『みちのとも』6月号に教祖140年祭に向かう歩み方についての両統領によるインタビュー記事が掲載されました。 私の系統では大教会長から全部内教会長に対して「必ず読むように」との至上命令が降りました。なんだか「読まんかったらタダじゃおかんからな!」という勢いでした。 気の小さい私など「え。読まんかったらどうなるの?埋められちゃうの?沈められちゃうの?」と雨に濡れた子犬のようにブルブル震えましたよ。
もちろん届くや否や、襟も膝も正して拝読いたしました。いたしましたとも。ポテチの油でページが汚れましたけどね。 今回はその中で語られた「陽気ぐらしとは何ぞや?」に絞って考えてみたいと思います。 まず、インタビューの中で語られた「陽気ぐらし」に関する文章を列挙してみます。
「陽気ぐらしへの歩みという悠久の時間の流れのなかで、今回の140年祭をどう捉えるか」 「陽気ぐらしに向かって努力している姿を、教祖にご覧いただいて喜んでもらう」 「陽気ぐらしに反する状況が多くあります」 「人類が目指すべき陽気ぐらしという自標があって、そこへ至るために教えられた真実の教えによって、コロナも戦争もない世を目指していく のだ」 「私たちは陽気ぐらしを目指すのだ。これが実現すれば、感染症の広がりや戦争はなくなるのだ」 「陽気ぐらしへ真っすぐに進むひながたの道がある」
『みちのとも』2022年6月号 おおよそこんなところでした。 では、皆さんは陽気ぐらしとは、あるいは陽気ぐらし世界とは具体的にどんな姿を思い浮かべますか? 「みんながたすけあって明るく生きていて、基本的に暑くもなく寒くもなく、衣食住に困らず、病気もしない、争いもない、ストレスフリーで楽しいなあ」みたいな、ふわっとしたイメージでしょうか。 そんな世界が本当に楽しいかどうか、今回はスルーします。 でも両統領が、とりあえず今の世界は陽気ぐらし世界ではないってことと、「もっと頑張らないと絶対にたどり着けないからな!」って言ってるのは分かりますね。 「陽気ぐらしへの歩みという悠久の時間の流れのなかで」とか言われた日には、タクマカラン砂漠をゆくキャラバン(隊商) が喜多郎の名曲「シルクロード」 の流れる中、脳内をのんびりと進んで行きましたですよ。
シルクロードをゆくキャラバン あ。ディスったわけじゃありませんから悪しからず。 だけど、陽気ぐらしはそんな遥か彼方にあるものなのでしょうか? 「陽気ぐらし」について論じるときは
「神が連れて通る陽気と、めん/\勝手の陽気とある。勝手の陽気は通るに通れん。陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。」
おさしづ(抜粋) 明治三十年十二月十一日 という、使いたおされた感のある『おさしづ』を引用して記述するのが王道みたいですね。でも私は学者じゃあーりませんので、このおさしづは見て見ぬふりをいたします。後半部で部分的には引用しますが・・・ 代わりに天理教の公式WEBサイトによる説明から抜粋してみます。
親神・天理王命は、人間が互いにたすけ合う「陽気ぐらし」の姿を見て共に楽しみたいとの思いから、人間と自然界を創り、これまで絶え間なく守り育んできました。 (中略) 教祖は、「陽気ぐらし」に近づく生き方を、私たちに分かりやすい言葉で伝え、文字に記し、自らの行動で教えました。 (中略) 病気やつらいことが起こったときでも、それは私たち人間の心を育てるための“神様からの手引き”にほかなりません。 つらく悲しい出来事でさえ、実は神様による導きであるという真実に目覚めたとき、何ごとも前向きに受けとめ、明るく陽気に生きていくことができるでしょう。 さらに、その思いは、神様に対する感謝と喜びを生み、私欲を忘れて他者のために行動する「ひのきしん」へとつながっていきます。
