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箸休め -秋の空が七度半変わろうとも-

「全教会布教推進月間」銘打めいうつこのイベント* * * *にケチをつける意図など微塵みじんもない。ということをあらかじめお断りした上で箸休め的にサクリとつづってみる。

さて、こたびのイベントは”全教”ではなく”全教会* * *”とかんされている。つまりは教会単位で活動しなさい。ということだ。
出直しによるようぼく数の減少に対して、新たなようぼくの誕生がまったく追いつかない、というひなびた漁村のど真ん中にお許しいただいた教会を預かる身としては、「全教会布教推進月間」というタイトルに、思いきり尻を蹴飛けとばされたような気分になったのだが、全教会を挙げての取組を非難するつもりはない。
”にをいがけ”はさせてもらいたいと思うけれど、一人ではとても無理です。そんな勇気はありません。”などと足踏みしている方や、身上や事情から普段家に籠もりがちの方にとっては良い機会であろうし、それが半ば強制的であったとしても、神名流しやチラシ配りを行うことが、まさか無意味であるまい。親神様の不思議なお働きの妙は、時に人間の想像の及ばぬ世界をお見せくださるのだから。
”世界一列をたすけたい”との親神様の思し召しを広く世界に伝える、という上からは、たとえ世の中から白眼視はくがんしされようとも動くのがお道だ。そして勇める方がいるのは事実なのだ。

さて、「全教会布教推進月間」のみならず「全教一斉○○デー」などの勇ましいタイトルに触れると、私はたちまち”ハレ(晴れ)”と”ケ()”という日本人の伝統的な世界観を想起してしまう。もっともこの場合の”ケ”は「けがれ」ではなく、あくまでも”ケ()”だ。”ケ()”とは”日常”のである。
私はこうした「ハレ」の行事が行われる度に、その対極にある「ケ」。つまり”日常”というものを強く意識してしまうという困った性分を持っている。
何となれば、おやさまは度々たびたび日々にちにち”と言われた。”日々常々にちにちつねづね”と説かれているからだ。
この「一日々々の在り方が大事なのだ」というおやさまの教えを、あだやおろそかかにはできまい。
信仰を持つお互いは「ハレの日」たる特別な期間や日のみならず、日常的にすぐそこにるおたすけの対象にどう向き合っているだろうか、と考えることがとても大切なのではないだろうか。
「それが易々やすやすとできていない現状があるからイベントを打つのだよ」という意見は理解できる。そして実際にイベントに参加することで心が勇み立つという方もいらっしゃる。
それはそれで素晴らしいと心から思う。それでもやはりつね日ごろ自分が周囲の人々に対して優しく温かな人であるのだろうか。誠実であるだろうか。言行に恥じるところはないだろうか。努力にうらむところはなかっただろうか。悩める方に寄り添おうとしているだろうか。寂しそうにしている方に声を掛けているだろうか。毎朝笑顔であいさつをしているだろうか。などと省みて、周囲の人たちが思わず近づきたくなるような良い匂いをかもし出すための努力は、絶対に諦めてはならない。
その努力の過程もまた、日常にある立派な”にをいがけ”だと私は信じている。

特別な日、特別な期間でなくとも、周囲に満ちる日常に対して、私たちはいつなん時でも”にをいがけ”はできる。お道の話ができなくとも、優しい声をかける勇気がわかなくとも、人知れず心を尽くして祈ることも、にをいがけなのだ。
そんな意識をもって歩む日々は、毎日が布教推進デーそのものだと言えはしまいか。
秋の空が七度半ななたびはん変わろうとも、私たちの変わらぬ日常は目の前にある。
そんなことを思った。

ではまたいずれ。

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