処暑の最中に季節感を無視した明治二十年陰暦正月二十六日に関わる記事を書くのは若干抵抗もあるが、思いついたらすぐ書かずにはいられないタイプなので、強引に筆を進めることにする。
「筆を進める」、などと格好をつけたが、実のところは梅谷四郎兵衛が妻に向けてしたためた書簡を紹介するだけの”おんぶに抱っこ”の記事であることをあらかじめお断りしておく。
この書簡は特に秘されてきたものではなく、道友社から出版されている『静かなる炎の人-梅谷四郎兵衛』に掲載されているものなので、ご存じの方も多いかと思う。
本来であれば、まずは『稿本天理教教祖伝』第十章「扉ひらいて」や、明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後の『おさしづ』の割書を全文引用し、当時の緊迫した状況を再確認するべきなのだが、読者諸兄も十分ご承知の事歴であることから、ここでは部分引用にとどめおきたい。
日頃から「Beの記事は引用が多すぎて無駄に長い。冗長の極みだ」と、あまたの読者から小言を賜ることが多い。そのご意見を反映した措置である。読者は常に神様なのだ。
明治二十年陰暦正月二十六日に何が起きていたのかをご存じない方がいらしたなら、下記リンクの記事を参照いただければと思う。
※参照 春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から-
さて、今回『稿本天理教教祖伝』にある明治二十年陰暦正月二十六日についての記述で注目するのは、下記引用の太字部分である。
この日、梅谷四郎兵衛はおつとめに参加せず、家事取締りの任についている。
そもそも”家事取締り”とは如何なるものか。まさか炊事洗濯とは思いはしなかったが、「事務仕事や参拝者対応をはじめとするお屋敷内の雑事を任されていたのだろう」程度の認識でしかなかった。つまるところ、私は長年にわたって『稿本天理教教祖伝』のこの箇所を軽く読み飛ばしてきたということだ。
梅谷四郎兵衛の入信は明治14年。入信直後からお屋敷でつとめ、5月14日のかんろだいの石出しひのきしんにも参加している。
また、翌15年の毎日づとめの際には初めておつとめに出ており、明治16年にはご休息所の壁塗りひのきんをつとめ、教祖から赤衣を頂戴した。
ちなみに『稿本天理教教祖伝逸話篇』に収録されている逸話の中で、梅谷四郎兵衛に関連するものは以下の13篇で、全登場人物の中で最も多い。
5 流れる水も同じこと
19 子供が羽根を
22 おふでさき御執筆
82 ヨイショ
92 夫婦揃うて
106 蔭膳
116 自分一人で
123 人がめどか
126 講社のめどに
159 神一条の屋敷
170 天が台
184 悟り方
198 どんな花でもな
高野友治によると明治20年当時、前年に56歳で出直した仲田儀三郎を含め、桝井伊三郎(38歳)・山本利三郎(38歳)・梅谷四郎兵衞(41歳)の4人は、教祖から直接、そして最も教えを聴いてきた高弟だという。その4人の中で、出直した仲田を除き、桝井・山本の2人はおつとめに参加している。しかし教祖から直接仕込まれ、”つとめ”の大切さを誰よりも理解し、深く心に修めていたであろう梅谷四郎兵衛はおつとめに出ていない。それは四郎兵衛は家事取締りの任に当たっていたからなのだが、教祖が急き込み続けたつとめに出ず、なぜ雑事担当とも思われる”家事取締り”の御用をつとめていたのか。
今回、四郎兵衛が綴った書簡から、図らずもその経緯と、”家事取締り”の任の重要性を知ることとなった。
教祖のお隠れに際し、四郎兵衛は大阪の妻たねに宛てて陰暦正月二十六日と二十八日にあわせて2通の書簡を送っている。
1通目がこれだ。
この1通目の書簡には明治二十年陰暦正月二十六日に教祖が現身を隠されたことがしたためられている。『稿本天理教教祖伝』に記されるように、お屋敷はあたかも太陽が墜ちたごとき混乱の坩堝と化し、人々は悲嘆にくれていた。現場に居あわせた四郎兵衛とて同様であったはずである。書簡の文面からは、つとめて冷静を保とうとしているが、隠しようのない動揺が顔をのぞかせている。
とは言え、百十五歳定命と仰せられていた教祖が眼前で現身を隠されるという驚天動地の出来事に接しながら、四郎兵衛がただちに大阪の妻に宛て、慌てながらも実に要領を得た書簡を送っているところには驚かされる。
古い文献によると、この時おつとめに出ることができなかった梅谷四郎兵衛は、柱にしがみついて男泣きに泣いたと記されているし、中山正善著『ひとことはな志』その二にも、中山たまへによる回顧談として次の記述がある。
また、増井りんなどは教祖お隠れの報に接して卒倒し、そのまま寝込んでしまったことで教祖の葬儀にも参列できなかったという。
事ほど左様に、四郎兵衛も含め、教祖に薫陶を受けた高弟たちが等しく哀しみに打ち震え、茫然自失していたであろう陰暦正月二十六日のその日のうちに、
「何も心配はいらない」
と家族を励まし、更には
「これから道がころっと変りて、さあ/\これからや皆の者、揃うているか、これしっかりと聞き分け」
とのおさしづを正確に付記し、その他的確な指示を記した文を送っていることに、私は胸が震えるほどの感動をおぼえた。四郎兵衛はこの状況にあっても、否。この状況だからこそ教祖の思いを一刻も早く妻に伝えようとしたのではないかと。
さて、次に引用する2日後に送った2通目の書簡には、四郎兵衛がおつとめに出ていなかった経緯が詳細に記されており、私はこの文面によって”家事取締り”の任の何たるかを正しく理解することとなる。これまでそんなことも認識していなかった自分のマヌケさを呪いたい気分だ。
原文書簡の黒字部分を注目いただきたい。
本席飯降伊蔵と、初代真柱の実兄である梶本松治郎から「何とぞ何とぞ増野、梅谷、平野と三人は内へ残りくれ」と名指しで命じられた三名は、余人をもって代え難い”信”を置かれていたのだろう。
もしもおつとめに参加した者すべてが官憲に勾引されてしまえば、衰弱したまま残される教祖はどうなってしまうのか。万が一このまま息を引き取られるという事態に及んだ時、我ら二人(飯降伊蔵・梶本松治郎)以外には、おまさ(中山おまさ/教祖の長女・当時63歳)・ひさ(梶本ひさ/真之亮の姉・当時25歳)の女性二名だけでは十分な対応ができないだろう。飯降伊蔵と梶本松治郎の懸念はそこにあったと想像できる。
つとめの芯たる真之亮は教祖のお側に侍ることができない。飯降伊蔵たちには後事を共に引き受けるに足る、信頼できる者が必要であった。さすれば、教祖の教えを心に修め、それぞれに度胸や機転に秀でた四郎兵衛ら三名が選ばれたことは必然であったと思われる。
結果的にその内の一人である平野楢造は重鎮飯降伊蔵・梶本松治郎両人の懇願を拒み、決然とおつとめに参加している。平野の一見身勝手とも取れる振る舞いであるが、それもまた平野楢造の揺るぎなき信仰の証と言えよう。
あるところで「教祖の教えをよく理解していなかった平野楢蔵は教祖の身上平癒をお願いに行ってしまったのです。」という記述を目にしたが、平野の行動を非難することなど私にはできない。
今際の際にある教祖の側に侍り、そのご容態の急変に対応しようとするのも信仰なら、平野楢造のように、おつとめさえ勤めたなら最悪の事態は必ず回避できると信じ、後顧の憂いを一顧だにすることなく、”つとめ”に|乾坤一擲《けんこんいってき》を賭したのも、教祖に感化された元博徒恩智楢ならではの真っ直ぐな信仰であろう。
とまれ、教祖から最も教えを聴いたといわれる四郎兵衛である。つとめの大切さを誰よりも理解していたであろう。本心では平野同様おつとめに出たかったはずである。
二月二十日付けの書簡に記される
という箇所には、つとめに出ることができなかった四郎兵衛の悔しさと切なさがにじみ出ている。
しかし、悲嘆に暮れ動揺するお屋敷の人々の中にあって、自らも哀しみと虚脱感にさいなまれていた四郎兵衛であったが、2通目の書簡には、気丈にも
と綴っている。
家族はもとより、やがて教祖のお隠れを知るであろう信者に対して、教祖が現身を隠された二日後の二十八日には、いち早く『おさしづ』によって伝えられた「お道が益々伸び盛ること。これからは教祖が世界中を駆け回ると仰せだ」との教祖の思いを的確に理解し、自らの講社の信者への対応を含めて、妻に向け全き指示をしているところに四郎兵衛が稀代の高弟といわれる由縁を見る思いがした。
今回は明治二十年陰暦正月二十六日に立ち会った梅谷四郎兵衛の妻への書簡をもとに、その日その時のお屋敷の状況と梅谷四郎兵衛について感じるままに記してみた。
過日、四郎兵衛がしたためたこの書簡を初めて目にした時、
「四郎兵衛心を取り直しまして、教祖の前にてふんばりました。増野と四良兵衛と二人だけで、平野はつとめに出られました」
という短いセンテンスに私は強烈に惹きつけられた。もう一度読み返してみると正体不明のナニモノかが心の中にに嵐を呼び、三度読み返した時には訳もなく落涙してしていた。
それ以来、いつか書きたいと思っていのだが、思い入れがあまりにも強かったがために独りよがりな記事になってしまったことをご寛恕いただければ幸いである。
最後に、その日のことを語った中山たまへ(中山秀司の娘・後の初代真柱夫人)の言葉をご紹介して今回の記事を終えたい。
ではまたいずれ。
台風10号がもたらした雨漏りの音を聴きながら記す。
おまけ
writer/Be.w.o
proofreader/ N.N