科学と「元の理」 秋治さんへのアンサー
今から28年前の平成7年1月17日(火)5時46分に発生した阪神淡路大震災によって多くの無辜の命が奪われ、その中には私の大切な友もいた。
「何故だ?」
そのシンプルな疑問に端を発した懊悩の中で「神」の存在意義にすら疑問を抱くようになってしまった私は、その気持ちに「折り合い」をつけるべく、『そのとき神は何をしておられたのか』という文章を書いた。
その記事に対してサイエンスライターの秋治・shinさんから次のコメントをいただいた。およそ1年前のことである。
震災で大切な友を亡くした私の心情を慮りつつ、科学の面から神の思いについて丁寧に説いてくださった暖かなコメントだった。
しかし、そのコメントに対して私は『秋治様からのコメントへのお返事』と題した記事の中で
という否定的な回答をしている。
「地球を維持する為には必要なのだ」という部分を消化しきれなかったのだ。そこで語られたプレートテクニクスと進化の関係についても、それを理解するだけの知識が私には無かった。
すると何日か経ったある日、秋治さんがご自分のnoteの記事『最近思ったこと・後半はBeさんへ』で、わざわざページを費やしてまでメッセージをくださった。
ありがたかった。いつまでも過去の出来事に拘泥し、そこからぐずぐずと逃れられないでいる私への、心からのエールであると感じ、胸を熱くした。
しかし、頑迷な私はそれでもまだ科学とお道の教えが親和するとは思えなかった。むしろその二つは対極にあるとすら考えていた私には神の本質が見えては来ず、疑問と葛藤は心の中でくすぶり続けていた。
そしてその後、秋治さんは『生命(いのち)の進化』令和編 科学の進歩で見えてきた「元の理」を上梓された。(※以下、『生命の進化』と表記する)
私は科学オンチだ。「科学」と「元の理」を題材にする以上、おそらく自分にとっては難解な内容なのだろうと短絡的に想像していた。
もちろん「元の理」が親神による創造説話であり、天理教の教えにとって最も重要なテクストの一つであるとは理解していたが、正直なところ、知っているというだけで深く掘り下げて考えたことはなかった。
たとえば「うを」「み」「どじょう」などの表現は「何かを喩えたもの」という認識はあったが、そもそも神の領域の話を神自身が語った「元の理」は、概要を知ってさえいれば完全に理解する必要のない「神話」の類いであるとさえ思っていた。
ところが、「見ず知らずの私にエールを送ってくださった方が執筆された本なのだから」という「義理が廃れば、この世は闇だ」的な気持ちから手にした『生命の進化』は、私の愚かな認識を覆してくれる衝撃の書であった。
学生時代の化学や物理の成績に関しては、目も当てられないほどの劣等生だった私である。その上、オーソドックスな天理教教義の教育を厳しく授けられた私にとって、科学は忌避すべき存在ですらあったのだ。なので、たとえ科学が「神の証明」を為し得たとて、結局のところ私の信仰に何ら影響を与えるものではないと思っていた。
そんな私に『生命の進化』は心のパラダイムシフトとも言うべき変化を与えてくれたのだった。サイエンスライターであり、クリエイターでもある秋治さんの筆力に依るところが大きいのだが、私が苦手とする科学の話も抵抗なく読み進めることができた。
秋治さんはご自分を指して「科学者ではない」という。だからこそなのかも知れない。そこに書かれたものは、これまで語られてきた「悟り」に依存した「元の理」の解釈が陳腐に思えるほど魅力的で興味深い内容であった。
以下に『生命の進化』の中で語られたことをいくつか抜粋し、要約してみる。
・親神はいつの日か人間の科学力が「元の理」に記される神が苦労して為した真実に近づき、気づいてくれることを望んでいると思われる。
・教祖は「ろっくのじにする」と宣言されたが、現身を隠された1800年代後半からの130年間で起きた科学と文明の驚異的な進歩は、そのお言葉が示す通り現実となった。それによって「元の理」で語られたことを「おとぎ話」ではなく「現実に起きたこと」として理解できるようになってきている。
・地球はあり得ない確率で存在する「奇跡の星」である。
まず地球は宇宙の中でも安定している超銀河団の中に天の川銀河に存在し、さらにその中でも安定している太陽系内にある。