天理教公式WEBサイト 二十歳の頃にこれと似た内容の講話を聞いたとき「なるほど、ごもっともです。グーの音も出ません。だけど『言うは易く行うは難し』って言いますやん。私のように不足を食べて大きくなったような人間には無理です。なんせ身体の8割が不足でできてるみたいなもんですから」と思ったものです。 でも、しばらくして出会ったのが、こんなお話しでした。もう記憶の彼方にあるお話しですので、間違ってたらごめんなさい。
中学生の女の子が学校から帰ると、もうすぐ90歳になるおばあちゃんが、耳にイヤホンをつけてラジカセ(古っ!)で何かを聴いていました。 「おばあちゃん、なに聴いてんの?」女の子は聞きました。 するとおばあちゃんはイヤホンを外し、少し恥ずかしそうに応えました。 「英会話・・・」 女の子はびっくりしました。それまで、おばあちゃんが英語に興味があることなどまったく知りませんでしたから。 「なんで英会話なんか勉強するの?」 「海外布教に行きたいんよ」 おばあちゃんの声は聞こえないくらい小さな声でした。 「え!海外布教!」女の子は素っ頓狂な声を上げました。するとおばあちゃ んは意を決したように語ってくれました。 「あのな。おばあちゃん一回も外国に行ったことないやろ。せやから来 世、生まれ変わったら海外布教に行きたいねん。そやから勉強してんね ん」 その言葉を聞いた女の子は何故だかとても胸がいっぱいになり、気がづく とおばあちゃんに抱きついていました。そして少し泣きました。
作者不詳 と、こんなお話でした。私も少し泣きました。 陽気ぐらしですよねこれ。陽気ぐらしそのものです。 「陽気ぐらし」は待っていてもやって来ない。陽気ぐらしの瞬間というものは、心ひとつで誰にでも獲得できるものだということを教えられているんじゃないでしょうか。 もう一つ例を挙げさせてください。 LGBTトランスジェンダーの鈴木優希(すずきゆうき)さんの書かれた文章です。一部を抜粋しようかとも思いましたが、私には一言一句が欠くことのできない鈴木さんの心と身体の一部のような気がしたので、全文を掲載させていただきます。鈴木さんの文章には陽気ぐらしの何たるかが詰まっています。
僕はLGBTのTにあたるトランスジェンダー。女から男に戸籍を変えて生きている鈴木優希41歳 。 性別を変えるには性転換手術と昔は言われていたが、今は性別適合手術というものを受けなくてはいけない。 心は変えられないからリスクはあるが致し方ない。男になりたい!という気持ちの方が強かった。 戸籍を変えていると言うと、 よく「下は付けたの?」と聞かれるが僕は付けていない。 男になる方法 性別適合手術といっても、FTM(註1)ならば女の機能をなくすことが目的なので子宮卵巣の摘出をすることであり尿道を延長させて男性器に似たものをつけることは必須ではない。 僕は「男性器」というものは元々持ってなかったものだし、子供が生まれる機能、興奮によって、立ったり快感がある機能であれば欲しかったがその機能はなく、外見的にそれっぽいものなら要らないと考えて作る選択はせずに未だに下半身は女のままでいる。 ないものも沢山あるけれど、僕は恵まれている。 男性器もなく男としての機能もない。この状況の自分を卑屈に思った時もあるが、40歳を超えて今思う。それは、 僕は恵まれている 自分らしく働き収入を得られる「居場所」がある。 思ってくれる家族がいる。 認めてくれる人がいる。 十分に恵まれている。 僕たちのような少数派は「人と違う」ことで、どうしても卑屈になってしまいがち。 その気持ちもわかるけど、せっかく一度きりの人生。口角を上げていこう! 40だからわかること 僕は心と体があべこべで生まれてしまったけど、この両親のもとに生まれて良かったと思っている。 僕の存在のせいで、たくさん悩ませてしまったし、この歳になってもまだ心配の種だと思う。「なんで僕ばっかり..」「なんで男に産んでくれなかったの?」と自分に圧し掛かった障害を受け入れられず荒れた時期もあった。 でも、ちゃんと生まれるより、この家に生まれることが優先順位だったんだと今は感じている。 若い頃はこんな風に思える日が来ることなんて想像も出来なかった。性同一性障害を抱えた僕に明るい未来などないと思っていた。 この歳だから見えてくるものが沢山ある。 だから「今」自分の心のこと体のこと。 生き方に悩んでいる人がいたとしても状況は変わる。自分だって変わる。 だから、幸せを探そう。 肝心なモノがなくても大切なモノをたくさん持っている。感謝して笑顔で生きていこう。
