「いんねんの教理」雑感
天理教を信仰する皆さんがお好きだったり、お嫌いだったりする「いんねんの教理」と通称される教えについての雑感です。サラッといきます。
『前生のいんねんって何なん』で、「いんねんの教理なんか大嫌いだ!」という、教会長にあるまじき記事を書きましたが、今回は若干前向きに考えてみようと思います。(ホンマか?)
教祖が語られた「前生のいんねん」についての逸話や口伝は数多く残されています。
また、明治20年陰暦正月26日以降に本席、飯降伊蔵様を通して語られた『おさしづ』の中にも「前生のいんねん」についてのお言葉は散見されます。たとえば、
などがそうです。
なので天理教の中に「いんねんの教理」と呼ばれるものや、「前生のいんねん」についてのお諭しが存在しているのは不思議ではありません。でも体系化されてはおらず、信仰の現場ではもっぱら個人の悟りに依拠して語られることが多いので、教理と呼ぶにはいささか抵抗があります。
でも「いんねんの教理」を素直に受けとめ、自らの前生のいんねんに気づき、それを納消すべく勇んで道を歩まれている方もいらっしゃいます。僕はその方の信仰までも否定したり非難するつもりは微塵もありません。それどころか畏敬の念すら覚えているということをご承知置きください。
今回は、むしろ「いんねんの教理」を受け入れ難いと考えている方に、こういう考え方もあるんじゃないかな。と、伝えたくて書いています。
さて、何故僕が現在のお道の中で語られる「いんねんの教理」に懐疑的なのかと言うと、教祖が語られた「いんねん」について、その本質を正しく掘り下げることなく、極めて仏教的因果応報論や、江戸期の「心学」にも似た運用が為されていることが不快でならないからなのです。
天理教の公式WEBサイトには、以下のように
と因果律を肯定した上で、しかし仏教などでいう因果応報とは別物だ、と明記されているにもかかわらず、信仰の現場では個人的な悟りを元に、因果応報のようにに語られてきたというところに問題があると思うのです。その悟りなるものが、神さまの思いと寸分違わず合致するものであれば良いのですが、神意に反した勝手な思案に過ぎない場合も多々あるのではないでしょうか。
「前生のいんねん」と聞くと、暗さや遣る瀬なさを感じると同時に、逃れられぬ運命、あるいは業のようなものを押しつけられたような気持ちになると言う人が多いのは、そのあたりにも原因があるのではないかと思っています。
現実問題として、理の親や先輩信仰者から(言葉は悪いですが)一方的に諭された「前生のいんねん」や「悪いんねん」などの言葉によって、喜べなかったり苦しみ悩んだりする方もいらっしゃいます。
預言者じゃあるまいし、他人のいんねんの正体など人間に分かりゃしませんよ。それを得々と語るなど、傲慢高慢甚だしいですぞ。と、僕は思ってしまうのです。
ちょっと脇道に逸れますが、「前世のいんねん」については
と、魂に刻まれるものであることを明らかにし、さらには
と、家系を遡って心当たりを探るところに「いんねんの自覚」ができると明記されています。
『天理教教典』の「先祖を振り返り、心にあたるところを尋ねて行くならば、自分のいんねんを悟ることが出来る。」との記述が、逆説的に「魂は、たとえ生まれ替わっても家系縛りからは逃れられない。」ということを示唆するものであるなら、なんとも絶望的な気分になってしまいます。書いていてマジで苦しくなってきたよ。
ろくでもない家系に生まれたが故に、「次はどこに生まれ替わるのだろう?」と想像し現実逃避している僕にとっては、最後通牒を突き付けられたようで・・・www
はたして天理教を信仰する皆さんは、この「家系に縛られた魂」ともとれる教説を抵抗なく受け入れていらっしゃるのでしょうか?
この教えの明るい解釈をご存じの方は、是非ご教示ください。
本題に戻ります。
教祖の教えは、どこまでも大らかで明るさに満ちたもののはずです。
そのあたりのことについて、安井幹夫氏が「心学」を題材にして次のように論じています。
とした上で、
と述べています。
■親神の目指す救済は『元のいんねん』を知らずに成就するものではない。したがって、この「元のいんねん」を伝えていくことが布教伝道の目的となる。
■人間の心遣いがそのままに、いんねんを形成していくが、その心が『元のいんねん』根拠づけられるところに、救済の道がひらかれる。
◼️ いんねんを考える場合、それは固定したものでなく、どこまでも親神の思惑のなかに生きることが大切である。
まさにこれですよね。いんねんの教理の基本的な考え方は、こうでなくてはいけないのですよ。
親神は人間が陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと思いつかれ、人間を創り、この世界を拵えてくださったのですから、この「元のいんねん」の本来の意味を忘れてはならないと思うのです。
でも現状は「いんねん」を仏教的な「業」や、砂漠地域という厳しい自然環境に発生したユダヤ教、キリスト教、イスラム教などのセム系一神教に見る「罪」や「罰」に似て、全ての人間が宿命的に背負う原罪の個人版の如く捉えて説く傾向にあると感じています。
しかし、教祖の教えはそんな悲観的なものでは無いはずです。
常に親心あふれる「元のいんねん」に立ち帰り、歩むべき方向を修正することでいんねんを拭い去ることができる、といった明るく勇み立つような因縁論であるべきではないでしょうか。
更に言えば、「たんのうは前生いんねんのさんげ」という難解な教え(個人の見解です)も、人間を産み育ててくださった親神様への感謝を忘れず、今世を喜びいっぱいで通ることで「さんげ」となる、と捉えればいいのではないかと思うのです。
余談ですが、先頃、『生命(いのち)の進化』が発刊されたことによって、難解であった「元の理」の理解が進み、敬遠されがちであったその内容の説明がしやすくなりました。『生命(いのち)の進化』では親神様による生命の創造と育みの真実が活き活きと描かれています。
そこに記述される三度の出直しと再生の物語には「前生のいんねん」というものを明るく理解するためのヒントが隠されているような気がしてなりません。
僕は「元の理」と「元のいんねん」、そして「前生のいんねん」は不可分であると思っています。
それは安井幹夫氏がいう
■人間の心遣いがそのままに、いんねんを形成していくが、その心が『元のいんねん』根拠づけられるところに、救済の道がひらかれる。
という言葉によって補完されるのではないかとも感じています。
などと、つらつら考えていると
という板倉槌三郎さんの言葉も、明治大正期の「いんねんの教理」の説き方が、教祖の思いに反した因果応報論に似た解釈で罷り通っていることを暗に非難されたものなのかも知れないと思い至りました。これとても、僕の勝手な思案に過ぎないのですがね。
いずれにしても、前生のいんねんを含む「いんねんの教理」に限らず、お道の教えの根本には「陽気ぐらしをさせ、その姿を見て共に楽しみたい」という優しく希望に満ちた「元のいんねん」の親心が流れていることを常に意識することがとても大事だと思うのです。
信仰生活を送る上での考え方の基本は、どこまでも大らかで明るく希望に満ちた親神様の親心に根ざすものであるべきなのです。
あ。また「べき論」を語ってしまった。この鼻持ちならぬ高慢さが僕のいんねんなんだよね。もうとっくにバレてると思うけどwww
以上、雑感まで。ではまたいずれ。
writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI
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