見限ったのか見限られたのか
前回、廣池千九郎博士について少し触れましたが、この御方、調べれば調べるほど誠実というか真摯というか、立派な方だったのは間違いないようです。最後は教団から離れ人モラロジー道徳教育財団を創設しますが、天理教に深く関わった時期は誠実さゆえの悲哀と絶望を味わった方なのではないでしょうか。そんな想像もしてしまいました。
廣池千九郎博士と天理教団の関わりについては気鋭の史学博士、櫻井良樹さんが多くの論文をものされております。今回はほぼこの方の論文を参考にさせていただきました。
ここからは廣池博士と天理教の関わりをチョー簡単に記してみます。
廣池博士は初代管長(初代真柱)中山眞之亮から絶大な信頼を受けていました。
大正2年には初代管長中山眞之亮の居間に招かれ、本部員ですら見たことのない教祖直筆のおふでさきと、ご帰幽翌日の教祖のお写真を見せてもらっているほどです。
また
との記録があり下記のおさしづ(刻限話)がそれを予言したものと言われています。
さて、廣池博士が天理教の教理体系整備に深く関与した理由の一つに
というものがあります。
え?教祖の尊皇愛国の精神ってどゆこと?
と思いますよね。「世界いちれつ兄弟。すべての人間は平等で雌松雄松の隔てはなく、天皇もその祖先も私たち百姓も同じ神の子」っていうのが教祖の教えだったはずなのに何故?
まあ、ざっくりと言ってしまうと、明治末期から昭和初期のお道は「尊皇愛国」派だったんですよ。ご存じの方も多いと思いますが大人の事情で。
だから「天皇もその祖先も私たち百姓も同じ神の子」っていう教えは保管庫の奥に大切にしまってあったんです。いつでも取り出せるようにしてね。
で、苦渋の決断によって明治42年発布の諭達で戊申詔書(ぼしんしょうしょ)を実行すべきこと、教育勅語の奉読を行なうこと、感化院を設立すべきことを指示し ています。
戊申詔書?教育勅語?なんなんそれ?ですよね。
聞き慣れない戊申詔書の一部を転載しますね。
簡単に言うと、
「皇室を中心に全国民が一体となって働き、て国運を発展させ、列強に伍してきましょう。私(天皇)の思いを我が心として頑張っておくれ。」
みたいな感じでしょうか。
天理教は明治41年に一派独立はしたものの、まだまだ国に気を遣わなきゃいけなかったんです。お道の上層部は国の理不尽さと怖さを身をもって知っています。おつとめすら許されなかった厳しい迫害干渉を受けた暗黒時代に、いつ何時引き戻されるかも知れないという恐怖は、当事者なら抱く自然な感情だったと思います。
時代が尊皇愛国なら、とりあえずお道もそこに寄せていかなければなりません。
なので廣池博士が当時のお道の在り方を見て
と「天理教サイコー!」という印象を持っても不思議ではないわけです。
そんなわけで、ある時期、廣池千九郎博士と天理教団は相思相愛の仲だったのです。ただし、忠君愛国主義が廣池博士の「本気(本気と書いてマジと読む)」だったのに比べ、教団は「世界いちれつ兄弟。雌松雄松の隔てはなく、天皇もその祖先も私たち百姓も同じ神の子」という教祖の教えの核心部分を保管庫の奥に隠し、国家への忠誠(尊皇愛国)を装っていただけでした。なので廣池博士に対しては不実であったと言わざるを得ません。
これは博士の誠実さに対する罪ですよ。本当に申し訳ないっす。ていうか、廣池博士と天理教団で根っこの部分がまったく違うのに、教団としては上手くやっていけると思ったのでしょうか。とにかく高名な知識人を引き入れたかっただけなのではなかったかという疑問が残ります。
一応確認しておきますが、尊皇愛国が悪いわけではありません。当時も今も天皇を敬い国を愛することは、天理教の信者であってもさほど抵抗なく受け入れられる思想・・・というよりも道徳のようなものですよね。(主義思想を異にする方はごめんなさい)
さて、私は廣池博士が果たした役割と功績は教団の歴史から考えても、とてつもなく大きなものでした。
天理教の本部を訪れた明治45年(1912年)12月から昭和8年(1933年)までの約20年間を、あらん限りの熱量をもってお道に尽くした方でした。本部に招聘されたのは天理教が悲願の一派独立を果たした直後のことであり、教理も体系化されていない時代です。
廣池博士は天理教の教育顧問、天理中学校長にとどまらず、天理教の教理体系整備の基礎を作り、みずから講を立ち上げ実際の布教活動を行い、またお道の上での弟子も育てています。特筆すべきは
大正4年(1915年)には、天理教信者の男女職工を教内に広く募集したいと『道乃友』誌上で訴え、
とあるように、紡績工場内に宣教所まで作っているところです。
さらには三年半の間、全身不随で寝たきりの婦人の「おたすけ」の話しも天理教勢山支教会矢納幸吉会長の日記に残っています。
廣池博士は決して文弱の徒ではなく、実動にも優れた方でした。
また、前稿の「前生のいんねん」って何なん?でも書きましたが、現行の『天理教教典』の基礎を作ったとも言われています。
