで遡って調べ、自分の気持ちと折り合いをつけるしかないと私は思っています。
それともう一つ、
「前生のいんねん」という本人に選択できない過去に原因を求めるという考え方は、逃れられない運命を突きつけることであり、同時に「今世で起きる不幸や不運は自分だけの責任ではない」と考える、現実逃避の側面も持つと思うのです。
果たしてそれを受け入れることが、今を生きる本人にとって本当に幸せな選択なのだろうか?という疑問も感じます。
正直なところ、前生のいんねんなど蹴っ飛ばしてやりたいくらいです。(暴言だね)
また、出自による謂われ無き差別を受けてきた方には受け入れがたい教えだと感じます。前生のいんねん論を先祖代々差別を受けてきた当事者に説くことができますか?
SNSが発達した現在、社会の差別についての考え方は改善され、反応もより敏感になっています。非常にセンシティブな問題の筆頭格ですよ。
前生のいんねんに対する教団の解釈がどうであれ、万人に胸を張って説くことの出来ない教理に普遍性は与えられるのでしょうか。
であれば、教典からも除外すべきだというのは暴論でしょうか。(暴論だね)
ここで一言だけ申し添えておきます。私は廣池博士が天理教に対して果たして下さった数々の業績に心から敬意を払うものであり、心から感謝いたしております。その見識の高さと教理に対する真摯な取り組みは、天理教の高弟たちを凌駕するほどです。教団は三顧の礼さんこのれいをもって迎えた博士を、自分たちの都合で直接間接に石持て追いました。本当に申し訳ないことをしたと感じております。
ですが、博士が後にモラロジー道徳科学研究所を創設されたことは本当に喜ばしいことです。
結局、当時の天理教には博士の高潔こうけつを受け入れるだけの見識と決意が無かったのだと思います。
でも教団に残っていたら、おそらく飼い殺しされていたであろうことを思うと、天理教との訣別はご本人にとっても、日本思想界にとっても吉とすべきなのでしょう。

さて、今回も話しがあちこちへ飛び、まとまりのないものになってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
よろしければご意見などいただければ幸いです。
ではまたいずれ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?