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明治二十年陰暦正月二十六日 「家事取締り役」梅谷四郎兵衛の手紙

処暑しょしょ最中さなかに季節感を無視した明治二十年陰暦正月二十六日に関わる記事を書くのは若干抵抗もあるが、思いついたらすぐ書かずにはいられないタイプなので、強引に筆を進めることにする。
「筆を進める」、などと格好をつけたが、実のところは梅谷四郎兵衛が妻に向けてしたためた書簡を紹介するだけの”おんぶに抱っこ”の記事であることをあらかじめお断りしておく。
この書簡は特に秘されてきたものではなく、道友社から出版されている『静かなる炎の人-梅谷四郎兵衛』に掲載されているものなので、ご存じの方も多いかと思う。

本来であれば、まずは『稿本天理教教祖伝』第十章「扉ひらいて」や、明治二十年二月十八日(陰暦正月二十六日)午後の『おさしづ』の割書を全文引用し、当時の緊迫した状況を再確認するべきなのだが、読者諸兄も十分ご承知の事歴であることから、ここでは部分引用にとどめおきたい。
日頃から「Beの記事は引用が多すぎて無駄に長い。冗長じょうちょうの極みだ」と、あまたの読者から小言こごとを賜ることが多い。そのご意見を反映した措置である。読者は常に神様なのだ。
明治二十年陰暦正月二十六日に何が起きていたのかをご存じない方がいらしたなら、下記リンクの記事を参照いただければと思う。
※参照 春季大祭を迎えるにあたり-明治二十年陰暦正月二十六日のおさしづ割書から-

さて、今回『稿本天理教教祖伝』にある明治二十年陰暦正月二十六日についての記述で注目するのは、下記引用の太字部分である。

(※改行とルビ・太字は筆者Beによるもの)
その日の正午頃から、教祖のお身上がいよ/\迫って来たので、一同全く心定まり、真之亮から、おつとめの時、若し警察よりいかなる干渉あっても、命捨てゝもという心の者のみ、おつとめせよ。と、言い渡した。一同意を決し、下着を重ね足袋を重ねて、拘引を覚悟の上、午後一時頃から鳴物も入れて堂堂とつとめに取り掛った。
その人々は、地方じかた、泉田藤吉、平野楢蔵。神楽かぐら、真之亮、前川菊太郎、飯降政甚、山本利三郎、高井直吉、桝井伊三郎、辻忠作、鴻田忠三郎、上田いそ、岡田与之助。手振り、清水与之助、山本利三郎、高井直吉、桝井伊三郎、辻忠作、岡田与之助。鳴物、中山たまへ(琴)、飯降よしゑ(三味線)、橋本清(つゞみ)であった。
当時まだ幼少であったたまへも、いと、今日はお前もおつとめに出よ。との、真之亮の言葉によって、つとめに出た。
家事取締りに当ったのは、梅谷四郎兵衞、増野正兵衞、梶本松治郎。以上総計十九名。

『稿本天理教教祖伝』第十章「扉ひらいて」より 
向かって左から四郎兵衛、嗣子梅治郎、妻たね

この日、梅谷四郎兵衛はおつとめに参加せず、家事取締りの任についている。
そもそも”家事取締り”とは如何なるものか。まさか炊事洗濯とは思いはしなかったが、「事務仕事や参拝者対応をはじめとするお屋敷内の雑事を任されていたのだろう」程度の認識でしかなかった。つまるところ、私は長年にわたって『稿本天理教教祖伝』のこの箇所を軽く読み飛ばしてきたということだ。

梅谷四郎兵衛の入信は明治14年。入信直後からお屋敷でつとめ、5月14日のかんろだいの石出しひのきしんにも参加している。
また、翌15年の毎日づとめの際には初めておつとめに出ており、明治16年にはご休息所の壁塗りひのきんをつとめ、教祖おやさまから赤衣を頂戴した。
ちなみに『稿本天理教教祖伝逸話篇』に収録されている逸話の中で、梅谷四郎兵衛に関連するものは以下の13篇で、全登場人物の中で最も多い。
5    流れる水も同じこと
19  子供が羽根を
22  おふでさき御執筆
82  ヨイショ
92  夫婦揃うて
106 蔭膳
116 自分一人で
123 人がめどか
126 講社のめどに
159 神一条の屋敷
170 天が台
184 悟り方
198 どんな花でもな


