ひながたの同行者「中山秀司」考
序にかえて-おまさのおばんと曾孫の慶一-
1.「悲しいくいちがい」中山慶一
いきなりの引用で恐縮ですが、敬愛する中山慶一先生の言葉を紹介します。
道の先人が遺してくれた言葉に触れる時、ときおり「ハッ!」とさせられることがあるのですが、慶一先生の「そらもう、親を思う秀司先生の、人間としての真実の心と、人間の親としての教祖の御思いとは、いつでもくいちがう、悲しいくいちがいやな。」という言葉を目にした瞬間、僕は胸を締め付けられる思いがしました。
慶一先生、さすがは"おまさのおばん"の曾孫。一味違います。「理と情」のせめぎ合いを「悲しいくいちがい」という言葉で端的に表現されました。
中山慶一先生をご存じでない方もいらっしゃると思いますので、簡単に紹介させていただきます。
慶一先生は系図でいうと、おやさまの長女おまささんの曾孫にあたります。
明治39年(1906年)4月29日、本部員中山慶太郎氏の長男として天理に生まれる。
大正15年(1926年)天理中学校を卒業。
昭和7年(1932年)東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科卒業。
27年から宗教法人天理教責任役員、学校法人天理大学理事長などを歴任。
31年、本部員に任命。
37年、本部直属本明實分教会長に就任。
44年から52年まで天理教表統領。
60年6月25日、80歳で出直し
という経歴の方です。
僕自身、20代の初めに薫陶を受けた先生でもあります。
2.「おまさのおばんこと中山まさ」
慶一先生の曽祖母にあたるおまささんは、やれ「埃の館だ」、やれ「大酒飲みだ」。あるいは「酔うと女性にあるまじき振る舞いに及ぶ」などと随分な言われかたをしてきましたが、僕はおまささん、好きですよ。
おまささんについての逸話が、ほこりまみれの信仰者こーせーさんの記事にあります。
この逸話にみる”おまささん”の活躍ぶりに胸のすく思いがしました。やんちゃなおまさのおばんの魅力爆発です。
飯降政甚さんと『新宗教』の口述記
1.「もう剛情は張らせんやろ」
さて、冒頭で秀司さんに関する慶一先生の言葉を紹介しましたが、みなさんは中山秀司さんに対して、どんなイメージをお持ちでしょうか。
信仰的に未熟で、人としても厚顔無恥な小僧だった頃の僕は、「まつゑさんと結婚して後は、おやさまの思し召しに素直に従わなかった息子」という負のイメージを持っていました。
今となれば、それが大平隆平(良平)の『新宗教』に掲載された本席飯降伊蔵さんの次男、政甚さんの”口述記”に少なからず影響されたものであることは否めません。おそらく、教団組織の慣習に強い不満や疑問を感じていた時期でしたので、大平の記述に出会ったことで自分の考えが補完されたと感じたのでしょう。
その後、文章を書くことの魅力に取り憑かれ、さらに恥ずかしげもなくnoteで記事を公開するようになったことで、僕は文章の中で引用するソースの信憑性を担保すると同時に、記されたテクストの奥に潜む真実をさまざまな角度から検討するようになりました。
たとえば”話し言葉”であれば、それを喜・怒・哀・楽など、違った感情を込めて声に出し、読み比べてみます。するとそのテクストがまったく別の色彩を帯びることがあるのです。
先述した『新宗教』の政甚さんの口述記などはその最たるもので、その作業によって自分が大きな誤解をしていたことに思い至りました。
政甚さんが、父である本席飯降伊蔵さんから聴いたとされるテクストがこれです。
秀司さんが今まさに出直されたことを、飯降伊蔵さんがおやさまに対して申し上げたとされる場面です。
このテクストからは、一見するとおやさまの驚くほど冷淡なお態度が伝わってきます。
『稿本天理教教祖伝』にある
という記述とはまったく意味の異なるお言葉をかけられたことになります。
大平によるこの記述には、秀司さんが蓄財に励んでいたことを示すおやさまのお言葉が含まれているので、『稿本天理教教祖伝』の記述に疑義を呈したり批判したりする人々にとっては格好の攻撃材料となりました。
なにしろ本席の次男である”政甚さん”の証言として書かれているのですから、軽くはありません。ことに『稿本天理教教祖伝』の記述を信じてきた者にとっては重く暗い投げかけとなりました。
事実、このテクストは八島英雄による『中山みき研究ノート』に見る
などの悪意ある記述と同様に、秀司さんのパーソナリティーを貶め、また教団の伝統的金権体制批判の論拠としてたびたび使われてきています。
では、政甚さんが語ったおやさまのお言葉が真実だったと仮定して、先述したようにテクストに別のトーンを与えてみます。
あえて次のような前提をもって、あらためてテクストを読んでみてください。
おやさまは「理と情」を峻別され、理に徹した姿を崩さぬことをご自身に課しておられた。それゆえ飯降伊蔵に対しても「伊蔵さん。内の態を見ておくれ。金を溜めると此の不始末だで」と嘆息したが、おやさまは心で泣いておられたのだ。教祖中山みきが涙ひとつこぼすことはなくとも、母みきはその小さな肩を震わせ、心の中でさめざめと泣き、嘆き哀しんでおられた。
いかがでしょう。随分と印象が変わりませんか?