鈴木優希(すずきゆうき)さんのnoteより ※Beによる註1 FTM(エフティーエム)とは「Female to Male」の略で、心の性別が男性で身体の性別が女性として出生し、女性から男性へ性別移行を望む人を表す総称です。トランスジェンダーの1カテゴリに属するアイデンティティのひとつで、「LGTBQ+」の「T」にあたります。現在では「トランスジェンダー男性」と表現することも多いです。
鈴木さんは言います。 「だから、幸せを探そう。」と。 こう思えたとき、それは陽気ぐらしの瞬間そのものなんじゃないでしょうか。 何よりも素晴らしいのは、この記事を読んだ多くの方が勇気をもらい、あるいは何かしら感じるものを得て前向きになれるってことなんですよ。 「陽気というは、皆んな勇ましてこそ、真の陽気という」との言葉そのままに、真の陽気を生み出していますよね。 陽気ぐらしや感謝や喜びって、なにも天理教の専売特許じゃないんですよね。感謝したり、感激したり、感動したり、海外布教に飛び回る来世を夢見たり、こうした陽気ぐらしの瞬間が沢山出現する世界こそが「陽気くらし世界」なんじゃないかな。と思っています。
さて、あまり気がすすみませんが、少しだけ両統領のインタビュー記事に目を向けてみますね。
表統領 理想の教会の姿は、私たちのいまの段階では分からないかもしれませんが、それはあるはずです。 なぜならば、親神様・教祖には、意中の教会の姿というものが必ずあるからです。 仮に、その理想の姿があって、それが100点だとしたときに、「では、いまのあなたの教会は何点?」と尋ねられて「98点」と答える人は、たぶんいないと思います。皆もっと遠慮して答えて、たとえば「いまは20点です」と答えた教会が、いきなりこれから100点を目指すというのは無理というものです。ならば、20点から30点、35点へと目指していくほうがいいと思います。でも、30点になろうと思ったら、いっぺんに30点になるのは無理で、まずは21点にならないといけない。 けれども油断していると、19点や15点に下がってしまうこともあるわけですから、いまはお互い教会長として、せめて30点を思い描いてみて、それはどんな姿なのかを考えていただきたいと思うのです。司 会 たとえば、おさづけを皆が取り次ぐ教会になろう。 これがプラス5点とか、そういうことでしょうか。表統領 そうですね。採点基準は自分で決めればいいと思います。皆、漠然と100点を目指しているのではないでしょうか。 100点の姿がちゃんと描けていないのに、なんとなく言われるがままに100点を目指している。何が100点なのか分からないのに、これをやったら100点になるだろうと、なんとなくやっている。これは結果的に、自分から100点を目指しているとは言えなくなる。言われて、そういうものだと思い込んでいる。そんな意識なのに、いつの間にか分からない完璧を目指している。だから、しんどくなってしまうのだと思います。 もっと勇めるような材料を考えてみたらどうかと思います。私たちは、まだまだそんな段階だと思うのです。