高野友治によると明治20年当時、前年に56歳で出直した仲田儀三郎を含め、桝井伊三郎(38歳)・山本利三郎(38歳)・梅谷四郎兵衞(41歳)の4人は、教祖おやさまから直接、そして最も教えを聴いてきた高弟だという。その4人の中で、出直した仲田を除き、桝井・山本の2人はおつとめに参加している。しかし教祖おやさまから直接仕込まれ、”つとめ”の大切さを誰よりも理解し、深く心に修めていたであろう梅谷四郎兵衛はおつとめに出ていない。それは四郎兵衛は家事取締りの任に当たっていたからなのだが、教祖おやさまき込み続けたつとめに出ず、なぜ雑事担当とも思われる”家事取締り”の御用をつとめていたのか。
今回、四郎兵衛がつづった書簡から、図らずもその経緯いきさつと、”家事取締り”の任の重要性を知ることとなった。

教祖のお隠れに際し、四郎兵衛は大阪の妻たねに宛てて陰暦正月二十六日と二十八日にあわせて2通の書簡を送っている。
1通目がこれだ。

【原文】
明治二十年二月十八日(旧正月二十六日) (※改行と太字は筆者Beによるもの)
梅谷四郎兵衛より   たね宛  

前文御免、さて御教祖儀、昨日廿六日午後の二時十分頃にお迎い取になりました。このことを聞いた事ならば、誠に心配をする事であろうけれども、何も心配することはいらん。そのつもりでどうぞ/\我が顔にも出さずに確かりしてくれますよう。飯降伊蔵様へお願い致しましたら、いままでに充分聞かしてあるとの事でした。これから道がころっと変りて、さあ/\これからや皆の者、揃うているか、これしっかりと聞き分け、とのおさしづでした。教祖の御葬儀は何日やら今日では、わかりません。そのつもりで大阪より参詣人は壱人も、私が帰るまで取り止めて下さる様に。
一番大切な用向きがすみましたら、直ぐ大阪へ一度帰ります。それまでは、たねの胸に仕舞って誰れにも言わぬようにして下さい。この事は嶋文助様へ一寸梅谷宅へ来てもらってから話して、又嶋さんも嶋様の宅へ帰って、おりきさんと二人だけの話しにして置いて下さる様に。この度の事は、宮川、細川の人等にも、おぢばでも聞かしてない事であるからそのつもりで他の人々には一寸も言えない事ですからお願いします。
 嶋 様
    たねどの江
                          梅谷四郎兵衛より
第二月十八日午後の五時に印

註 嶋りき=文助の妻。宮川平三郎=明心組周旋方、後の船場大教会役員。細川忠兵衛=明心組周旋方。 二月十八日は陰暦では一月廿六日。 

道友社編『静かなる炎の人・梅谷四郎兵衛』より

【Beによる現代語での意訳】
前略 教祖おやさまが昨日の26日午後2時10分頃に現身うつしみをお隠しになりました。この報を聞けば、哀しみとともに何かと心配するとは思いますが、何も心配することはありません。
そう信じて、どうか動揺や哀しみを顔に出すことなく、心をしっかりもってお通りください。
飯降伊蔵本席様に『おさしづ』を|仰『あお』ぐと「今までに十分聞かせてある(から何も心配はいらない)」とのことでした。
「これからお道の歩みも大きく変わってゆく。さあ、みんな揃っているか。これからですよ皆さん。このことをしっかり聞き分け、信じて歩みなさい」
との『おさしづ』をいただきました。
教祖おやさまのご葬儀がいつどのように執行されるのか、今日のところは分かりません。こうした混乱した状況なので、もし大阪からおぢばへ参詣したいという人がいても、私が帰るまでは参詣を取り止めるよう伝えてください。
お屋敷での重要な御用をつとめ終えたら、直ちに一度大阪へ戻ります。
それまでは教祖おやさま現身うつしみをお隠しになったことは、たね一人の胸にしまって誰にも明かさないようにしてください。
この件については嶋文助様に一度梅谷宅へ来ていただいた上で伝えてください。嶋様にも自宅に帰ってから奥様のおりきさんだけに伝えていただき、嶋様ご夫妻だけの胸に留め置いてくださるよう伝えてください。
教祖おやさまがお隠れになったことついては、現在おぢばでも内々に留めている状況なので、周旋方の宮川平三郎さんや細川忠兵衞ゑさんはじめ、他の信者さんにも伝えるわけにはいきません。それを念頭に置いて対応するようにしてください。

