「前生のいんねん」って何なん
天理教の教えについてあれこれと調べていると、時々驚くような発見があります。
たとえば、天理教の代表的教理の一つである「いんねんの教理」について、板倉槌三郎さんは
と語っています。板倉槌三郎さんといえば
とあるように、教祖ご存命中に信仰を始めたお道の重鎮です。
入信時の先輩は西田伊三郎、村田幸右衛門、仲田儀三郎、辻忠作、山中忠七、山澤良治郎、山澤為造、岡本重治郎、上田平治、桝井伊三郎、前川喜三郎、飯降伊蔵・おさと夫妻、矢追治郎吉(喜多)、松村栄治郎、山本利八・利三郎父子、西浦弥平、大阪の泉田籐吉、河内の増井りん、などそうそうたるメンバーです。上田ナライトさんも板倉槌三郎さんと同じ年に信仰をはじめています。
槌三郎さんが16歳で入信してから11年後の27歳で布教に出るまでの間に、教祖から「いんねん」または「いんねんを切る」というお話しを聞いていなかったなどと、にわかには信じられませんでした。
前掲の綺羅星の如き高弟も、教祖からいんねんについて聞いたことは無かったのでしょうか。
たとえば山澤為造さんの場合
という明治14年の有名な逸話があります。これは板倉槌三郎さんが21歳の時のことです。
あるいは
という逸話もありますので、教祖がまったく因縁を語らなかったとは思えません。では何故槌三郎さんは
「私等の布教に出かけた頃にでも、先も言ふ様に、人様を助けて因縁を切て頂けといふ様なことは一寸も言はなかった」と断言したのでしょうか。
しかも「私」ではなく「私等(わたしら=私たち)」と言っています。
これはどう受け止めたらいいのでしょう。
もしかすると大正7年の「茨木事件」で茨木基敬が罷免され、天啓を継ぐ上田ナライトさんから中山たまへさんへ「おさづけの理」の授与者が代わり、大正10年、松村吉太郎主導の倍化運動を経て「応法派(迎合派)」が教祖の正統を継ぐ「教祖派」を席巻したことに関係があるのかも知れません。
板倉槌三郎さんは次のようなことも語っています。
昭和元年の教祖40年祭後に話されたとされるお話しですが、倍加運動後の会長や所長のあり方を痛烈に批判しています。
倍化運動時代、「いんねんの教理」はおたすけ(布教)をする上での教理の柱の一つであったと聞きます。
冒頭の「『因縁』ということも教祖の時分には仰しやらなかった」という言葉も、見ようによっては「いんねんの教理」を用いて推し進められた倍加運動への皮肉ともとれる気がしないでもない。
あくまでも、私見に過ぎませんので、これらの板倉槌三郎さんの言葉について、詳しい方がいらしたら是非ご教示ください。
さて、今回のタイトルでもある「いんねんの教理」ですが、これをお道に定着させたのは廣池千九郎博士であるという説があります。廣池氏は天理教にも大変深く関わった方です。
とあります。様々な文書から廣池氏と天理教の関係をまとめてみると、1912年に東大の法学博士号を取得する以前に病を得たことで天理教勢山支教会の矢納幸吉会長の知遇を得、その人柄とお道の教理に感銘を受けて入信しています。
同年12月27日には初代管長中山真之亮が天理教本部入りを要請し、廣池氏はそれを受諾します。法学博士号を授与されたことで学者としての地位を確かなものにした廣池氏は古神道と現代神道(教派神道)を比較研究し、天理教教理の体系的研究を進めていました。その頃に本部から三顧の礼をもって教育顧問ならびに天理中学校の校長として招聘されています。淫祠邪教の謗りに悔しい思いをしてきた教団首脳としては、高名な学者がブレインとなることで天理教の社会的地位を確立したいと考えたはずです。
廣池氏は管長中山真之亮の人柄に感銘を受け、管長もまた廣池の卓越した学識と真摯な求道の姿を認めていました。校長となった廣池氏は「教育の要は慈悲寛大の精神にある。人生の目的は徳性の涵養であり、身体の健康と才学はあくまでもその目的を達する手段に過ぎない。但し、徳を修め、健全な身体を持っていても、学力や才知がないと、道徳を活用して天職を十分に全うできない」(「伝記/廣池千九郎」、モラロジー研究所刊)の信念を持って教職員と学生に接していましたが、初代真柱中山真之亮(新治郎)の死(1914年12月31日)によって教内での後ろ盾を失います。
廣池氏は翌1915年1月12日の管長追悼講演会で
と講演し、応法派(迎合派)の反発を招き教育顧問と校長を退きます。その後は時代の要請による教団側からの歩み寄りもあって一時関係は修復されますが、昭和初期に天理教の堕落ぶりを嘆き天理教から離れていくことになります。
真っ直ぐで真剣だったがゆえに国策におもねった『明治教典』の内容をはじめ、教団の方向性を許容できなかったのでしょう。
廣池氏は天理中学校長時代、
と述べ、あるいは大阪府知事官邸で
など「因縁」に重きを置いた講演の記録が残っています。そこからは廣池氏の因縁の教理に対する思いが迫力をもって伝わってきます。
また1912年2月25日に、内務次官の床次竹二郎が主導して行われた、神道(13人)、仏教(51人)、キリスト教(7人)の代表、計71人による会議、「三教会同(さんきょうかいどう)」 にあわせて出版された『三教会同と天理教』で説明される天理教の教理の中心は「因縁論」であり、これは昭和24年発行の現行『天理教教典』 に引き継がれています。そしてこの『三教会同と天理教』の原案を書いたものが廣池氏ではないかとされているのです。
つまり廣池氏はいんねんの教理を浸透させ、教祖の教えを二代真柱以前に体系化することを試みた先駆けだったと考えられます。
さて、ここからは暴論(多分)になります。横山やすし的に言うと「正味の話し」というやつです。
かつて淫祠邪教と謗られた天理教が社会に認知されるよう尽力くださり、増野鼓雪氏以前の思想的リーダーでもあった廣池博士には申し訳ないのですが、私はこの「いんねんの教理」がとても嫌いなんです。ですから信者さんに説いたこともありません。
中でも『天理教教典』に記される「前生のいんねん」の教えが教祖によって教えられたものであるとしても、それは教祖なればこそ語ることができた「目に見えない世界」の話しであり、人間がエラっそーに説くべきではないと私は強く思っております。
昭和58年の『陽気』に掲載された「人に笑われた衛生業」の内容が差別的であるとされ
との糾弾を受けて『教典』の「因縁」にかかわる記述が改訂されています。
当然といえば当然すぎる糾弾です。
現在では差別的文言が教団の出版物に掲載されることはありませんが、いまだに「前生のいんねん」という言葉が『天理教教典』で採用されている事には疑問を感じています。糾弾された部分は改訂されているとはいえ、言っていることの本質はまったく変わっていないように思えてしまって。
と記述されています。
これ、いいの?
「前生いんねんは、先ず自分の過去を眺め、更には先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。これがいんねんの自覚である。」
無理ですよ。先祖を振り返るって一体何代先まで遡ればいいのでしょう。信頼できる家系図でもなければそんなことはできませんし、できたとしても先祖個々のパーソナリティや、その人生にどんな所業があったかなど分かるものですか。
なので前生のいんねんの自覚など、所詮は中途半端に曾祖父母の代くらいまで遡って調べ、自分の気持ちと折り合いをつけるしかないと私は思っています。
それともう一つ、
「前生のいんねん」という本人に選択できない過去に原因を求めるという考え方は、逃れられない運命を突きつけることであり、同時に「今世で起きる不幸や不運は自分だけの責任ではない」と考える、現実逃避の側面も持つと思うのです。
果たしてそれを受け入れることが、今を生きる本人にとって本当に幸せな選択なのだろうか?という疑問も感じます。
正直なところ、前生のいんねんなど蹴っ飛ばしてやりたいくらいです。(暴言だね)
また、出自による謂われ無き差別を受けてきた方には受け入れがたい教えだと感じます。前生のいんねん論を先祖代々差別を受けてきた当事者に説くことができますか?
SNSが発達した現在、社会の差別についての考え方は改善され、反応もより敏感になっています。非常にセンシティブな問題の筆頭格ですよ。
前生のいんねんに対する教団の解釈がどうであれ、万人に胸を張って説くことの出来ない教理に普遍性は与えられるのでしょうか。
であれば、教典からも除外すべきだというのは暴論でしょうか。(暴論だね)
ここで一言だけ申し添えておきます。私は廣池博士が天理教に対して果たして下さった数々の業績に心から敬意を払うものであり、心から感謝いたしております。その見識の高さと教理に対する真摯な取り組みは、天理教の高弟たちを凌駕するほどです。教団は三顧の礼をもって迎えた博士を、自分たちの都合で直接間接に石持て追いました。本当に申し訳ないことをしたと感じております。
ですが、博士が後にモラロジー道徳科学研究所を創設されたことは本当に喜ばしいことです。
結局、当時の天理教には博士の高潔を受け入れるだけの見識と決意が無かったのだと思います。
でも教団に残っていたら、おそらく飼い殺しされていたであろうことを思うと、天理教との訣別はご本人にとっても、日本思想界にとっても吉とすべきなのでしょう。
さて、今回も話しがあちこちへ飛び、まとまりのないものになってしまいましたが、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
よろしければご意見などいただければ幸いです。
ではまたいずれ。
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