この逸話は山澤為造さんが25才の頃のお話です。
僕はこの話がとても好きなんです。
特に「神様はなあ『親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている』と仰っしゃりますねで。」というくだりが。
信仰に引き寄せられている私たちが、等しく神様が待ち受けてくださっていたお互いであることを教えてくださっています。なんと心強いお言葉でしょうか。
信仰初代の方であれば、親という言葉を尊属としての親ではなく、いわゆる”理の親”と置き換えて考えればいいと、私は思っています。
さて山澤為造さんです。今回はこのお言葉をいただいた背景について探ってみます。
為造さんはお屋敷にいんねんの深い方だったのでしょう。若くして教祖から将来を嘱望された方でした。
為造さんに関する教祖のお言葉は、上記の逸話以外にも『天理教教祖伝逸話篇』に多く残されています。
などが収録されています。
まず山澤良治郎さん・為造さん父子の略歴を記します。
山澤良治郎【やまざわ りょうじろう】良助より改名。
天保2年(1831年)2月22日生まれ
(大和国山辺郡新泉村‐現・奈良県天理市新泉町)
元治元年(1864年)入信 当時33歳
明治16年(1883年)6月19日出直し 53才
元治1年(1864年)姉そのの痔の病を助けられ入信
そのは山中忠七の妻
叔母きみは守屋筑前守広治の妻
山澤為造【やまざわ ためぞう】
安政4年(1857年)1月12日生まれ
(大和国山辺郡新泉村‐現・奈良県天理市新泉町)
元治元年(1864年)入信 当時7歳
大正4年(1915年)管長摂行者に就任 59歳
昭和11年(1936年)7月20日出直し 80才
山澤良治郎の二男
妻(梶本)ひさは初代真柱の姉
父である良治郎さんと同じ日に入信ということになっていますが、7歳のこととて、父に連れられ初めてお屋敷に帰った日ということなのでしょう。
お二人が信仰についた元治元年以前に入信していた高弟には
文久1年(1861年) 西田伊三郎
文久2年(1862年) 村田幸右衛門 村田長平
文久3年(1863年) 辻 忠作 仲田儀三郎
文久4年(1864年) 山中忠七(妻その)
といった方々がおられます。
山澤良治郎さんの姉であるそのさんが山中忠七さんに嫁いでおられるので、山中忠七さんは山澤為造さんの伯父ということになります。
元治元年(1864年)父の良治郎さんが入信した当時は7歳だった為造さんですが、幼少時より勉学に興味をもっており、明治10年(1877年)に20歳で堺の師範学校へ入学します。ところが脚気と神経痛を発病したため休学を余儀なくされました。
為造さんが故郷の新泉村で静養していたところ、父の良治郎さんからおぢばへの参拝を勧められますが、長年の無沙汰を苦にし、それを断ります。それでも父の強い勧めによって、意に反しておぢばに帰ることになりました。明治11年の秋季大祭のことです。
おぢばでは伯父さんである山中忠七さんの案内で教祖の御前に進ませて頂きますが、その時、忠七伯父が教祖に対して
「神さま、新泉の良助のせがれ引き出しになりました」
と申し上げているのを聴き、奇妙に感じたといいます。確かにちょっと意味を解しかねる言葉ではあります。
「引き出す」とは、「神様が引っ張り出した」というような意味なのでしょう。
この時は教祖よりかしもののお話、朝夕のおつとめの地歌、お手、節まわしなどを教わり、お息をかけていただきました。
その後少づつ御守護を頂き、明治12年5月頃に復学がかないますが、数日通った時にコレラが流行して学校が閉鎖され、再びおぢばへ帰ってきます。 その後、ようやく学校が再開されるという日の朝、父がコレラのような激しい上げ下しに見舞われます。為造さんは学校へ帰ることを一旦断念し、おぢばに帰って父の容態を告げると、「すぐに連れて来なさい」とのこと。
父子はおぢばで3日間滞在しますが御守護はいただけません。水も喉を通らぬ状態が続きます。
ちなみに、この時、三座のお願いづとめを飯降・山中・村田・仲田・辻という高弟の先生方がつとめてくださっています。
当局の取り締まりも厳しい頃でしたので、それ以上の滞在は望めず、一旦新泉村へ帰ることになります。
翌朝辻忠作さんがお見舞いに来てくださり、そのお諭しによって良治郎さんは神様の御用に専念すること、息子の為造さんは学問の道を捨てて神様の教えを学ばせて頂き、講社結成につとめることの心定めをされます。お願いづとめの後に辻さんからおさづけを取り次いでいただいたところ、夕方から水を飲めるようになり、続いておかゆなども食べられるようになりました。
3日目には為造さんの付き添いでおぢばまで帰らせていただけるようになり、その後全快の御守護を頂かれた後は、毎日手弁当でおぢばの御用をつとめさせていただくようになったということです。
と、ザックリと書いてしまうとこんな感じなのですが、実際には父良治郎さんの身上はかなり重篤だったのです。
旧仮名遣いですので読むのが大変だと思いますが、『復元』にある、父良治郎さんの身上のくだりを部分的に引用しておきます。身上をご守護いただかれた為造さんが、どうにか復学したところからです。
やはり結構な大病だったようですし、教祖はじめお屋敷の人々も、すわ一大事とばかりに真剣にたすかりを願ってくださっている様子がありありと伝わってきます。
最初に子の為造さんに身上をお見せくだることでおぢばに引き留め、その後一旦は復学するのですが、これもコレラの流行によって再びおぢばに帰ることになりました。これは
というお言葉通りの展開です。
その後、父の良治郎さんに障りを付け、当人や子に心を定めさせる。という流れは、まさに
「親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている」
ですね。
山澤為造さんは明治14年(1881年)4月8日に秀司さんが出直された後、真之亮さんの後見人として家事万端の取締りに当たりますが、この時期に頂いたお言葉が、冒頭で引用した
というお言葉なのです。
こうして時系列にそった背景を知ると、このお言葉がより深い味わいをもって胸に迫る気がします。
山澤為造さんは、明治20年(1887年)、31歳で初代真柱の姉、梶本ひささんと結婚され、後に二代真柱の職務摂行者をつとめることになります。
明治41年の一派独立時には52歳。脂の乗りきっていた時期です。教団形成の過程で為造さんが行った改革には首肯できないものもありますが、それを論じるのは今記事の目的から外れるので触れません。
この時代。大正 11年(1922年)の教会長講習会(3/28 ~ 4/2)で当時のエース的存在であった松村吉太郎さんが教勢の倍加運動を提唱します。この年から天理教は急激に教勢を伸展させていきますが、このとき松村さんが56歳。為造さんは10歳年長の66歳です。倍加運動の是非はさておき、天理教の端境期に教団の重鎮として、天理教団の方向性を決定する存在の一人であったのは間違いありません。
その後の動きを振り返ると、
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災。
大正13年(1924年)中山正善旧制大阪高等学校に入学19歳
大正14年(1925年)4月23 日、成人に達した中山正善の管長就職奉告祭が執行されます。その後新管長の主導で教義及史料集成部が創設され、天理外国語学校、天理幼稚園、天理小学校が開校し、天理図書館が設立されました。まさにイケイケの時代だったと言えます。
このように、新管長が教団行政の舵取りを確立するまでの 10 年余り、山澤為造さんは職務摂行を担ってきたのです。
この当時のことに興味のあるマニアックな方は、『見限ったのか見限られたのか』をご覧ください。廣池千九郎博士を軸に書いております。
ともあれ、身上をいただかれ、明治11年の秋季大祭にお屋敷に帰り、
「神さま、新泉の良助のせがれ引き出しになりました」
と聞き慣れない言葉で教祖に紹介された為造さんが、明治14年頃には
「神様は、いんねんの者寄せて守護して下さるねで。『寄り合うている者の、心の合うた者同志一しょになって、この屋敷で暮らすねで』と、仰っしゃりますねで」
とお言葉をいただき、さらに明治14年頃、
「神様はなあ『親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている』と仰っしゃりますねで。それで一代より二代、二代より三代と理が深くなるねで。理が深くなって末代の理になるのやで。人々の心の理によって一代の者もあれば二代、三代の者もある。又、末代の者もある。理が続いて悪いんねんの者でも白いんねんになるねで。」
と噛んで含めるように諭され、
明治16年には
「神が、一度言うて置いた事は、千に一つも違わんで。言うて置いた通りの道になって来るねで」
と念を押された方です。
教祖のお言葉を信じて、
「親にいんねんつけて子の出てくるのを神が待ち受けている」
との神意を体現された方だったのだと思います。
おぢばに参拝したくなかった為造青年が、身上を通して神様に待ち受けていただいていたことを知り、父親の信仰を継承してお道の王道を歩み、ついには管長の職務摂行者となる。
学問を志していた頃の為造少年にとっては考えもしなかった人生だったことでしょう。
でも私たちだって、その人生は十人十色の波瀾万丈だったりするわけで。
やはり神様に待ち受けてられていたお互いなのだと思いたいものです。
山中忠七さんが為造さんを
「神さま、新泉の良助のせがれ引き出しになりました」
と教祖に紹介されたように、私たちも神様によって引き出されたのじゃないでしょうか。そう信じて歩みたいと僕は思っています。
よって件のごとし。