現代語訳

この1通目の書簡には明治二十年陰暦正月二十六日に教祖おやさま現身うつしみを隠されたことがしたためられている。『稿本天理教教祖伝』に記されるように、お屋敷はあたかも太陽がちたごとき混乱の坩堝るつぼと化し、人々は悲嘆にくれていた。現場に居あわせた四郎兵衛とて同様であったはずである。書簡の文面からは、つとめて冷静を保とうとしているが、隠しようのない動揺が顔をのぞかせている。
とは言え、百十五歳定命と仰せられていた教祖おやさま眼前がんぜん現身うつしみを隠されるという驚天動地きょうてんどうちの出来事に接しながら、四郎兵衛がただちに大阪の妻に宛て、慌てながらも実に要領を得た書簡を送っているところには驚かされる。
古い文献によると、この時おつとめに出ることができなかった梅谷四郎兵衛は、柱にしがみついて男泣きに泣いたと記されているし、中山正善著『ひとことはな志』その二にも、中山たまへによる回顧談として次の記述がある。

やがて、長らく締め切られていた、上段の間と次の間の襖が開けられたが、そこには桝井さんと梅谷さんが、泣きこけておられたそうでありますが、もっともな姿と言えましょう。

中山正善『ひとことはな志』 その二

また、増井りんなどは教祖おやさまお隠れの報に接して卒倒そっとうし、そのまま寝込んでしまったことで教祖おやさまの葬儀にも参列できなかったという。
事ほど左様に、四郎兵衛も含め、教祖おやさまに薫陶を受けた高弟たちが等しく哀しみに打ち震え、茫然自失ぼうぜんじしつしていたであろう陰暦正月二十六日のその日のうちに、
「何も心配はいらない」
と家族を励まし、更には
「これから道がころっと変りて、さあ/\これからや皆の者、揃うているか、これしっかりと聞き分け」
とのおさしづを正確に付記し、その他的確な指示を記したふみを送っていることに、私は胸が震えるほどの感動をおぼえた。四郎兵衛はこの状況にあっても、否。この状況だからこそ教祖おやさまの思いを一刻も早く妻に伝えようとしたのではないかと。

さて、次に引用する2日後に送った2通目の書簡には、四郎兵衛がおつとめに出ていなかった経緯いきさつが詳細に記されており、私はこの文面によって”家事取締り”の任の何たるかを正しく理解することとなる。これまでそんなことも認識していなかった自分のマヌケさを呪いたい気分だ。

【原文】
ちょっとあらかじめ申し送ります。此の度の教祖長々の御身の悩みと云い、又はその上にお社まで捨てゝのお働きは、世界中皆何処までも、六じに踏みならすとのおさしづです。それ故に我が内のさわりを神様へお願いました処、さあ/\家内中あちらこちらにさわり付けたのは、此のたびの事をせきこみを知らしたのである、との事です。さあ/\しっかりと聞いて真実の心変らぬよう、さあこれからは道は、速いで/\、世界を六じに踏みならすと聞かしてあるで、これ一ツ忘れぬよう、とお聞かせ頂きました。それ故に今迄の道とは違い、社を聞いて世界六じに踏みならすとのおさしづでしまいでした。
どうぞその心得で今までよりも、真実厚くして、迷い疑う心は少しも持たぬよう。この事はくれぐれもしっかりと頼みます。自分は、とうてい二月中には大坂へ戻る事は出来ないと今日現在では思っております。
それ故にあらかじめの事を筆にて書き送ります。又私の事はこの度の御教祖の身上悩みに付き、正月廿六日に本づとめが勤まりました事に付ては、前日廿五日の午後六時にお地場へ到着いたしました。それより直ぐに談じ合いの中へ有難くも加わりました。
いよ/\廿六日の午後の壱時二十分前よりつとめにかゝられる様子になりました。私は心も勇みに勇んで黒衣を着して、甘露台へ向かおうという事になりましたら、内より梅谷/\と呼び声高く掛りましたので、見ますと、神様の次の間で、飯降様、梶本様の二人が顔色を変えて、我等二人は教祖の前に残り、あとは皆々高山へ行けば、我等二人でこの大切な御教祖を何としよう、どうぞ/\神様を大切と思うならば、何とぞ/\増野、梅谷、平野と三人は内へ残ってくれと、それは/\顔色変えてきびしく申し付けになりましたので、四郎兵衛心を取り直しまして、教祖の前にてふんばりました。増野と四良兵衛と二人だけで、平野はつとめに出られました。
あとの先生は、残らず無事で一座のつとめがすみやかにっとまりました。四良兵衛は廿六日の朝勤めには出さしてもらいましたのです。
一寸此様子を申し送ります。
だん/\と御道はかわりて、真に頼もしき事になります。初めから聞
かしてもらった通りの道になって来ました。十分思案して見なされや。
この屋敷一度は燈火が消えたような日があると聞きました事があります。
正にその通りであります。これからは教祖は、世界中を駆け回られるとの事です。
他にも詳しく申したい事も澤山ありますが、何分にも右の用事を申し送り度く、又後便にて詳しく申し送ります。
どうぞ/\心変る事のなきょう/\くれぐれも頼みます。