「金を溜めると此の不始末だで」
という部分については詳しく後述したいと思います。
2.「どうした政甚」
政甚さんについて付記すると、この大正5年から少しさかのぼった本席のお出直し以前に、政甚さんに関係する
などのおさしづの割書がありますが、
「政甚事情に付、本席の仰せには親子の縁を切って了う、との事の方如何致して宜しきやとの願」
など、穏やかならざる言葉が散見されるのが気になります。
また、『新宗教』の中では本席はじめ、飯降家に好意的であった大平隆平が
と、紙面を割いてまで政甚さんに檄を飛ばしていることからも、政甚の素行にも問題があったのではないか?という疑念が沸き起こります。
神の代弁者の嫡男という、”言うに言われん”立場に生まれたことが、青年期の彼にどういう影響を与えたのかは想像すらできません。しかし素行不良の原因が本部への不満によるものだとすれば、教団批判に精力を傾ける大平隆平による、バイアスがかかった誘導尋問的インタビューにまんまと嵌まってしまった。ということもあり得るかもしれません。あくまでも想像に過ぎませんが。
3.「残念な大平隆平(良平)」
では、少しだけ大平隆平について少し触れます。
大平が『新宗教』の政甚談話を掲載した号の発行日として使用している”紀元十億七十七年”という謎の年号の根拠はさておき、おそらく大正5年を指すものと思われます。というのは大平が『新宗教』で天理教批判を繰り返したのは大正4年4月から翌大正5年8月にかけての1年4ヶ月間のことであり、その大正5年(1916年)には30歳の若さで没しているからです。
『新宗教』に記されている政甚さんの言葉が大平によるまったくの捏造であると言い切る材料はありませんし、この「政甚発言」をめぐり、本部員会議で政甚さんが審問を受けたという『新宗教』での記述も事実だと思われます。
大平は当初『新宗教』で天理教組織に対する建設的な意見も述べていました。その提言にはうなづける部分もありました。それは現在教団改革を唱えている方々の建設的な意見と比べても遜色のないものでした。むしろ、現在耳にする批判をこめた改革案が、大平が唱えた論の模倣でしかないと思えるほどです。
と、当初おやさまを絶賛していた大平は、その後「天理教界革命の声」と題して
第一章 階級制度を打破せよ
第三章 封建制度を打破せよ
第四章 中央集権を打破せよ
第五章 教理を乱用する勿れ
第六章 此の道は名聞を求むる道ではない
第七章 此の道は営利を求むる道ではない
第八章 堕落せる天理教
第九章 神の栄光は地に堕ちた
第十章 神の名誉を復活せよ
と章立てして本格的な改革案を論じています。その内容には同意できる部分もありましたが、提言というよりも、教団上層部の人格攻撃を含む痛烈な批判にウエイトが置かれており、当時教団組織のあり方に大きな疑問を感じていた僕ですら食傷するほどでした。
たとえばこんな感じです。
大平は、信仰生活を体験せねば本当の信仰は分からないと思い立ち、いったんY大教会に所属しつつ教えを学びますが、その過程で組織が歴然たる階級社会であることなどに幻滅し、脱会(※本人の表現)します。それ以降は教団や教団中枢の個人に対し、
などといった、攻撃的な批判をおこなうようになりました。
述べている意味は解りますし、教団組織に悪弊が存在することは僕も理解しています。
しかし自分自身を指して「天の判官を命ぜられた」といっている時点で、彼の人間性が露わになる気がします。
およそ文筆を生業とする者にしては、あまりにも品性を欠く文章です。あ。僕も他人のことを言えた義理ではありませんが。
大平にすれば、建設的な提言をしているという自負はあったのでしょう。しかし、ただただ自分を認めなかった本部に対する恨みつらみを吐き出しているに過ぎないようにも感じられます。大平の文章を引用して論文を書く場合、二次資料としても認められないでしょう。
大平については朝日神社のWEBページに
と記載されています。
そうしたこともあって、今では大平の書くものに一分の信頼も置いておりません。
大平隆平。かなり残念な方です。
神の子 中山秀司の生き様
1.「お金をプールすることの必然性」
では前掲の「伊蔵さん。内の態を見ておくれ。金を溜めると此の不始末だで」との、おやさまのお言葉について私見を述べます。
もちろん、おやさまの思し召しは
「水を飲めば水の味がする」
や
「貧に落ち切れ。貧に落ち切らねば、難儀なる者の味が分からん。水でも落ち切れば上がるようなものである。一粒万倍にして返す」
とのお言葉が象徴するように、神の屋敷に住まう者に貧に落ちきることの大切さを諭し、蓄財を戒め、天からの与えと、成ってくる理を喜ぶことにあります。
なので、おやさまが「伊蔵さん。内の態を見ておくれ。金を溜めると此の不始末だで」と本当におっしゃったとしても、それは神のやしろとしての理に徹しているからであり、現実的な問題に直面し続ける秀司さんとしては、当時のお屋敷にあって、寄りくる人々からの奉賽金などをプールする必要に迫られていたと考えられます。水の味が分かることに感謝できたとしても、人間は水だけでは生きていけないのですから。
おやさまのお言葉に背いていたとしても、僕にはそれが「悪行」であるとは思えないのです。
ではここで、秀司さんが戸主をつとめていた当時のお屋敷の状況を考えてみたいと思います。
と記されるように、本席飯降伊蔵さんの信用によって買掛金の返済を先延ばししてもらったものの、最終的な支払いの責任は戸主である秀司さんが当然取るつもりでおられたでしょう。また、その他のお屋敷内の増改築や、足もとを見られたであろう金剛山地福寺の配下になる交渉にあたって発生した費用などについても、他の高弟たちからの金銭的協力はあったとしても、秀司さん以外に最終的な責任を取れる方はいなかったはずです。
という言葉が、そうした切ないまでの「理と情」のせめぎ合いを端的に言い表しておられます。
2.「天理教壊滅の危機」
また、以下の文章からは明治20年以前のお屋敷、つまり天理教が壊滅の危機に瀕していることを、秀司さんが誰よりも正確に認識していたことがうかがえます。
秀司さんが出直されて後も、明治15年10月には
という、明治10年同様の事件が起きています。これについては「永尾芳枝祖母口述記」に
と、詳細が記されています。
警察の手先が空風呂に薬を投入して逮捕要件をでっちあげ、その上で逮捕に向かうという、国家権力による謀略です。
これまで、お屋敷、つまり天理教への拘引・留置を伴う迫害は、「おつとめをつとめるから」「人を寄せるから」「賽銭を受け取るから」「ご供を渡す」から、などの法律で禁じられた行為のみを対象にしたものでした。それが「逮捕理由を捏造する」という常軌を逸した方法を使うようになったことは、そこまでしても天理教を壊滅したいという、国家の強い意思の表れといえます。
その変容を見た秀司さんは、お道存続の危機を誰よりも正確に理解していたと思うのです。
だからこそ、命を賭して地福寺に行かれたのではないでしょうか。
3.「最終責任者としての秀司」
秀司さんは確かに資金をプールしていたかもしれない。いや確実にしていたでしょう。けれども自分の懐に入れたわけではないと思うのです。
僕は秀司さんが明治14年に出直されるまでに、放蕩したり贅沢したりという記述をついぞ見たことがありません。
むしろ当時のお屋敷の状況を冷静に見つめる時、使途は明らかだったと思われます。
秀司さんがお屋敷の普請についてのみならず、当局や近隣からの迫害や干渉の矢面に立たれていたことは間違いないと思いますが、その具体的な例を
記します。まず、普請に関していえば、
元治元年 (44歳) つとめ場所
明治8 年(55 歳)中南の門屋
明治10 年代 秀司の妹のおまさが分家。家を建てる
明治12 年(59 歳)小二階と言われる建物
明治13 年(60 歳)内蔵が竣功
これらの普請費用の最終的な責任は戸主である秀司さんにあったはずです。奉賽金が上がっていたとしても、それですべてが賄えたとは到底思えません。
『稿本天理教教祖伝』にも辻忠作が、“ 中南の門屋の経費は『中山様より出された』と答えた” 」とあることからも、秀司さんはすべての普請の施主であり、支払い義務を負う最終責任者としての苦労はあったと思われます。
また、様々な迫害干渉の矢面に立たれていたことは間違いありませんが、主な出来事を深谷忠一氏による『教祖伝』探究(32)「秀司様」より抜粋して要約してみます。
文久2年(42 歳)並松村で稲荷下げをする者に、先方の請いのまま2両2分を与える。(※現在の35,000円程度か)
文久4年(44 歳)並松村の医者古川文吾が奈良の金剛院の者を連れて来て、教祖のお居間に乱入して狼藉を働く。
慶応3年(47 歳)7 月 秀司が中心になって、古市代官所を経由して領主の添書を手に入れ、京都まで出向いて吉田神祇管領から公認を得る。それを不満とする布留社の神職たちの反対攻撃を受ける。
