「育てる」より「育む」
「育てろ育てろ」って言われ続けると、やがて「そうか、育てなきゃいけないんだ」と思うようになり(ホンマか?)、その後「よし!育てさせていただこう!」と決意するようになるわけですが(知らんけど)、「育てさせていただく」という一見謙虚に見える天理教的言い回しには無自覚の上から目線が見え隠れしてて感じ悪いなあ。
などと思う今日この頃。
こんにちはBeです。
天理教婦人会第104回総会で婦人会長は「私たちの使命である、道の子を道の子らしく立派なよふぼくへと育てる上でどうしたら良いのか」
と問いかけられましたね。
どうしたらいいのでしょう?
育てられる側を10代から30代までの若い方に限定して言いますね。
育てようとしなければいいんです。
もしかして今「はあ?」って思いました? 思いますよねそりゃ。
でもBeは思うんですよ。育てようとするから逃げられるんじゃないかと。
「育てる」とか「仕込む(年配の方が使いがちなド根性フレーバーな言葉ですよね)」って大変なことですよ。だって育てる側にそれなりのスキルが要求されますもの。
真剣にお道を通っていて教理も修めており、その上にをいがけにも熱心なベテラン信仰者であろうと、人を育てるとなると必ずしも上手くいくとは限りません。名プレーヤーが必ずしも名伯楽になれないのと同じ理屈です。
信頼関係も大いに影響しますね。スポーツの世界にはよくありますが、信頼されていないコーチが教えると選手が疑心暗鬼になってフォームがバラバラになり、結果つぶれてしまうことがあります。
それに道の場合、育てる側といったところで、育てられる側より先に教えを知ったというだけで、決して人として優れているとは限りませんもの。
あ。ティラノザウルスのような目で「ギィィィ-」と歯ぎしりした方がいらしゃいますね。
でもこれ、Beが言ってるんじゃないですよ。
教祖七十年祭を迎えるにあたり開催された第14回教義講習会(昭和27年10月30日-11月1日)で、講師をつとめた山名大教会長(当時)の諸井慶五郎氏は全国から寄り集った多くの教会長たちを前にして、
と、教祖の教えに無い「理の親」信仰があたかも純粋な教理の如く語りましたが、この言葉に危うさを感じたのでしょうか。二代真柱はこの講習会の閉講式において
と、やんわりと諸井氏の発言に釘を刺しておられます。ホントは激オコだったと思いますよ。
二代真柱は毀誉褒貶が激しい方ですが、この言葉は私たちが忘れてはならない基本だと思うんです。
お互いに影響し合いながら育てる者、育てられる者という縦の関係ではなく、相互に影響し合って成長していく中で生まれる信頼関係こそが大事なのではないかと思うんです。
信頼関係に裏打ちされた「育てあい」とでも言うべき姿こそが理にかなうものなのではないかと、Beは漠然と思うわけであります。
PHPの人材開発チームによると、最近の若者の短所として
を挙げています。今の時代、「育てる」などという高みからのアプローチでは無理なんです。
今の若い人たちは繊細で敏感です。異質な相手が語るおかしいと思うこと、納得できないことに唯々諾々と従うことはありません。googleなどの検索エンジンやSNSで、疑問に対する答えを見つけられる時代です。彼らは教団の矛盾もよく知っていますが、形では従っても盲信することはないでしょう。でもこうした傾向は健康で健全なことでもあると思うのです。
信頼関係もできあがっていないのに、「私たちは経験豊かな先輩は、未熟なあなたたちを育てる使命がある」というような古色蒼然たる思い込みの構図にこだわっていては、どこまでいっても受け入れられることも理解されることもなく、お道に蔓延する息苦しさを増殖させるだけなのではないでしょうか。
もちろん、経験豊かな先輩信仰者の信仰体験や御守護をいただいた経験談などは、現代にあっても決して色褪せることはありませんし、それは宝物のようなお道の財産でもあります。だからこそ、その伝え方を再考する必要があるのではないでしょうか。
大事なのは「育てる」ことを意識するのではなく「育む」ことに注力することです。限りない愛情を注ぎ、信頼関係を築きながら共に成長するという感覚が必要な気がしております。
育む側の意識改革が急がれます。
ではまたいずれ。
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