御母様を大切にして下さる様に。次に子供四人の事もよろしく頼みます。
二月廿日に印
たねどの
                            梅谷四郎兵衛
梅次郎
おとなしくして母々によく佐えて下さい。

道友社編『静かなる炎の人・梅谷四郎兵衛』より

【Beによる現代語での意訳】
あらかじめ申し送ります。このたびの教祖おやさまの長期にわたるご不調の末に、神様の社であるお身体を脱ぎ捨てられたことは、「世界中を平らに踏みならし、親神様のみ教えを世界に広めに出る」との神意によるものです。
それゆえに我が家族の病気について神様へ”おさしづをお願いすと、
「家内中あちこちに障り付くのは、このたびの急き込みを知らしたのである」
とのことです。
「しっかりと聞いて、真実の心が変わらぬよう。これからの道の動きは速い。世界を平らにに踏みならすと聞かせてきたであろう。それを忘れてはならない」
とお聞かせくださいました。だからこそ「今までの道とは違い、社の扉を開いて、世界を平らに踏み均すのだ」
との「おさしづ」で締めくくられました。
どうかどうか、そのお言葉を胸に、これまで以上に真実こめて、迷うことのないように。この点をくれぐれもしっかり頼みます。
現段階では2月中は大阪に帰ることはできないだろうと考えていますので、あらかじめ書簡にて書き送ることにします。
また、私自身のことですが、この度の教祖おやさまの体調不良につき、陰暦1月26日にかぐらづとめがつとめられましたが、私は前日25日の午後6時におぢばへ到着しました。有り難いことに、その後すぐに会議の中に加えていただくことができました。
26日の午後1時20分前からいよいよおつとめが勤められることになりました。
私は勇みに勇んでおつとめ着を着てかんろだいに向かおうとした時、ご休息所の六畳の間(教祖おやさまがいらっしゃる隣の間)から「梅谷!梅谷!」と大声で呼ばれましたので、お部屋へうかがいますと、飯降伊蔵様と梶本松治郎様が顔色を変えて、
「私たち二人が教祖おやさまのお側に残り、他の者すべてがおつとめに出ると、もしも全員が警察に勾引された時に、衰弱しておられる大切な教祖おやさまをどうして差し上げることもできないではないか。どうか、どうか増野、梅谷、平野はここに残ってくれ!」
と、厳しく命じられましたので、私は気持ちを切り替え、腹を据えて教祖おやさまのお側でお見守りすることにしました。残ったのは増野さんと私だけで、平野楢造さんはおつとめに向かわれました。
結果的に、おつとめに参加した先生方は、全員無事に一座のおつとめをつとめることができました。
私は26日の朝づとめには出させていただきました。
以上のような次第であったことをお伝えしておきます。

だんだんお道は良き方向に変わっていき、本当に頼もしい事になります。教祖おやさまから聞かせていただいていた通りの道になってきました。
よく思案してみてください。「この屋敷、一度は火が消えたような日がある。と聞かせていただきましたが、まさにその通りです。これから教祖おやさまは世界中を駆け回られるとのことです。
他にも詳しく伝えたいこともたくさんありますが、後日書簡にて詳しく記します。
どうか、どうか、心を変えることのないよう、くれぐれもよろしくお願いします。

