結 おさづけと祈り
「おさづけと祈り」、「続 おさづけと祈り」に続く第3弾です。
前回、前々回と、腕や手指に障害のある方がおさづけの理を拝戴できないケースについて書いてきました。
すると、嬉しいことに盟友のIKKENさんが、本部では現状どのように対応しているかを関係者に尋ねてくださり、得た回答を僕に知らせてくれました。これは非公式なものであって、本部の回答ではないことをご承知おきください。
今回はその質問と回答を読んで思ったことについて記します。
おさづけ拝戴はゴールではない
まずIKKENさんが本部関係者に送った質問の要旨です。
1.手指の欠損等によっておさづけの取次に支障をきたす方は、おさづけの理を拝戴できない、という話を聞きますが、拝戴が叶わない基準は明文化されているのでしょうか?
2.聴覚障害者や聴力障害者、あるいは精神的な障害によって、神様のお話をしっかり取り次げない方などは拝戴でるのでしょうか?
全盲目の方が昨年おさづけを戴いたことは承知しております。
3.上記のようなケースを含む一定のルールブック的なものがあるのでしょうか?
以上の質問に対する本部関係者の回答は、
とのことでした。
意外だったのは、過去に僕が見聞きしていた状況よりも、かなり柔らかな対応が行われていることでした。少なくとも、30年ほど前に比べて随分柔軟な対応が行われている印象を受けました。
IKKENさんは
「おさづけの取次は相手があってこそ。という事に思いを馳せることができた」
と言いいます。
そこですよね。どうやら僕にはその視点が欠けていたように思います。
しかし、生来しつこい性格のBe+は尚も考えてしまうのです。
現状、障害のない方であれば「おさづけの理を頂戴してたすけ人として道を歩みたい」という熱意や信仰心などの心の部分について、ほぼほぼノーチェックでおさづけの理を拝戴できてしまいます。なのに障害がある方に限っては面談やチェックが行われる、ということにモヤモヤしてしまうのです。「教祖ならどうなされるだろう?」と考えてしまうのです。
強調しておきますが、僕は「障害のある方の信仰心やたすけ心を審査するのを止めてほしい」と強弁したいのではありません。前掲の回答を読んでからは、むしろ逆だと考えています。
つまり、障害の有無にかかわらず、おさづけの理拝戴を願い出るすべての方を等しく審査するべきではないかと。
そしてここが肝心なのですが、僕が敬愛するIKKENさんはいみじくも言いました。
「障害を持たず、ただただ九度の別席を運んでようぼくになった方に対しては、会長さんや導いた方による事後の細やかな丹精が必要である」と。
「おさづけ拝戴は決してゴールでは無く、あくまでもスタートに過ぎないのだ」と。
慧眼です、IKKENさん。
以前に『別席制度がもたらしたもの』で書いたように、かつては別席を運ぶための試験があった時期や、おさづけ拝戴前に厳しい試験を通過しなければならない時期もありました。更には、面談によって信心の確かさが認められなければ戴けないこともあった。その頃に比べると、今ではおさづけの理の拝戴が格段に容易になっています。
ならばこそ、事後の丹精が大切なのは自明の理というもの。
名ばかりのようぼくを作りだし、真のようぼくへと育てることを怠っていては、おさづけの理そのものと、障害によっておさづけの理を戴けなかった方に対する”冒涜”の誹りを免れない。
人を救ける心は真の誠一つの理
教祖は
との親心から、広くおさづけをお渡しくだされるようになりました。「今からたすけするのやで」というお言葉をにこもる切なる思いを反芻する時、おさづけの理拝戴を望む者の身体的・精神的な条件は限りなく緩和されて然り、なのではないかと思うのです。
また、おさづけの理拝戴時に下附いただく『おかきさげ』には
と、ようぼくの心構えをお示しくださる重要な一節があります。このお言葉は、”人を救けたいと願う真の心の誠は、親神による不思議な救済を現出させる”ことを高らかに宣言するものです。
と考えると、やはり「おさづけの理」は障害の有無にかかわらず、それを希求する多くの方に、あまねくお渡しいただきたいと思ってしまいます。
そして同時に、「おさづけの理」は病める方々に取り次がせていただくことで、初めて、「おさづけの理」として本人の身につくのだと、改めて認識した次第です。
取り次ぎ方に拘ることの是非
ここで、お叱りを覚悟でおさづけの取り次ぎ方に関する私見を述べます。
現在天理教を信仰する方の中には「おさづけの理」を拝戴していながら、一度も人様に取り次がせていただいたことが無いという方が大勢いらっしゃいます。
おさづけの取り次ぎで最も大切なのは、その方に救かっていただきたいという誠の心です。取り次ぎ方の作法のようなものに拘るあまり、目の前に苦しむ方がいるにもかかわらず、おさづけの取り次ぎに二の足を踏んでしまい、「何もすることができなかった」と後悔した経験を持つ方は多いのではないでしょうか。
でも親神様・教祖は、その方の住所も年齢も病気の種類もすべてご存じのはずです。作法や願いの筋などを知らないからと、せっかく与えていただいた、人のたすかりのために祈る機会を逃しては本末転倒というもの。
作法通りに行えなくても、人様に救かっていただきたいという誠の心さえあれば、決しておさづけの理を軽んじるものではないと僕は信じています。そして親神様も必ず働いてくださいます。
いつも言うように、神様はもっと大らかですよ。
おさづけは取り次いでなんぼ。なのです。
結に代えて 教祖の片腕として、手足として
最後の最後にしつこく言っておきたいのですが、『おさづけと祈り』で書いたように、腕や手指の欠損やその他の障害によっておさづけを戴けなかった方も、お願いづとめなどで病に苦しむ方のたすかりを真剣に祈れば、おさづけ同様のご守護をいただけると僕は信じております。
身悶えするほどに「おさづけの理」の拝戴を希求した方が、身体的ハンデキャップによってそれを阻まれてなお、心倒すことなく他者のたすかりを願って祈るその心を、親神様はきっと嘉されていることでしょう。教祖も目を細めて喜んでいらっしゃる。私たちの真実の親がそれを見落としたりするものですか。
神様は
と仰せられます。
たとえ様々な身体的・精神的障害を持っておられたとしても、またそれによっておさづけの理を拝戴できなかったとしても、その方々がこれらのお言葉を体して人だすけに邁進しているならば、教祖の片腕として、あるいは手足としてお使いいただいていることに他ならないと思うのです。
すなわち、腕や手指やその他の障害があったとて、教祖の片腕や手足に成り得るのだ。ということを声を大にして言いたいのです。
その姿は、ようぼくに比してなんら引けを取ることのない、教祖道具衆としての具体を現しているのではないでしょうか。
おさづけを戴けなくて肩を落としている方がいらっしゃるなら、どうか、どうか、誇りと自信をもって目の前の病める方に向き合っていただきたいと切に願っています。
というお言葉は、まさか肉親間に限ったものではないでしょう。
そう僕は信じています。
さて、3回にわたって「おさづけの理」について書いてきましたが、前回紹介した熱心に道を歩む若い友人の
「別席でしっかりお道を理解し、心にハッピをしっかり着ることができていれば、おさづけは皆が貰えたらいいのに」
という言葉を再掲して、このシリーズを終えたいと思います。
この言葉は「おさづけの理」拝戴の要件と、それを用いる者の心の在り方を端的に表しているのではないでしょうか。
「心にハッピをしっかり着る」
って、真剣に考えたら超絶高いハードルですよ。
でも、これこそがようぼくの絶対要件のような気がしております。
よって件の如し。ではまたいずれ。
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