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ゆるやかな洗脳

2022年(令和4年)7月8日午前11時31分、安倍首相が銃撃されてお亡くなりになりました。この痛ましい事件を契機に、統一教会の常軌を逸した献金が問題視され、同時に宗教二世問題が大々的に取り上げられるようになりました。
程度の差はあれ、どのような宗教団体にも当てはまる問題なのではないか思います。何故なら、「目に見えない神を信じるという行為は、ゆるやかな洗脳状態にある」と言う学者もいますから。 ・・・・・知らんけど。
統一教会が献金を募る手法は洗脳による恐怖心に依拠しており、報道される献金額から考えても凄まじいとしか言いようがありません。
では天理教ではどうでしょう。天理教にも「御供」「理立」「御礼」などがありますが、これは強制されてするるものではありません。神様への感謝やお願いの気持ちを込めて任意でおこなうものです・・・のはずです。
『天理教事典』には

信仰的実践の徳目としてあげられる。普通には、「心を尽くし、身を運んでつとめることの意味」である。しかし、実際の場面で熟語的に用いられる場合には、親神に対する報恩の念からする教会への献金、教会への参拝、教会での奉仕を指すことが多い。欲の心を離れて、欲の心の対象となる金銭をお供えし(このことは、しばしば「おつくし」と言われている)、自らのために働く日常生活を離れて教会へ行き、親神に対する報恩の行ないにつくことが、何よりも信仰的歩みの第一であると考えられ、信仰的成人への具体的な過程として、そういう努力をするように教えられている。
天理教事典P526「つくし・はこび」

との記述があり、信仰的成長のためは必要な努力であるとも言われています。感謝や報恩の気持ちを表すというだけではなく、成人(信仰的成長)するために能動的に行うべきもの、ということでしょうか。単なる報恩の意味合いより少しハードルが上がった気がします。
また「欲の心の対象となる金銭をお供えし」という文言にも少し違和感をおぼえます。金銭を欲の心の対象の代表選手みたいにおっしゃってますが、ちょっと恣意的に過ぎる気がします。
おやさと研究所元所長で、やまとよふき分教会前会長の深谷忠一氏の言によると更にラジカルな様相を呈します。 

突き詰めた言い方をすれば、御供をするのは、いのちの対価を差し出すということです。「真心の御供」というお話でも、貧しい人は、“ やっと年越しができた ” と、いのちを1年繋いで頂いたお礼を持ってきた。
(中略)
真心の御供とは、逸話篇 178 の「身上がもとや」にもあるように、「二の切り=いのちの次に大事なもの」を出すことですが、それは必ずしも金銭を出すだけのことではありません。金銭より、時間の方が大事な人、地位や名誉の方が大事な人、家族の団欒の方が大事な人、そういう人は、時間、地位、名誉、家族の団欒を供えて神様の御用に使って頂くことが、「二の切り」を出すことになるのです。
こういう話を進めてきますと、心が伴わないのなら出さない方がよい ” とか、“ 心に納得がいってから御供をするべきだ ”などと考える人も出てくるかも知れません。しかし、御供は生かされていることへの報恩、いのちの代価なのですから、誰もが必ず出すべきものなのです。
「嫌々でも出すべきか」という問いに対して、東中央大教会初代会長の柏木庫治先生は、「出す方は嫌々でも、受け取る会長が喜んで受け取って、その会長が喜び心を添えて神様に御供えしてくれるから、嫌々でも出したらいいんだ」と言われています。喜び心を会長さんに添えてもらって御供をすれば、それは教会の御用、世界だすけの御用につながるのですから、本人は嫌々でも出さないより出した方がよい。
平成 24 年度公開教学講座「信仰を生きる」:『逸話篇』に学ぶ(1)
第1講:7「真心の御供」 