現代語訳

原文書簡の黒字部分を注目いただきたい。
本席飯降伊蔵と、初代真柱の実兄である梶本松治郎から「何とぞ何とぞ増野、梅谷、平野と三人は内へ残りくれ」と名指しで命じられた三名は、余人をもって代え難い”信”を置かれていたのだろう。
もしもおつとめに参加した者すべてが官憲に勾引こういんされてしまえば、衰弱したまま残される教祖おやさまはどうなってしまうのか。万が一このまま息を引き取られるという事態に及んだ時、我ら二人(飯降伊蔵・梶本松治郎)以外には、おまさ(中山おまさ/教祖の長女・当時63歳)・ひさ(梶本ひさ/真之亮の姉・当時25歳)の女性二名だけでは十分な対応ができないだろう。飯降伊蔵と梶本松治郎の懸念はそこにあったと想像できる。
つとめの芯たる真之亮は教祖おやさまのお側にはべることができない。飯降伊蔵たちには後事を共に引き受けるにる、信頼できる者が必要であった。さすれば、教祖おやさまの教えを心に修め、それぞれに度胸や機転に秀でた四郎兵衛ら三名が選ばれたことは必然であったと思われる。
結果的にその内の一人である平野楢造は重鎮飯降伊蔵・梶本松治郎両人の懇願を拒み、決然とおつとめに参加している。平野の一見身勝手とも取れる振る舞いであるが、それもまた平野楢造の揺るぎなき信仰の証と言えよう。
あるところで「教祖おやさまの教えをよく理解していなかった平野楢蔵は教祖おやさま身上平癒みじょうへいゆをお願いに行ってしまったのです。」という記述を目にしたが、平野の行動を非難することなど私にはできない。
今際いまわきわにある教祖おやさまの側にはべり、そのご容態の急変に対応しようとするのも信仰なら、平野楢造のように、おつとめさえ勤めたなら最悪の事態は必ず回避できると信じ、後顧こうこの憂いを一顧いっこだにすることなく、”つとめ”に|乾坤一擲《けんこんいってき》をしたのも、教祖おやさまに感化された元博徒恩智楢ならではの真っ直ぐな信仰であろう。

とまれ、教祖おやさまから最も教えを聴いたといわれる四郎兵衛である。つとめの大切さを誰よりも理解していたであろう。本心では平野同様おつとめに出たかったはずである。
二月二十日付けの書簡に記される

四郎兵衛心を取り直しまして、教祖の前にてふんばりました。増野と四良兵衛と二人だけで、平野はつとめに出られました。

道友社編『静かなる炎の人・梅谷四郎兵衛』106〜114頁

という箇所には、つとめに出ることができなかった四郎兵衛の悔しさと切なさがにじみ出ている。
しかし、悲嘆ひたんに暮れ動揺するお屋敷の人々の中にあって、みずからも哀しみと虚脱感にさいなまれていた四郎兵衛であったが、2通目の書簡には、気丈にも

だん/\と御道はかわりて、真に頼もしき事になります。初めから聞
かしてもらった通りの道になって来ました。十分思案して見なされや。
この屋敷一度は燈火が消えたような日があると聞きました事があります。
正にその通りであります。これからは教祖は、世界中を駆け回られるとの事です。

道友社編『静かなる炎の人・梅谷四郎兵衛』より

つづっている。
家族はもとより、やがて教祖おやさまのお隠れを知るであろう信者に対して、教祖おやさま現身うつしみを隠された二日後の二十八日には、いち早く『おさしづ』によって伝えられた「お道が益々伸び盛ること。これからは教祖おやさまが世界中を駆け回ると仰せだ」との教祖おやさまの思いを的確に理解し、自らの講社の信者への対応を含めて、妻に向けまったき指示をしているところに四郎兵衛が稀代きたいの高弟といわれる由縁ゆえんを見る思いがした。
今回は明治二十年陰暦正月二十六日に立ち会った梅谷四郎兵衛の妻への書簡をもとに、その日その時のお屋敷の状況と梅谷四郎兵衛について感じるままに記してみた。

過日、四郎兵衛がしたためたこの書簡を初めて目にした時、
「四郎兵衛心を取り直しまして、教祖の前にてふんばりました。増野と四良兵衛と二人だけで、平野はつとめに出られました」
という短いセンテンスに私は強烈に惹きつけられた。もう一度読み返してみると正体不明のナニモノかが心の中にに嵐を呼び、三度みたび読み返した時には訳もなく落涙してしていた。
それ以来、いつか書きたいと思っていのだが、思い入れがあまりにも強かったがために独りよがりな記事になってしまったことをご寛恕かんじょいただければ幸いである。