また、太陽は地球の生命の生育に適した大きさで存在する。それによって地球は大気を失うことがない。また地球は温暖化に至らない程度の大気量になる重力を持つ大きさである。地球の核にある磁場が太陽風を跳ねのけ、その太陽風が有害な宇宙線を跳ね返している。
・月が地球の気候を安定させている。月があるからこそ地球の自転速度は一定であり、地軸の角度も変わらない。
月が無ければ地球の自転速度は速まり、1日が5~8時間になる。そうなると地球の環境は激変し、生命の大絶滅を繰り返すことになる。
・月があるからこそ地球に水が液体で安定的に存在し、生命が誕生し、光合成を行う生物が出現し、酸素を放出し、その酸素がオゾンを作って有害な紫外線をはねのけている。またプレートテクニクスによって温暖化を防いでいる。
などなど・・・
筆者の秋治さんから見れば的外れな要約をしている懸念もあるが、以上の部分だけを見ても、生命の誕生という奇跡もさることながら、奇跡が生まれる舞台となった地球自体も、あり得ない確率でしか存在しない「奇跡の星」であることを示してくれている。
-太陽と月がなければ生命は生まれず、なによりも人間への進化はあり得なかった。-
この言葉の意味するところを詳細に解き明かしたことによって、天理教で言うところの「月日」という言葉が「神」の比喩などではなく、神そのもの。あるいは神が果たし、今も果たし続けてくれている働きそのものであったことを私は知った。
また生命の誕生についての記述も興味深いものであった。
宇宙人はいるのか?
という問いに、
「現に地球があって人類や動植物が存在しているのだから、広大な宇宙空間の中には生命体が存在しても不思議ではない」
と多くの人が答えるのではないだろうか。私もそう考えていた。
しかし秋治さんによると、地球以外に生命体が存在する可能性は「絶対に無い」と言い切れるほどの低い確率らしい。つまり地球の存在同様に、生命が存在すること自体が全宇宙的にもあり得ないほどの奇跡なのだ。
あるいは、生命の誕生にも増して「進化する」ということが更なる奇跡であり、原初の細胞が人間にまで「進化した」という事実は、もはや確率的には限りなくゼロに近い奇跡中の奇跡だとのことである。
また「元の理」には三度の出直しと三度の生まれ変わりが記されているが、実際に生命の大絶滅は三度あり、生まれ変わりも三度あったという。三度の出直しと生まれ変わりの都度、スノーボールアースと呼ばれる地球全体が凍りつく「全球凍結」という現象が起きているという。
最初のスノーボールアースでは単細胞の「原核細胞」を利用して「真核細胞」が創造された。
2度目のスノーボールアースで「有性生殖」が始まり、3度目のスノーボールアースでは多様な生物種を生み出す「多細胞生物」が誕生している。 これら三度の死と再生は、もはや神以外には為すことのできない奇跡の連続によってもたらされているとしか言えない。
そして、そこから連綿と続く命の連鎖が今の人類に繋がっている。
みかぐらうたにある
は実際に起きた事象を記した真実の歌なのだと。
ここまで書いてきて、筆者である秋治さんの意図から外れてはいやしないかとヒヤヒヤしている。本書の魅力を十分に伝え切れない自分の筆力を呪いたくもなる。
しかし、身から出た錆とは言え、SNS上で「不良会長」とか「批判派」などと罵倒されている私がこれ以上書くと逆効果になりそうなので内容の紹介についてはここまでにしておきたい。
「元の理」と科学について、私のような科学音痴の人間にも理解ができるよう、本書の中には「これでもか」というくらい詳細で分かり易い記述がなされているので、是非手にとってみることをお薦めする。
私は教団批判を繰り返しているので、私が書くことで秋治さんの評価を下げてしまわないか心配している。それでもバリ天と言われる方にもアンチの方にも是非とも読んでいただきたいと願ってやまない。
この書を納得するまで読んだ今、私自身の心は軽くなった。心の平穏を取り戻すことが出来たと言っても過言ではない。いや、むしろとても明るくなった。
神は「ひょぃ」と簡単にこの世と人間を拵えたわけではなかった。
『天理教教典』第十章「陽気ぐらし」にある