と語っています。「『真心の御供(逸話篇)』というお話でも、貧しい人は、“ やっと年越しができた ” と、いのちを1年繋いで頂いたお礼を持ってきた。」という解釈は、現表統領の発言に通じるものがありますね。
でも逸話篇の二の切りについて教祖は「御供しろ」ではなく「施せ」と言われていますので、少し意味合いが違うのではないでしょうか。
更に柏木庫治の言葉を用いて「喜べなくても出せ」と言われておりますが『教祖伝逸話篇』に収録されている「真心の御供」からここへ結論を導くなんて深谷先生、豪腕が過ぎるんじゃないでしょうか。
私はそうじゃないと思うんですよ。喜べなくても出すことが後の成人に繋がるってことを全否定はしませんが、それが神様の思惑だと言い切るのはいささか早計じゃないかと思ってしまうんですよね。それに、親のそうした姿を見ている家族、特に子供に与える影響は決して小さくないですよ多分。だって宗教二世問題の核心部分の一つですもの。
で、先に触れた中田善亮表統領の歴史的発言がこれです。

また「おつくし」についても、しっかり説かねばならない。おつくしができなくなると、たすかる道が途切れてしまうからである。おつくしによってたすけてもらった経験があれば、その理が分かる。説くうえには、おたすけをしっかりすることが前提となる。「お金のことは言いにくい」と避けていては、よふぼくは、おつくしの意味がますます分からなくなる。おつくしは命のつなぎであり、親神様にお受け取りいただく真実である。
「みちのとも」2016年12月号

ここまでくると、冒頭に私が記した「強制されてするるものではありません。神様への感謝やお願いの気持ちを込めて任意でおこなうものです。」という文言と、かなりの相違を感じてしまいます。もちろん統一教会と同じとは言いませんが、恐怖心を煽る文章と言えます。
つまり根っこの部分で、統一教会の洗脳の手法とうっすら重なってはいないでしょうか。
たとえば、教祖年祭の旬にまとまった金額の御供をしなかったら、神様からのお手入れ(一般的に言う罰)があるんじゃないかとか考えること自体が緩やかな洗脳の中にいると思うんですよね。
表統領の発言は既に批判し尽くされた感がありますが、改めて読んでみると、直属教会長・教区長へ方針発表「再出発の気持ちで、基本から始めよう」という主題の中で一番言いたかったのがコレなんだろうな、というのが良く分かります。よほど本部にお金がないのでしょうか。
だとしても、こんなおさしづもありますよ。
「信仰はお金じゃないんだよ」という教祖のお言葉は数多く存在しますが、個人的にはこれが一番しっくりきています。

この道というは、もう言うまでのものである。金銭ずくで求められやせん。国々所々あちらこちら遠き所より運び来る。又、日々稼ぎという、皆な働いてる人の事を思え。金銭稼ぎ、朝晩まで働いたとて、何ぼうのあたゑ(与え)あるか、よう思案せい。
明治40年4月10日 陰暦2月28日午後5時半 

神様はやっぱり分かってらっしゃるんです。下々が大変な中を御供してることが。その上で御供の督励を戒めていらっしゃる。これ、天理教が一派独立する前年のおさしづですよ。必死こいて政官界工作に奔走してた時期でもあり、とてつもない資金を要したことが記録に残されています。その時ですら、神様は下々の実情を慮れと叱責されているじゃないですか。
また有名なおさしづに

「平野楢蔵とお話しありし時、俄かに刻限の話」
一万二千足らんと聞いた。そんな事でこの道どうなるぞ。これでは働けるか働けんか。さあしっかりせい。教祖にこの道譲りて貰ろたのに、難儀さそうと言うて譲りて貰うたのやない、言うて居た日あるのに、何と呆けて居る。・・・・
明治40年3月13日午前8時30分

というものがあります。これは上田ナライトさんの仕事場の建築にあたって、本席、平野楢蔵、会計の桝井伊三郎が雑談中に、桝井が資金不足を嘆いたところ、急に本席に神様が降りてきて語られたおさしづです。
「建築資金不足を嘆いている」ことを叱責しているという解釈が通例になっていますが、そうではなく、信者からの尊い御供で運営している本部が、借金をして負債を抱えていることに対しての叱責だと私は理解しています。
それは同日、「平野より、増野酒を呑んで御心配な事申し上げて相済まずと御詫び致し、将来慎みます」と申し上げた際の

些かならん処の涙寄せてするようでは、受け取れん。
明治40年3月13日

というお言葉からもうかがえます。
時代は進んで教祖百年祭直前、上級からの求めに応じて大きな借金をし、御供することは当たり前に行われておりました。私の母がそうでしたし、同系統内にも大勢おられました。
でも、借金までして御供することが、本当に教祖の望まれる信仰じゃないってことなど皆さんお気づきですよね。
それに気づいていた先人もいます。