のっけから華々しい活躍をそし、教団には無くてはならないと思われた廣池博士なのですが、大正3年(1914年)12月31日、初代真柱中山真之亮(新治郎)の死によって教内での後ろ盾を失い、翌大正4年(1915年)1月12日の管長追悼講演会でついにやらかします。
と講演し、教団首脳の応法派(迎合派)の反発を招き教育顧問と校長を退きます。
当時の教団はというと、翌大正4年(1918年)年6月に教団の大黒柱であった松村吉太郎幹事が一派独立に関する収賄事件で逮捕され、このあたりから教勢に翳りが見え始めます。この沈滞は大正7年頃まで続きます。
大正7年に初代管長の遺児、中山正善の天理中学校へ進学し、これを契機に教団に新たな変化がおこります。
増野道興、山沢為信、喜多秀太郎が青年会の世話役を命ぜられ、10月25日 には天理教青年会が創立されます。
青年会の創設は若い力を結集してお道を発展させる尖兵となり、将来、中山正善を補佐する体制を準備するためのものでもありました。
またすでに創設されていた天理教婦人会は新たな事業として大正8年1月27日に婦人会創立10周年を記念して「本教女子教育の第一歩」として、天理女学校の開設を決議しました。天理女学校は6月2日に松村吉太郎校長、諸井慶五郎教頭が任命されます。
また大正8年10月30日に、朝鮮に天理教教義講習所を設けることが認可され、海外布教の新時代が幕を開けます。 天理教団は沈滞から抜け出し、新時代を迎えようとしていたのです。
一方、大正8年前後の廣池博士がどのような活動を行なっていたかというと、
廣池博士は明らかな疎外感を味わっています。また大正8年後半から大正10年までのほぼ2年間、天理教と特別な関わりを持ってはおらず、教団の自分に対する態度についての記録も残しています。
しかしこの後、大正11年に廣池博士と教団との関係が復活します。
甲賀詰所員の山崎留次郎からの書簡が届き、廣池博士が教団に無断で本島で静養していることに対して本部が非難していることが書かれていたため、急ぎ天理教本部へ行って弁明を行います。
謝罪文で無断で本島に滞在していたことと、大祭に参拝しても本部の幹部のところへ挨拶に出向かなかったことを詫び、「今後の処はすべて御差図に従ひ、住処旅行共に、一々御本部と幹事様とに御届可仕事」とまで記しています。
ところが本部による叱責は、この時期に教団が広池を必要としていたからなのでした。弁明の席で教団側から「新たに教校へ教理仕込みを依頼せら」れており、松村吉太郎幹事と面談し以下のことが取り決められています。
廣池博士が凄みはその都度我が身を省みて一点でも瑕疵があれば素直にさんげするところなんです。
病身でありながら教団に対して不惜身命を貫いた廣池博士に対して、教団のとった態度は冷淡であり、都合の良い時だけ利用してきたようにも見受けられます。それでもいじらしいまでに反省するのです。それこそが廣池博士の真骨頂であり、凡百の天理教人が及ばぬ所以ではないかと感じます。
さてここからは櫻井良樹博士の『大正時代中期の天理教と広池千九郎』からかいつまんで記します。
廣池博士は大正10年の10月まで天理教本部に滞在しますが、9月15日に「教校の職員になってくれまいかとの相談」を受けます。
教団のラスボスこと松村吉太郎の信任も厚かったことがうかがえますね。
廣池博士は「教理研究こそが前管長から自分にまかせられた仕事である」と話し「客員」として奉仕することを松村氏に了承されています。
大正11年2月には、翌月開催される「四十年祭に関する講習会」で山沢、松村、板倉が講義する原稿の訂正を命ぜられたり、25日には前管長夫人より中山正善の大学進学について相談を受け、歴史学に進むことを薦めたりしていますので、要人からの信頼は非常に篤かったと思われます。
同年7月4日に松村氏を訪問した際には廣池博士のために勾田(天理市内)に新たな住居を設け、講を開くことも許されています。その資金の一部は、山沢為造および前管長夫人より援助されています。
また廣池博士自身も大正11年3月24日には四十年祭のお供えを天理教本部と勢山支教会に百円ずつ行なっています。
さて昭和初年に(1926年)になると天理教に対する廣池博士の視線に大きな変化が生じます。恐らくは廣池博士はもっと以前から色々なことに気づいていたのだと思います。
たとえば天皇中心の国家を理想とする廣池博士の思想と、天理教の「人類はすべからく神の子として平等である」という教えとの折り合いは博士自身がつけていたと思うのですが、その限界を感じたのかも知れません。
まず簡単に大正末期から昭和初期までの出来事を記します。
大正 11年(1922年)教会長講習会(3/28 ~ 4/2)で松村吉太郎が倍加運動を提唱。この年から天理教は急激に教勢を伸展させていきます。
この時、中山正善17歳
大正12年(1923年)9月1日、関東大震災。
大正13年(1924年)中山正善旧制大阪高等学校に入学19歳
大正14年(1925年)4月23 日、成人に達した中山正善の管長就職奉告祭執行。新管長の主導で教義及史料集成部が創設され、天理外国語学校、天理幼稚園、天理小学校が開校し、天理図書館が設立された。
新管長が教団行政の舵取りを確立するまでの 10 年余り、山澤為造が職務摂行を担う。
治安維持法が公布され、政府による思想統制は強化の方向へ。
大正15年(1926年)教祖40年祭執行
二代真柱、東京帝国大学文学部宗教学宗教史学科入学21歳
昭和3年(1927年)4月26日、注釈付「おふでさき」公刊(4~8月、全5冊)。11月『おふでさき講習会録』発行。
11月27日増野道興氏(敷島大教会長)死去39歳。
昭和4年(1929年)二代真柱帝大卒業24歳
1月21日 廣池博士、教導職辞職願いと神恵講返納願いの手続き
1月24日 廣池博士、教導職辞職聴許、神恵講返納受理
廣池博士天理教を離脱
昭和9年(1934年)神殿改築、南礼拝殿完成。
ざっとこんな感じでしょうか。
大正末期に廣池博士は教団本部に対して提言を行っています。
松村吉太郎幹事から大正14 年4月23日に予定されている「新管長襲職式」で新管長が発する諭達を起草してくれるよう依頼された時のことです。
と、教祖の精神を体得して教理の実行に励むことと、いたずらに施設の整備や教団内での地位の昇進を目指すのではなく人心救済に尽力することが必要だと述べられています。
櫻井博士は「ここに述べられていることは、かつて大正四年に広池が故管長追悼講演会――天理中学校長辞職の原因となった――で提案した天理教の改善案の趣旨と同じである。そこでは、『病助けは目的にあらずして人心救済が目的なり、故に恒久的道徳心の養成に力を注ぐ事』『御助は御道の目的にして、教庁・支庁・事務所・詰所の事務は、之に伴随する副事業たるのみ、本末を顛倒せば御道にあらず』『講社を争ひ名称を争はず、且急がず自然を待つ』などと述べていた。広池の天理教改革に対する思いは大正末の時期まで一貫していたと言える。なおこの『諭達の別紙』が、教団側でどのように扱われたかについては判明していない」と述べています。
また
と、倍加運動による教団拡大指向で資金需要が増し、それに伴う無理な御供の要求が天理教を危うくすると警告を発しています。
御供の問題に踏み込んだことで、いよいよ天理教との決別を覚悟したかも知れません。この後、弟子や導いた者たちの御供えに起因する苦労と貧困を目の当たりにし、ついに天理教から離れることを決意します。
二代真柱中山正善が帝大宗教学科の実証主義的宗教学をひっさげてデビューし、教団トップとして同門の後輩を重用する中で教勢も増し、組織が整備されていきます。しかしその陰には命じられた資金集めに苦しみ疲弊する会長や信者たちが血の涙を流していたのです。
そうした教団の姿は、かつて病める廣池千九郎博士の心に染み入った勢山支教会矢納幸吉会長の信仰とはまるで別のものに見えたのかも知れません。
ここまで書いてきてあらためて思うのは、当時の教団の指向性が現在でもなんら変わっていないということです。大人の事情で受け入れた尊皇愛国主義を強要されない今も、拝金指向は常態化しています。そして貴重な人材はどんどんお道から離れていっています。
廣池千九郎とならび、ある時期の天理教をリードした増野鼓雪こと増野道興氏は廣池博士の教団離脱に先立つこと1年前に亡くなっています。
二代真柱が筋金入りの実証主義だったのに対し、増野はその対極に位置する神霊(神秘)主義でした。不和も囁かれていました。
二代真柱の東大宗教学閥実証主義が主流となる以前のエースであった増野鼓雪の思想が、瞬く間に傍流に追いやられていったことは想像に難くありません。
増野が教団の信仰、思想の上に残した偉業は数知れません。しかし廣池博士同様、教団史の表面から意図的に削られたとしか思えないほどに、その痕跡は残されていません。
二代真柱が実質的な教団トップに立った時期に、奇しくも廣池千九郎博士は失意のままに教団を去り、増野鼓雪氏は世を去りました。
これは一見お二人が天理教から見捨てられたようにも思えますが、実は教団がお二人に見限られた、ということのように感じます。
廣池博士と増野鼓雪もまた不仲だったと聞きます。けれどもこの二人には共通するものがあります。それは節を曲げない強靱な意志です。
残念ながら我々の教団は「変節」します。廣池博士と増野鼓雪は教団の変節が許せなかったのではないでしょうか。
もう待ったはききません。数字や金にこだわる教団に変節したが故に散逸するものは「本当に有用な人材」であることを歴史が証明しています。そして今もその散逸は続いているのです。
最後に、出典不明ながら板倉槌三郎さんのお話しを引用して終わります。
明治9年(1876年)生まれでバリバリの教祖直弟子の言葉を、今こそ教団は襟を正して傾聴するべきではないでしょうか。
ではまたいずれ。