疑似家族 -僕を育ててくれた人々-
父の失踪から約3年が経った頃、3歳になったばかりの僕は母に手を引かれ、初めて天理教の教会の門をくぐった。昭和も半ばを過ぎたある日の出来事だ。
(『邂逅』を参照)
その日から数ヶ月前、入信して間もなかった信仰初代の母が修養科への入学を決意すると、同居していた母の父母(つまり僕の祖父母だ)は烈火の如く怒り、猛反対した。
「天理教みたいなもんに入るなら、孫はワシらが引き取って育てる」
とまで言われた母は、理の親である一理布教所長(当時)に相談した。
まだ歳若く独身だった布教所長が更に所属教会長に相談したところ、母の修養科在学中は僕を上級の教会で預かり、責任を持って養育する。ということで、会長さんが祖父母を無理矢理納得させた。
当時、母子家庭に対する世間の目は、今では考えられないほど冷淡であり、ことに母親は「旦那に逃げられた不出来な女」というレッテルを貼られ、その子供を指して「片親」と言うなど、差別的な言葉が当たり前のように使われていた。
祖父母としては、ただでさえ世間から冷たい目で見られている出戻りの娘が、評判の芳しく無い宗教にはまるなどもっての外だったのだ。
そんなわけで、三歳の僕の教会生活は突然スタートした。
教会に着いた日のことを、数十年を経た今でも鮮明に憶えている。
当時わずか三歳だったにもかかわらず、それを記憶しているということは、母親から引き離されるという出来事が、心的外傷を受傷するギリギリ手前の出来事だったからなのかも知れない。
教会は古い旅館を改造したものだった。大きな建物で小部屋が沢山あり、二階への階段も幅が広く、立派な手すりが付いていたのを憶えている。
教会へ着いたのは夕暮れ時だった。着くなり麦飯とメザシだけの質素な食事をし、(教会の夕食の定番だった)その後、お風呂に入ることになった。
お風呂に入る前に神殿の参拝場に大勢の住み込みさんが並び、まず自己紹介が行われた。
台所や家事一切を束ねる、”おかあちゃん”と呼ばれる中年女性。会長さんの奥さんではない。
その下で忙しく立ち働くみっちゃん。多分二十代女性。
うーちゃんと呼ばれるピンクのネグリジェの女性。年齢不詳。
山ちゃん。精神的な障害を抱える中年男性。
よっちゃん。四肢に障害のある20代男性。
うめさん。背中に綺麗な彫り物をしょっていた。
御手洗さん。元左翼の活動家。
さっち。おかあちゃんの娘で高校生。
他にも何人かいたはずだが、それ以上は思い出せない。彼らの年齢なども成長してから知ったものだ。
一人ずつ名前が紹介されたあと、「ひーくんは誰とお風呂に入りたいかな?」と”おかあちゃん”に聞かれた。
タイムマシンで当時に戻れるなら、女子高校生の”さっち”一択であるが、気が動転していた僕は、顔と名前が一致しないまま、小さな声で「よっちゃん」と言っていた。よっちゃんという名前から女性だと思ったからだ。
身体が不自由だが、ゴリゴリの若い男のよっちゃんがニッコリ笑って「よし!」と左手を軽く挙げるのを見て、僕はガッカリした。
僕の落胆に気づいたのか、ピンクのネグリジェを着た”うーちゃん”が「よっちゃん大丈夫かね?優しくし洗ってあげなきゃダメだよ」と言ってケタケタと笑ったのを憶えている。
さすがに元旅館だけあって、お風呂は広かった。
よっちゃんは湯殿に入ると「ひーくん。先に身体を洗ってやろう」といって、大型の亀の子タワシを手にした。
僕は初めて見る巨大なタワシに恐怖を覚えつつ、よっちゃんに背を向ける形で木製の腰掛けに座った。後になって知るのだが、よっちゃんは右半身は不自由だが、左腕と左手の力は異常に強い。これも後で知るのだが、よっちゃんはこの時初めて子供を風呂に入れたと言う。
これで身体を擦ると風邪をひかないという理由でよっちゃんは亀の子タワシを愛用していたのだが、背中をひと擦りされた途端、僕はあまりの痛さと初めて味う異様な感覚に声を上げた。
するとよっちゃんは慌てて手を止め、「ごめんごめん」と笑い、力を緩めてくれた。
母子家庭であるが故に生活の大半を祖父母と過ごした僕は、逆に超過保護な環境で育っていたのかも知れない。
その後、石けんで髪を洗った後、湯船のお湯をすくって流してくれたのだが、目に石けんが入らないよう細心の注意をはらって流してくれた祖父母とは違い、よっちゃんは僕の頭のてっぺんから桶のお湯を乱暴にぶっかけた。
びっくりした僕は腰掛けから転げ落ち呆然とした。
その姿を見て、よっちゃんはまた「ごめんごめん」と言って笑い、
「ひーくんは泣かんねえ。偉いねえ」と、驚いたような顔をしていた。
そうなのだ。三歳にして僕は泣かない子供だったのだ。正確にはこの日から泣けない子供になったのだった。
今にして思えば、それは母親不在によ孤独感がなせるワザだったと結論づけられるが、他人しかいない世界に、たった一人で放り込まれた三歳児ということを考えれば、異様なことだったのかも知れない。
このお風呂での出来事の記憶は今でも鮮明に残っており、いまだ存命のよっちゃんも、事あるごとにこの話をしては昔を懐かしみケラケラ笑っている。
結局、この日から、よっちゃんは僕をお風呂に入れる担当に決定してしまった。そしてよっちゃんは僕の教育係でもあった。躾は結構厳しかったが、この時の経験が今現在も生きている。
夜は二十代女性の”みっちゃん”が一緒に寝てくれることになった。その後の教会生活では”みっちゃん”が母親代わりになって、あれこれと世話を焼いてくれた。
教会にはいろんな人がいた。精神的な障害を持っていた山ちゃんは神饌場の御神酒を飲んで泥酔しては大階段をしょっちゅう転がり落ちていたし、手首までびっしり墨を入れいてたうめさんは、神殿の賽銭箱を逆さまにして揺すぶっていたところ、”おにいちゃん”と呼ばれていた教会の若先生さん(後の二代会長)に見つかってしまい、柔道の払い腰で縁側から庭に投げ飛ばされていた。
ピンクのネグリジェのうーちゃんは飲み屋で働いており、部屋には職業不詳の男の人がいたが、僕が教会に預けられていた間にその人は出て行き、また別の男の人が同居するようになった。まるで「カスバの女」を地で行くような妖艶な女性だった。
元活動家の御手洗さんは寡黙で、日がな一日難しそうな本を読んでいたが、時折りお巡りさんが所在確認に来ていたと、後に知った。
幼くして混沌と猥雑と聖域が同居する空間で個性豊かな大人たちと暮らした経験は、ドロップアウトした人間に対する耐性と、人間の多様性を受け入れる素地を僕の中に作ってくれたような気がする。
さて、母親は修養科終了後、ひのきしん期間を経て検定講習に進み、結果的に僕が教会に預けられていた期間は1年を超えた。
その後、一時は福井と滋賀の県境にある豪雪地帯の小さな町で母と暮らしたが、中学生時代は再び教会に預けられ、そこから学校に通うことになる。
「この子に徳を積ませるため教会で生活をさせる」ということであったが、本当のところは「育児能力に欠ける母親と暮らすよりも、教会生活をさせた方がこの子の為に良い」という現実的な判断によるものだったのかも知れない。それでも、教会の子として育った少年期が無ければ、絶対に今の僕は無かっただろう。
成長してのち、僕はよっちゃんが幼くして肢体障害者となった家庭内での悲しい出来事の話や、夜間高校を経ておぢばの専修科に入ったこと。おさづけ拝戴に際して、障害の程度を巡ってすったもんだしたことや、青年会本部主催の弁論大会での優勝したこと。そして厳しい単独布教の末に布教所長となったことなどを知る。そんなよっちゃんも僕が二十歳になった頃には素敵な伴侶を得て教会長になっていた。
よっちゃんの口癖は「今度生まれ変わってくることができたら、五体満足でさえあれば何も望まんよ。そしたら今以上にお道の御用に励めるもんね」であった。
今では謙虚で心優しい息子さんに会長職を譲ったが、前会長として、また上級の役員として、生まれて間もない孫を溺愛しつつ「この人ににをいを掛けんならんと思えば、道の辻で会うても掛けてくれ」という教祖のお言葉を体現しつつおたすけに勤しんでいる。
その後、中学生時代に再び教会に預けられた時も、よっちゃんは僕の教育係だったが、僕が3歳の頃に女子高校生だった”さっち”は、とうに結婚し、教会の近くの団地で幸せな家庭を築いていた。
当時、教会は普請中であったが、資金不足で工事が頓挫しており、それゆえ食生活は悲惨なものであった。毎日のように乾麺の素うどんか、麦飯とメザシが食卓に並び、肉類どころか卵すら見たことが無かった。育ち盛りの僕はゲッソリと痩せてしまい、学校の健康診断でも要注意と言い渡されるほどであった。
それを見かねた”さっち”が、僕を度々市営団地の自宅に呼んでくれた。手製の餃子を百個作って待っていてくれたり、お好み焼きをお腹一杯食べさせてくれたりした。
貧困が常につきまとう時期であったが、この人たちの無償の愛情が、少年期の僕を様々な哀しみから守ってくれていたのだと思う。
この頃が教会にとって最も苦しい時代だったと皆が口を揃えるが、それに気づかず成長できた陰には、周囲の人々の目に見えぬ細やかな配慮があったのだ。