翌慶応4年(48 歳)3 月 お屋敷でおてふりのけいこをしている時に、多数の村人が暴れ込んで乱暴を働く。
明治6 年5月(53 歳)秀司は奈良県から庄屋敷村の戸長に任命され、同年11 月には、お屋敷に聴衆150 人を集めて、大教宣布運動の“ 巡回説教” を開催する。
明治7年10 月(54 歳)大和神社へ神祇問答をしかけた結果として、石上神宮の神職たちが5人連れでやってきて、秀司に向かって問答を仕掛ける。そして、それが丹波市分署の巡査による神前の幣帛、鏡、御簾、金灯篭などの没収の結果になったこと。そして、その後、県庁から高弟3名に指紙がつき、出頭した3名が社寺掛の取り調べを受けた結果、12 月には山村御殿へ教祖が呼び出される。
その山村御殿への呼び出しの結果、県庁がお屋敷への参拝人を取り調べるようになり、また、奈良中教院が高弟3名を呼び出して信仰を差し止め、お屋敷の幣帛、鏡、御簾等を没収される。2カ月の間に2度の没収である。
明治8 年(55 歳)秀司の身上障り中に、奈良県庁から教祖と秀司に差紙がつく。
明治9年(56 歳)教祖の反対を押して堺県から風呂と宿屋の鑑札を受ける。
明治10 年(57歳)丹波市村事務所の者がおやしきへ来て神前の物を封印する。続いて、秀司が奈良警察署に収監されて40 日間留め置かれ罰金に処せられる。
これらのことが出来する度に大変な気苦労があり、謝罪や折衝にはそれなりの費用が生じたでしょう。つまり、お道を守ためにも、おやさまをお守りするためにも、戸主であり、息子であり、対外的な責任者である秀司さんには、おやさまからどれだけお叱りをうけようとも、そのための資金は常に準備しておく必要があったと考えられます。
4.「最も多く拘留されたのは秀司」
次に、同じく深谷忠一氏による『教祖伝』探究(32)「秀司様」より秀司さんの留置や投獄について引用します。
このように、秀司さんはさまざまに起きてくることの矢面に立ち、同時にどの高弟よりも多くの日数を拘留されているのです。
どこが蓄財に励み、おやさまのなさることに最後まで反対した馬鹿息子であるものですか。並の者ならとっくにお屋敷を去っているでしょう。
僕は「戸主中山秀司」として、また「おやさまの”ひながた”の同行者」として、そして「おやさま中山みきの神性と教えを誰よりも深く理解していた先達」としての秀司さんが、本教草創期に果たした意義と功績にあらため感謝したいと思っています。
他の人では絶対に通れなかったであろう荊の道を、おやさまに厳しく叱責されながらも信念を持って通りきった秀司さんこそ、余人を持って代えがたい偉大なる「教えの台」なのではないでしょうか。
結びにかえて
ここにも理と情の狭間を生きる秀司さんの決意が見てとれます。
秀司さんはおやさまのお言葉どおり、明治14年4月8日に出直されます。
金剛山地福寺の配下として転輪王講社の開設を認めてもらうために、おやさまの「神は退く」との厳しい制止を振り切り、不自由な脚で芋が峠を越えて金剛山麓に向かった翌年のことでした。
しかし、中山慶一先生がいみじくも
「そらもう、親を思う秀司先生の、人間としての真実の心と、人間の親としての教祖の御思いとは、いつでもくいちがう、悲しいくいちがいやな。
秀司先生がせっかく命をかけて一生懸命に努力されても、いつも悲しいくいちがいができたのや。」
と語られましたが、秀司さんが出直しに際して語ったとされる次の言葉によって、この母子の心が表裏一体であったことを確信しました。
おやさまのお言葉の通り、秀司さんは転輪王講社の開筵式を終えた翌14年4月8日に61歳で出直しました。その出直しのご様子を桝井伊三郎が述懐しています。
「無い寿命を御願ひするのは、それは欲だすセ、理の欲と云ふものだす」
これは、おやさまの教えを”我がもの”とした者のみが詠みうる辞世の句ではないでしょうか。
いかなる苦難に相まみえようとも、おやさまに寄り添い続けた”ひながたの同行者”。それが中山秀司その人でした。
明治14年(1881)4月8日没。
教えに殉じた61年の生涯は、実に見事なものでありました。
秀司さんのお出直しからすでに143年。そのご命日を前に。
(了)
writer/Be.w.o
proofreader/I.F & N.N
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