最後に、その日のことを語った中山たまへ(中山秀司の娘・後の初代真柱夫人)の言葉をご紹介して今回の記事を終えたい。

明治20年陰暦正月26日のお屋敷

(※改行・ルビ・注釈は著者Beによるもの)

正月廿六にじゅうろく日 母様の話「おつとめを終わってからよしゑさん(飯降よしゑ・当時22歳)に手を引かれて、つとめ場所の上段に祀ってある神床かんどこに参拝した。
〝おばあさま(教祖)は、もうようなって下さったやろか。ご飯もあがって下さるやろな〟と話しかけると、よしゑさんも〝そうでしょうとも〟と言っておられた。そして八畳間の入口まで送ってもらって、よしゑさんは帰った。
私は八畳の間へ入ったが誰もいなかったので北へ廻って、いつものように恐々ソッと障子から中を覗いた……」
おつとめさえ勤めれば、教祖の身上はよくなって下さるものと信じておたれたのであります。「扉開いて」とお願いした人々も、同じ心であったことは言うまでもありません。
「ソッとのぞくと、いつの間に来ておられたのか、お父様はもう来ておられて、真っ赤な顔をして〝いと、早よ来い〟と大声で言われたのや。おばあさま(教祖)が寝ておられるのに、あんな大きな声を出してと、ちょっと変には思ったが、それでもまさか、ご昇天になっているのだとは思わなかった。
いとちゃん。おばあさま(教祖)がこんなになられた〟
と姉やん(梶本ひさ/真之亮の姉/後の山澤ひさ・当時25歳)が私の手を、おばあさま(教祖)の顔に持っていったが、それでもまだ、息を引き取ったとは思わなかったが〝冷たいんやな。おばあさま(教祖)は、もの言いはらへんねがな〟と言われて初めてそれと知って〝わァ〟と大声で泣いたので〝泣くな〟とお父様に叱られたのを覚えている。
それからお父様は〝皆に話してくるから、いと、おばあさま(教祖)の側を離れてはいかんで〟と出て行かれたが、その時には叔母やん(中山おまさ/教祖の長女・当時63歳)も居たように覚えている……」
「後になってから姉やんに聞いた話やが、皆がおつとめに出た後で、叔母やんと姉やんと二人でお側に居たんやが、陽気なおつとめの声を聞いて、おばあさま(教祖)は心地よさそうに、スヤスヤとおやすみになった。そこで、その時まで始終お側にいた叔母やんが〝おひさ、そこに居て。わしはちょっと拝んでくるから〟と言って、十二下り目にかかったと思われる時に出て行かれた。ちょうど、大工の人も揃い来たという最後のお歌が終わる頃、おばあさま(教祖)は、ちょっと変な素振りをされたので〝お水ですか〟言ったが何ともお返事がない。それでも水を差し上げたところ、三口召し上がった。〝おばあさま(教祖)〟と重ねてお呼び申したが、何ともお返事がないので大いに驚いて〝誰かいませんか。早く眞之亮さんを呼んで来て下され〟と大声で呼んだが、そこに誰かおったか、いなかったか知らんが、やがて叔母やんも、眞之亮さんも来たのや。誰かおって、呼んできてくれたのか、叔母やんが帰ってきて、眞之亮さんを呼んできてくれたのか、その辺はハッキリと記憶せぬが、おばあさま(教祖)のご昇天になる時に、お側におったのは私一人(梶本ひさ)との話や」
母様はここまで話されて、今なおまざまざと、その時の事が思い出されるように、座敷の一方を見つめられました。
〝今にも天地が闇になる〟かと思いながら〝まだ明るい、明るい、と思った〟との、子供らしい記憶を追うておられるようでありました。
やがて、長らく締め切られていた、上段の間と次の間の襖が開けられたが、そこには桝井(伊三郎)さんと梅谷(四郎兵衛)さんが、泣きこけておられたそうでありますが、もっともな姿と言えましょう。

中山正善 『ひとことはな志』 その二

ではまたいずれ。

台風10号がもたらした雨漏りの音を聴きながら記す。

おまけ

writer/Be.w.o
proofreader/ N.N

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