そして今、よっちゃんはすっかり生意気になってしまった僕と教理について議論を交わすことが楽しみであるという。実際に教理解釈を巡ってしょっちゅう大ゲンカをしたりもするが、それもよっちゃんにとっては楽しいことらしい。
ちなみに、よっちゃん以外にも、当時住み込んでいた主だった人たちの中から”おかあちゃん”も”みっちゃん”も”さっち”も、それぞれ教会長になった。
僕自身と言えば、母が入信した当時の布教所がすでに教会になっており、40歳で会長職を引き継がせていただいた。
三歳の時に添い寝してくれた”みっちゃん”は、すでに天寿を全うして出直された。
現在、存命なのは”よっちゃん”と、当時女子高校生だった”さっち”だけになってしまったが、この二人には今も頭が上がらない。
当時三歳だった僕が、半世紀を経て、その愛すべき人たちと一緒に、今では上級となった教会の役員をしているのだから、人生はどう転ぶか分からないものだ。
そして忘れてはならないのが、父親代わりとなって僕を育ててくれた初代会長さんだ。
社会をはみ出した人たちを教会に住まわせ、抱きかかえるようにして通られた初代会長さんは、天理教の「ての字」も知らぬ若き日に、雪深い越後から単身東京へ出て、長い丁稚奉公の末にウイスキーを製造する事業を興した。
やがてその事業は大成功をおさめるが、ある日従業員が持っていた『陽気』を読んで教祖のひながたに触れた。その感激から、成功をおさめていた事業を投げ打ち、信仰の道を歩むこととなり、やがて初代にして新設教会を興した方だ。
よっちゃんや、みっちゃんをはじめ、多くの住み込みさんを厳しくも愛情いっぱいに育て、何もかも抱きかかえて通られた。
食べるモノに事欠く中、急な来客があった時などは、その都度洗い過ぎて灰色になってしまったおつとめ着の袴を馴染みの質屋に入れ、借りたお金でお茶やお茶菓子、時にはお酒などを買って対応していた。
それがあまりにも頻繁だったので、ある日ついに質屋のオヤジが「天理教の先生。もういい加減にしてくださいな。こんな物、質草にならないよ」と預かりを拒否した。
すると会長さんはいささかも怯むことなく、
「私たちの御教祖おやさまは、貧に落ちきることで世界たすけの道あけとなされ・・・・」
と、教祖のひながたを朗々と語りだしたので、質屋のオヤジは呆れ果て「分かった。お金は貸してやるからその汚い袴は持って帰れ」と言ってお金を貸してくれた。
それまでにも質流れする前に律儀に借りたお金を返済していたので信用はあったのだろう。その後は袴を持って行くだけで、嫌な顔をしつつも質草に取ることもせず、黙ってお金を貸してくれたと言う。
教祖のお弟子であること自認する会長さんの面目躍如たるエピソードである。
会長さんを可愛がってくださっていた本部員の中山慶一先生が何の前触れもなく来会された時も、いつもの手で質屋さんに頼み込んで普段より多めにお金を借り、夕食のお膳に1本のお銚子と鯛のお造りをつけることができたという話は会長さん一番のお気に入りの思い出で、晩年には酔うほどに万朶の桜の如き笑みを浮かべ、繰り返しそのお話をされていた。
僕が三歳で教会の門をくぐった頃は、会長さんが前年に脳出血で倒れ、教会の離れで静養していた時期であった。そのため滅多にお顔を見ることがなかったが、その後すっかり回復され、僕の中学生時代から青年期にかけて、人間とは。生きるとは。善悪とは。神様とは。そして人間らしく生きるということがどういうことなのかを、時にはゲンコツをもって骨の髄まで叩き込んでくださった。
僕という人間の背骨と血肉はこの初代会長さんによって形作られている。
会長さんの強い薦めで高校からはおぢばで学んだが、長期の休みには真っ直ぐ教会に帰ることを厳命されており、母のいる自宅へ帰ることを許されなかった。一見、薄情と思われるような致しように教会の古手の人々は抗議してくれたが、会長さんは情に流れず、頑として親もとに帰ることを許さず、あくまでも僕が「教会の子」であり「理の子」であるということを自覚させてくださった。
その後何度も道を踏み誤り、ドロップアウトを繰り返した僕が、その都度お道に戻ることが出来たのは、心の奥底に染み付いた会長さんの教えと親心の賜物なのだ。
すでに亡くなられて久しく、現在の会長さんはそのお孫さんである。彼もまた、初代・二代の心を受け継ぐ謙虚でいて太い芯のある素晴らしい三代会長だ。
また、僕の中学生時代に嫁いでこられた二代会長さんの奥さんも忘れてはならない恩人だ。