『みちのとも』2022年6月号 ファーストインプレション 言ってる意味は分かりますよ。でも意味が理解できるというだけです。 貴族の遊びかよっ!ってツッコミが入りそうですよ。 会長が自分の教会に点数なんか付けられるとお思いか? 教会の日常は数値化できないもので満ちているんですよ。何故ならそこには人がいるから。泣いたり笑ったり怒ったり。勇んだり不足したり。 猫の目のように目まぐるしく変化する心を持つ、不完全な生身の人間が集う場所だから。 毎月の御供、別席者数、帰参者数、年間のようぼく・教人登録者数、月次祭参拝者数、おつとめ奉仕者数、おさづけの取次ぎ数。 それだけじゃ計れないものってありますよ。 修養科に行くことを夢見て、日参を心定めし欠かさず実行しても、突然配偶者が病に冒され、断念せざるおえなかった方。 仕事の関係で月次祭に参拝できず、それでも必ず翌日には参拝に来てくださる方。 少ない年金の中から倹約をし、毎月感謝の心を添えて二千円の御供を運んで下さる方。 遡れば、手が不自由なためにおさづけが拝戴できなかった方。その方はおさづけの取り次ぎの代わりに十二下りを夜通し何度もつとめられていました。 そんな人々が集う教会に私が点数を付け、加点したり減点したりするなど考えられません。数値化できない世界はあるんですよ。 採点ができるとしたら、それは神様だけです。会長が自己採点などできるものですか。自教会はいつだって100点満点であり0点の落第生なんです。 数値化できないものの中にこそ、大切なものがあるんじゃないかな。と思っています。 ここで、とある婦人会支部長の言葉を紹介しますね。
多くの人が、婦人会の「百万人会員を目指す」という目標が、やる気につながっていない、むしろよく分からなくさせているということを感じていました。 私はしっかりこのことについて向き合おうと決めました。 「天理教婦人会の活動に賛同する人」を現在いる会員の1人が1人を導いたら、単純計算で100万人超えることができるという物事を単純化することで「万人にわかりやすく」と、配慮した目標だったと思います。また、世界中の人に親神様の思いを知ってほしいという熱い思いが根底にあったと思います。ところがそれに、もやもやする人が多くいたのはなぜか? (中略) 近年、日本人が以前のように猛烈に稼ぐより、家族の時間を大事にするようになったり、働き方を見直そうとする背景にも、もっと大事なことに気がつきだしたためと思います。数値を目標とすることは、現在は、人を動かす原動力にならず、人の前向きな「やる気」にはつながりにくいのです。 帰参者予定者数、会員数、お祝い額、お供え額、これらはすべて数値化された「人の真心」の形かもしれません。たくさんの年齢の異なる不特定多数の人をまとめるには、数値化することが正しいようにも思われます。ところが、これだけだと「数値化できないこと」が評価されない、対象外にされることが同時におきてしまうのです。 例えば Aさんは、話し上手で、人をお誘いしたり、仲間づくりの得意な人。 Bさんは、自然保護活動をして親神様の思いに近づこうとしている人。 Cさんは、あたり前の日常のありがたさを実感できる感性をもつ人。 この中で、現在の婦人会活動の中で達成感を得やすい人は、Aさんです。 もちろん、BさんCさんも親神様の描いた陽気ぐらし世界を目指す信仰者ですが、Aさんの世界観とは違うと思います。こういった多様な人たちにも響くようなメッセージがこれからは必要とされると思うので、私は舵を切り直したいと思います。
とある大教会の婦人会報より 確かにここで語られるAさん、Bさん、Cさんの信仰姿勢に優劣はつけられないですよね。でも私はやはりCさんの信仰に惹かれるのです。 それは陽気ぐらしの瞬間をより味わいやすいように思えるからなんです。 陽気ぐらし世界は悠久の彼方に存在する世界ではありません。いつか訪れるであろう夢のような世界などではなく、私たちの日常にそっと潜んでいるものなんじゃないでしょうか。それを見つけ出そうとすることで、私たちはより良く生きられるんじゃないですかね。 陽気ぐらしは数値化されないものの中にこそ在ります。そしてあなたが見つけ出すことのできた瞬間に煌めきを放ちます。 来世で海外布教に駆け回りたいと願ったおばあちゃんのように。 絶望を感謝に変え、幸せを探そうと決意した鈴木さんのように。 ではまたいずれ。
他の記事 『お道の女性について語ろう』
『人間思案んでいんじゃね?』
『その時、神は何をしておられてのか』