という記述からは、一見いとも簡単に人間を創られたような印象を受けてしまうが、創造主たる親神をもってしても、壮絶な苦心を重ねられているのだ。
親神は長い時間をかけて土塊でしかなかった地を水の惑星にまで造り上げ、そこで生命を誕生させ、さらに「有性生殖」が出来るまでに育くみ、三度目のスノーボールアースで遂に多様な生物種を生み出す「多細胞生物」を誕生させてくださったのだ。
その後『元の理』に記される八千八度の生れ更りを経て「めざるが一匹だけ残つた」のである。
雌猿は決して比喩ではなかった。それはやがて人間となり、親神はその成人を待たれた。そして今この時も待ち続けておられるのだ。
何と壮大で親心に満ちあふれたストーリーであろうか。
私は『そのとき神は何をしておられたのか』の中で、無辜の人々が大震災などで命を落とすことを「個々の生き方を斟酌されることなく、無差別に与えられる神による介入」と結論づけたが、神は決して無感情でも冷徹でもなかったのだ。
「実の神」とは「唯一の神」だ。「唯一」とは孤独の謂でもある。孤独な親神は、寄る辺無き何十億年という時間を「この世と人間」を創り、神と人があい和す世を見んとして、ひたすらに歩まれたのだ。
そんな神が冷徹であろうはずがない。
今なら、およそ1年前に秋治さんがコメントしてくださった
という言葉を理解することができる。
友の死にどんな意味があったのか。今ではそれが分からなくてもいいと思えるようになった。友が生きた時間には間違いなく意味があった。大きな意義があった。親神が幾多の苦労を経て創造したこの世で、彼は命の限り生きたのだ。
悲しみに暮れた彼の子や孫が、彼の命を未来へと繋いでくれる。
『生命(いのち)の進化』令和編 科学の進歩で見えてきた「元の理」を読んで、『元の理』の真実に気づき、今を生きることにこれまでと違った価値を見いだせだとしたら、それこそが神の望みであり、信仰的成長なのではないだろうか。
私は救われたのだと思う。そして友の魂もまた救われたのだろう。
今、心からそう思っている。
まとまりのない文章になってしまったが、あの時、暖かい声をかけてくださった秋治さんへの、一年越しのアンサーになり得たとしたら幸いである。
そして、あらためて心から感謝の意を表したい。
さて、話しは変わるが、最近頻繁に「天理教は正念場を迎えている」という発言を耳にする。
何をもって正念場というのか理解に苦しむが、それは教会数や御供金や信者数の減少から抱く危機感の現れなのかも知れない。
だとしたら、お道をどう立て直すのか。
この本を読んだ今、まっ先に取り組むべきは数的減少を立て直すことに注力する前に、「元の理」を正しく理解することなのではないかと思う。
私たちは宇宙の始まりから地球の創造。そして生命の誕生と進化を知らしてくださった、世界に類を見ぬ「元の理」という「唯一無二の書」を持っている。しかし教外者から「元の理」について説明を求められた時、「うを・み・しゃち・かめ」などの納得のいく説明に窮し、自信を失ってはいないだろうか。
親神が最も伝えたかった「元の理」が埃をかぶってしまってはいないだろうか。年祭の旬に「元の理」を胸を張って説明できるようになることが、数を追求することに先んじて行われるべきだと強く思う。
これまでのお道は、個々の経験や考え方に大きく影響を受ける「悟り」中心の信仰になっていたと思う。
そうではなく、神の本質を基に答えを見いだすのが本物の信仰なのではないだろうか。進歩した「科学」は「元の理」に書かれていることが真実の物語であることを明らかにした。科学が神の働きと信仰を補完したのだ。
『生命(いのち)の進化』令和編 科学の進歩で見えてきた「元の理」を読み、この流れは止まらないだろうと感じている。
私がそうであったように、お道を信仰する方の中には教えを科学的な視点で考えることを忌避する人が大勢存在すると思う。しかし、神というものを真に理解するためには、真実を炙り出してくれるまでに進歩した科学を蔑ろにしてはならない。
私はそれが神の望みでもあると思っている。そういう意味では、今はまさに正念場と言えるだろう。
ではまたいずれ。
秋治・shin著
『生命(いのち)の進化』令和編 科学の進歩で見えてきた「元の理」
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?