私の養父清水与之助は豪胆な一面、手堅い信仰のしかたであった。○○先生とはまったく正反対である。○○先生は借金してでも、多少人に迷惑かゝるのは神様の御用だから致し方ない、やりきるというお方であった。
養父は何からでも節約して一切借金をしないように尽し運ぶ、手堅いやり方であった。だからいつも○○先生と意見が対立して、双方譲らず、見ていて冷汗をかゝせるような論争をしたことであった。几帳面にやらぬと気に入らぬ父は、本部のことは何から何まで首を突っ込んで、何一つ知らんことがない程、心にかけてつとめた。
(中略)
明治17年頃、神戸の副講元であった富田伝次郎さんは父を評して、「会長さんはホトトギスみたいや。八千八言、泣きやむまで餌もたべずに泣く、そういう人やった」と述懐しておられたことがあった。父が手堅かったことについて春野喜一さんは、「盲(めくら)が石橋折れはせんかと、叩いて通るようなやり方の人であった」。
松村吉太郎先生は、「○○はんは大ざっぱにやるし、清水(与之助)、梅谷(四郎兵衛)さんは手堅いし、わしはその中をとってやって来たのや」とよく話された。
父の手堅いやり方について、それでよいかどうか、いつか御母堂様に伺ったら、「教祖様は貧乏なされたが借金なされたことはない。といって借金してでもせいとはおっしゃらん」と仰せられたことがある。お指図ののどこにも「借金してでもやれ、あとは神が引受けてやる」というお言葉は見当らない。親としては子供が沢山借金をこしらえたら案じずにはおられんのである。初代真柱様は、「そんなに借金をこしらえたり、人を倒したりするのは道やない。堅うやるのが道や」とおきかせ下さり、本席様は、「○○は借金していつも無茶やりよる。あれは大やまこや。あんなやまこあらへん。わしは心配で夜もねられんことがある」とおっしゃった。借金してでも、という心は親を思う真実があるように思えるが、かえって親をやます、心配させる、親不孝になるのである。兵神も父の手堅い信仰をついで、派手ではないが地味にゆくので結構だと思っている。『この道は人を助ける道や』と教祖様はおっしゃった。借金する道ではないのである」。
『本部員叢書2』
「生涯くるわぬ精神」清水由松より

文中の伏せ字、○○先生が誰なのか気になりますが、平野楢蔵さんが本命で、対抗馬が諸井国三郎さんあたりではないかと思われます。
清水与之助さんは立派だったと思います。教会(講)が借金返済に苦しむ時、その影響は家族や信者さんにもおよびます。そんなことは教祖が望まれる形ではありません。私はそれを改めて断言しておきます。
いよいよ来年早々には教祖年祭に向けた三年千日の歩みが始まります。
ご承知の通り、40年前の教祖百年祭に向かう歩みの中で教会長による事件や不祥事が頻発し、メディアにも大きく取り上げられました。そのほとんどが御供(お金)に苦しんでのことでした。
それらは『天理教・その堕落と悲劇:300万信者の悲劇、お供え金地獄、教会長残酷秘話、本部の犯罪、相次ぐ離脱・・・』早川和広著 に詳しいですが、「天理教社会学研究所」さんのブログに分かりやすく書かれていますのでご参照ください。
あの時の悲劇をリアルタイムで目の当たりにしていた者として、来年からの3年間で本部が同じ轍を踏むことのないよう、正しい方向性を示して欲しいと切に願っております。
私は御供を完全否定するものではありません。国に公認された宗教団体であれば維持運営費が必要だということは理解しています。公認宗教団体として、備えていなければならない施設、設備を維持するには資金が必要なことは当然であると思います。修正すべきは集め方と額の問題であり、生活を脅かすことで家族の崩壊すら招きかねない御供の集め方なのです。
年祭に向かうこの3年で再び百年祭の時と同様の事件が起きたなら、間違いなくお道はカルト宗教として取材を受けることになるでしょう。
教団の叡慮を切に望みます。

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