お金が無くて普請が中断し、困窮に喘ぐ単立教会(当時)の後継者(後の二代会長)に、なんと某有名大教会のお嬢さんが嫁いでこられたのだ。お嫁さんと共に貧困教会にカラーテレビと電子レンジもやって来た。大人たちにしたら、食べるものも無い教会に、電子レンジの嫁入り道具など意味不明で、「電子レンジよりお米を持ってきてよ」と切実に思ったであろうが、中学生の僕にとっては文明開化が到来した如きウキウキ感があった。
嫁がれたその日から”若奥さん”と呼ばれるようになったお嫁さんは、それまでは夏場には一日に3回シャワーを浴び、その都度下着も替えるのが習慣という、お嬢様を絵に描いたような方だったので、シャワーなど有るわけもなく、お風呂の薪すら事欠く貧乏教会でやっていけるのだろうかと、中学生の僕ですら心配になったのを憶えている。
頼りとする旦那さん(若先生・二代会長・通称おにいちゃん)が本部の御用で留守がちで、完全に浮いていた元セレブの若奥さんにとって、片親で徳が無く、思春期特有の屈折と鬱屈を抱えた僕は格好の「おたすけ」の対象だったのだろう。母親のようにあれこれと世話を焼いてくれ、思春期の悩みにも親身になって耳を傾けてくれた。しかし必要以上に干渉してくるその存在が疎ましく、反抗したり避けまくったりした時期もあった。それでも若奥さんは最後まで僕を見捨てなかった。だから今も心から信頼し、母親のように慕っている。
当時の教会には初代会長に仕込まれた”おかあちゃん”をはじめとする歴戦の強者のご婦人が多くいたので、台所や家事を取り仕切る立場になった若奥さんは、今にして思うと敵陣の真っ只中に放り込まれたプライベート・ライアンのような気分だったと思う。四面楚歌のような状態の時期もあり、人知れず涙した日もあっただろう。
教会が経済的に最も苦しい時代、工事が長きに渡って中断したことで、赤錆が浮いてしまった神殿の鉄骨の骨組みを見上げては「申し訳ない」と呟き、涙している姿を僕は忘れることができない。
でも、このお嬢様然とした若奥さんだが、実は本部で仕込まれる女子青年の中で、最初に髪を赤く染めたという強者だった。「結構イケイケなお嬢だった」という、若奥さんの同級生による信憑性の高い証言もある。こうした証言や評判は、隠れてタバコを吸っていた僕にとってはむしろ好ましいものであった。
若奥さんの持って生まれたバイタリティと、美しくも優しい心根。そして強烈なリーダーシップはやがて皆の心を惹きつけるところとなり、歴戦のババアたちからも頼られる、押しも押されもせぬ「奥様」になっていかれた。
今では元は有名大教会のお嬢様の面影は無く、典型的な田舎の教会の親奥様っぽくなってはいるが、僕にとってはどんなに立派な大教会の親奥様たちよりも気高く美しく見える。
やはりこんなカオスな教会に嫁いでこられるだけあって、ただのお嬢様ではなかったのだ。今も上級に参拝した際には真っ先にご挨拶に伺うお方である。
最近は真似事のような僕のおたすけ話を、いつも我がことのように真剣に聞いてくださり、そして「ひーくんは小さい頃からタダ者じゃないと思ってたよ。ドンドンやりたいようにおやりなさい!」などと、絶対に思っていなかったであろう言葉を平気で口にして励ましてくれる、人誑しでもある。
さて、来月は上級の月次祭で神殿講話に当たっている。
僕が講話をする時、親奥様は寝ているように見えて、実はしっかり聴いている。時折目を開け、微笑んでくれるのが嬉しい。
よっちゃんは、いつも一番後ろ椅子席に座り、優しい目をして時折うなずきながら、一所懸命に僕の話を聞いてくれている。
喜寿を過ぎた”さっち”は僕の講話がたとえどんなに不出来な内容であっても、いつもニコニコして、「ひーくん、凄いねえ。よう勉強したねえ。しっかりお道を通ってるねえ」と涙を浮かべながらベタ褒めしてくれる。
だからいつも手を抜けないのだ。僕はこの人たちをごまかすことなどできない。
教会生活で生まれる疑似家族のような関係。それは実の家族に劣るものでは決してないと思う。この歳になって、そう思える幸せを感じている。
秋の夜長にふとそんなことを思い、記憶を辿りつつ記してみたところ、期せずして僕の元一日を炙りだすことになった。
少々気恥ずかしいが、こういうのを恥の書き捨てというのかも知れない。
立教の元一日の前夜に。
おしまい。
※文中で記した人名は仮名です。
writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI