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別席制度がもたらしたもの

未信仰の方が初めて天理教の信仰に触れる機会は様々だと思います。
入信に至るケースについては別の機会に譲りますが、入信後、会長さんから信仰の第一段階として勧められるのが「初席」を運ぶことではないでしょうか。     
また、「修養科」を勧められることもあります。修養科ですと三ヶ月の間に別席も運べますね。でも社会人だと三ヶ月というのは年次有休休暇をすべて使っても足りませんのでなかなか難しいですよね。主婦やお子さんがいる場合も同様に容易ではありません。
いずれにしても「別席」のお話を聞き、「おさづけの理」を拝戴することが信仰の第一歩になっているように思います。
ここでちょっとだけ問題提起させてください。「別席」についてもの申すのはとても勇気がいります。びびってます。でも言っちゃいます。長年気になっていましたから、三年千日が始まる前に思い切って言っちゃいます。 

では参ります。
さて、教祖の年祭前には各系統による「別席団参」が集中して行われてきました。別席団参には信仰を始めたばかりの方をお連れする場合と、その段階では入信していないニュートラルな立場の方に「一度神様のお話を聞いてみませんか?」と誘ってお連れするケースがありますね。
私の見聞きする限り、後者が圧倒的に多いと感じます。事実、私の系統がそうです。
本部参拝の帰路、観光地や娯楽施設に立ち寄る団参を企画し、防犯活動を通して交流のある近隣町村の青年団や消防団に「おぢばで一度だけ神様のお話を聞いてくれませんか?」とお願いして初席者を作ったこともあります。
実はこういった手法は他系統の教会でも長きに渡り使われていると聞きます。悪しき習慣ではありますが、「天理教的結果オーライ」で批判は封じられてきました。
「手法がどうであれ、初席さえ運んでくれれば、後は神様がおさづけ拝戴までお導きくださる。だから心配することはない」という、神様に丸投げすることがむしろ王道だと言わんばかりの理屈に一分の疑問も抱かず。
確かにその方法を取れば初席者は増えるでしょう。年頭に教会個々が設定する心定めの実績にもカウントされます。でも、当然ながら続きません。二席目、三席目で「もうかんべんして」と断られることが多く、おさづけ拝戴に至る方は稀でした。おさづけを拝戴された方でも、現在まで信仰を続けている方はいません。

では、おさづけ拝戴に至った方が何故お道から離れてしまったのでしょう?
ひとつのケースとして考えられるのは「ようぼく」になった途端に、教会から過度の期待をかけられたからではないでしょうか。いわば戦力としての。
「御供」「月次祭へのおつとめ着での参加」「ひのきしんへの参加」「修養科へを勧められる」など、入信したての方には結構高いハードルが課せられるからです。もちろん強要されることは無いでしょうが、そのハードルを超えられないことで会長さんに対して気まずくなり、またプレッシャーにもなったと思うのです。他の先輩信者の目も気になります。あれほど優しかった教会の人たちが、なんとなくよそよそしく感じられてしまい、そして徐々に教会へ足が遠のくことになる。そうした姿を目の当たりにしたことがあります。
こういうことを書くと「それは会長の丹精が足りない」と言われるでしょう。勿論そうなんです。会長も反省すべきなんです。でも問題の根源はそこではなく、楽しい観光旅行の合間に「ちょっとだけ神様のお話を聞いてね」という本末転倒した勧誘方法にあるような気がするのです。

さらに言えば、別席を運びおさづけの理を戴くことが信仰の入り口として常態化しているところにあると思うのです。
これまで各教会は年頭に「初席者」や「おさづけの理拝戴者」の人数を心定めしてきたと思うのです。こうした慣例が問題を生む原因になっているとも言えるのではないでしょうか。

また別席団参ではなく、布教活動によってにをいがかかり教会に足を運ぶようになった方も、比較的早い段階で別席を勧められると思います。
いずれも、信仰の入り口は「おさづけの理の拝戴」という認識からくるものと思われます。

【余談です1】
観光と合体させた「別席団参」の場合、「別席の誓い」の段階で「お話を聞いてくれと言われただけで、天理教に入信するつもりなんかない」と、ちょっとした騒ぎになることもあります。そりゃそうですよね。
私が同じ立場でもキレます。

【余談です2】
私の系統の別席団参の話です。別席者があろうが無かろうが、教会長は原則全員参加です。別席者を連れてきた会長は、意気揚々と別席場へ付き添い、それ以外の会長は境内地の除草ひのきしんをしながら別席が終わるのを待ちます。
晩秋のこととて冷たい風が吹き、髪はバサバサに乱れ、鼻水も出ます。お互いに「ポンコツ会長がっ!」と、けなしあいながらひのきしんに励む姿は、それはそれは哀愁漂うものでした。
※この余談は本文と関係ありません。


こうした現状を憂いて、教学者の恩師Dr.Leeは

別席制度が大量の人を感化できる機能を果たしていた時代もあったが、自ら求めて運んだ人ばかりでなかったことや、自ら求めた人の中にも打算的な目的で運ぶ人もあり、玉石混交の様相を見せていることに不信感を抱く人もあった。
たとえば「政治家が選挙の票集めのために」であるとか「教会の心定め達成のため」など。その結果、おさづけの理が軽んじられることとなり、おさづけを取り次がない人が増えたのも当然だ。
かつてから、無理な勧誘もその後の導きで結果がでればよいという方便があったが、それが通用しなくなったのは、世の中がネット社会になったことも理由としてある。
本末転倒した筋の通らないことや、矛盾がSNSによって可視化されてしまったことで教内の者も疑心暗鬼になり、不信感から後進に勧められない事情となっていったと考えられる。

Dr.Leeの言葉

と語りました。
数にこだわり、観光をエサにした初席者の確保は見識ある若い世代に不信感を抱かせました。
また、おさづけの理が軽くなっていることも実感します。それは恩師が語った理由だけでなく、別席制度自体にも問題があるように思います。
まず、おさづけ拝戴までの流れがユルユルです。実際に別席中、毎回寝ていたにもかかわらず、拝戴した不届き者がいますから。
教祖ご在世時、おさづけの理は神様の思し召しに叶った者だけに任意に渡されていました。
後に三度のお話しを聞いた後に渡されるようになり、さらに九度の別席でのお話を聞かなくては戴けなくなりました。こう聞くと一見ハードルが上がったように思うかも知れませんが、以前は別席を運ぶための試験があった時期や、おさづけ拝戴前に厳しい試験を通過する必要がありました。その上、面談によって信心の確かさが認められないと戴けませんでしたので、今はとても簡単になっているのです。

現在、多くのようぼくがおさづけを取りつがないという実態を嘆く声を耳にします。でも信仰心の有無にかかわらず、猫も杓子もおさづけの理を拝戴できる制度を認めてきたことに責任があるのではないでしょうか。
ただ、改めるべきは別席の制度のみならず、「おさづけの理拝戴」が信仰の入り口になっているという慣習ではないかとも思うのです。
真のようぼくが育ちにくい土壌がここにあると思われます
Dr.Leeは語ります。

名ばかりのようぼくを生まないためにも、導き手は、おさづけの理拝戴を信仰の入り口とすることを止めるべきと考える。
また「別席者の増加、修養科生の丹精」を目標にするのではなく、「陽気ぐらし」と人類のふるさと「親里」を軸に人間の真の豊かさを実感し、語れる人間を育む土壌になるよう、現在のリーダーたち自身が思考の変革をすることが第一ではないかと思う。

Dr.Leeの言葉

九度の別席を経て晴れて「ようぼく」となる。本人の感激はもちろん、新しい「ようぼく」の誕生は会長さんにとって最も嬉しい出来事でしょう。
だからこそ 教団全体がおさづけの理拝戴を入り口とせず、そこに至るまでにじっくりと育み、時間をかけてその方の信仰的可能性を拡げる方向に舵を切るべきではないでしょうか。

別席制度についてはモリジロウさんも『別席制度とおさづけについて』で詳しく書かれておりますので、一度ご覧になることをお薦めします。

まもなく教祖140年祭にむかう三年千日が始まります。またぞろ数値目標を競う別席団参が繰り返されるのでしょうか。
今回は信仰の入り口について簡単に触れてみました。
次回は教会とようぼくについて書いてみたいと思います。

ではまたいずれ。

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信者とかようぼくとか教会長とか教会とか本部とか。




 


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