続 おさづけと祈り
『おさづけと祈り』の続編です。
まず断っておきます。僕はおさづけに関して、それを渡す方の正統性について論じるつもりはありません。過去に様々な角度から調べ尽くした結果、自分なりの答えを得たからです。上田ナライト様以降のさづけを渡す者の選定がは神意に基いていないが故に無効である。という見方もありますが、そこにさほど意味は無いという結論に達しております。僕の信仰の深部に根ざすものから解を得ておりますので、異議を唱えられたとしても争いようがありません。
また、別席については過去に『別席制度がもたらしたもの』で書いておりますので、そちらをご覧ください。
さて前回、腕や手の指の欠損のある方がおさづけを拝戴できないことについて書いたのですが、早速ご親切な方がTwitterでにんにくやしろさんのアメブロの記事を紹介してくれました。
そこには、両手のすべての指を欠損している方が、三代真柱様の親心によっておさづけを拝戴できたということが書かれていました。
そうした事例がこれまでにもあったことは承知していました。事実、僕が尊敬する先輩教会長さんがそうでしたから。
こうした類いの話を耳にした時、若かりし頃の純情で素直な僕はとても感動し、まさに涙滂沱として禁ぜず、状態でありました。
でも年齢と信仰歴を徒に重ね、人生の酸いも甘いも噛み分けすぎて味覚障害を起こしてしまっている今は「これって美談にしてしまっていいのだろうか?」という疑問を抱いております。
以下に、にんにくやしろさんの記事を引用させていただきながら、僕が思っていることを書きます。ですが、この記事は、決してにんにくやしろさんを非難するためのものではないことをご理解ください。
すべての指を欠損していた方が、修養科修了間際のおさづけを拝戴する段になった際のくだりです。
この措置が、おさづけ拝戴の叶った当人にとってどれほど嬉しいいことだったでしょう。欣喜雀躍し、真柱様の暖かい親心に包まれ感涙にむせぶ姿を想像した時、涙腺が崩壊しそうになります。
でも、既にすれっからしになってしまった僕は考えてしまうのです。
この方の場合は、当時の修養科の組担任と修養科主任が信仰の何たるかを知悉し、かつ人間性に優れ、加えて心意気のままに行動できる方々だったからこそ、真柱様にその声を届けることが出来たのだと思うのです。いわばレアケースであると。
ならば、同様の障害を持つ方で、不幸にも周囲にそうした方がいない場合はどうなるのかと。
こんなことを書くと、たちまち
「それが神様の思し召し」
「それが因縁」
「それが今世で通らなければならない道」
などと言われそうですね。
前出のにんにくやしろさんのアメブロにも
と記述されています。
これは天理教の公式WEBサイトに
と、にんにくやしろさんの記述を裏付ける公式見解が明記されていますので、決して彼独自の勝手な悟りではないと思われます。
であるならば、別席を勧める前段階で、腕や手指の欠損のある方に対して、
「あなたの場合はおさづけを戴けませんが、真柱様の親心によって戴けることもあります」
「戴けない場合は、残念ではありますが、別席順序を運んで心の生まれ代わりをして、来世に戴いて下さい。生まれ代わり出代わりを繰り返してこの世に出直し、心の成人を重ねると言う、天理教の教えの真髄ですので」
と明言するのが親切というもの。
けどね、僕たちは腕や手指のみならず、身体的身上や障害を持つ方に、何とかしてたすかってもらいたい。いや、あらゆる身上事情をご守護いただきたいという気持ちと共に、「人間が陽気暮らしをする姿を見て共に楽しみたい」という親神様の御心を知っていただき、生きる喜びと共に、人のたすかりを願って歩む人になって貰いたい。運命を変えていただきたい。という思いから別席を勧めるわけですよ。
そして様々な苦しみを抱える当人たちも藁にも縋る思いで別席を運んでいるということも多いのです。別席によって自分が変われると信じて。
大きな声じゃ言えないけど、小声では聴こえないからはっきり言いますが、僕なんか学生時代に集団で強制的に別席を運ばされ(ごめんなさい。ヒドい表現ですが事実なんです)、真面目に信仰しようなんてこれっぽっちも思っていないうちに九度の別席を終え、願ってもいないのに(これもとんでもなくヒドい表現ですね)おさづけを拝戴しました。これは今にしえ思えば恐ろしいことですが、こんな僕でも恙なくおさづけを戴けているのです。
でもそれは僕が腕や手指を欠損していなかったに過ぎません。
「イヤ違う。親の徳があるから拝戴できたのだ」とか言うのはナシにしてくださいね。おぢば管内の高校生のほぼ全員がそうしておさづけを拝戴するのですから。全員に親の徳があるとは僕には思えない。
「神様から期待を寄せられていたのだ」
とかもナシね。今はそこを論じているのではありませんので。
僕が言いたい・・・いや、問いたいのは、おさづけが拝戴できる身体的基準が規定として存在するなら・・・分かりやすく言うと、人間が決めた基準があるならば、それを改めることも可能ではないか?ということなのです。
なぜならば、前出のすべての指を欠損されている方が、
「あなたの真実誠の心を見届けました。何日に授けてやるからおいで」
と、三代真柱様の親心によっておさづけの拝戴が叶ったという事例は、「真実誠の心」は、腕や手指の欠損というおさづけ拝戴不可の規定を吹っ飛ばす、ということの証左だと思うからなのです。
僕は、おさづけ拝戴に当たって最も大切なのは「真実誠」の心であって、身体の一分が欠損しているか否かではない。身体的理由で判断することが、果たして親神様・教祖の思いに叶っているのか?ということを声を大にして言いたいのです。
教祖がそうしなさいと仰ったと言うなら、その出典を明らかにして欲しいと思います。
また、ここがとても気になるのですが、
「別席順序を運んで心の生まれ代わりをして、来世に戴いて下さいと言われるのです。生まれ代わり出代わりを繰り返してこの世に出直し、心の成人を重ねると言う、天理教の教えの真髄だと思います。」
という文言。なるほどこの言葉は教理的解釈としては間違っていないのかも知れない。
でもこれがお道の信仰の神髄などとは僕には到底思えないのです。
今世は諦めなさい、などと、どの口が言えるのか。僕は絶対に言えない。
教祖が伝えたかった親神様の教えは、そんなにも切なくてやるせないものだったのでしょうか。
先天的、後天的にかかわらず、身体に障害を持つ方を、二度までも奈落へ落とすことなどあって良いはずがない。
僕たちの教祖なら、その方の心根を見定めて判断されたはずです。お道の教えの根底に流れる暖かさは、すべてが教祖から僕たちに託されたheritageなのだから。
という有名な逸話もあるじゃないですか。お道において、真実誠の心は正義なのです。
僕が言っていることはあまりにも情緒的に過ぎるのかも知れません。それは分かってます。けれども直感や情緒といったものが、規則や規定を遵守するということを超えて、真に正しき道を照らすこともあると思っています。
規則や規定はあくまでも信仰を護るものであって、決して真実込めて道を歩む人々の信仰を阻害するものであってはならない。絶望させてはならないのです。
果たしておさづけ拝戴が許されない身体的障害の基準は規則として存在しているのでしょうか。もしあるとしたなら、可及的速やかな改正を強く望みます。
熱心に道を歩む信仰初代の年若い友人がいみじくも言いました。
「別席でしっかりお道を理解し、心にハッピをしっかり着ることができていれば、おさづけは皆が貰えたらいいのに。」と。
泣けましたよ、この言葉を聴いて。
「よおゆうたなあ。その通りやで」と、教祖が手を叩いてニコニコされていらっしゃる姿が目に浮かぶようでした。
人に上下の別は無く、すべからく神の子であると宣言された至高の教えに、人の道に悖ると思われかねない規則や規定など在ってはならない。
僕はそう思っております。
ではまたいずれ。
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writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI