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最後の御苦労 -錦のきれ-

教祖の最後の御苦労の際、第一の高弟と言われた仲田儀三郎さんが共に拘留されました。
仲田儀三郎さんは

元治元年春より扇伺を熱心の人々に渡し給う。頂きたる人々は五六十人もありしと。明治八九年の頃に至りて、すっきり止め給ひ。ふしん一条は大工にまかせ、身上伺は左衛門にまかす、と御咄しあり。御二人丈は伺の御許しありといふ。

「改定正文遺韻」P34【註】

とあるように、ふしん一切を任された本席飯降伊蔵さんと並び、身上伺いについては仲田さんに任せるとまで教祖から信任されていた方です。※(明治2(1869)年に政府は兵衛・助・介・輔・丞・進・右衛門・左衛門・大夫など古代の官職に由来する名前や、国名を使った受領名などを名乗ることを禁止した布達を出しました。このため明治6年頃、仲田佐右衛門または左衛門は仲田儀三郎と改名しています)
教祖は明治19年2月18日から3月1日までの12日間を櫟本分署に拘留されます。これが後に「最後の御苦労」と呼ばれるようになる出来事です。
ことの発端は心勇組がお屋敷の門前にあった村田長平宅でてをどりをしたことにありました。
お道への厳しい監視が常態化している中でのことなので、たちまち官憲が駆けつけて来ました。家宅捜索の結果、御守の中から字が記された布が出てきたため、教祖と真之亮氏そしてお屋敷にいた桝井伊三郎さんと仲田儀三郎さんが大阪府奈良警察署櫟本分署に拘引されたのです。
尋問は苛烈を極めました。教祖はこの時に警官から受けた拷問により、釈放された時には衰弱が激しく、

「耳は聞こえず、目はとんと見えず、という状態であった」

「根のある花、山田伊八郎」P81

 と伝えられています。
一方、仲田儀三郎さんは10日間拷問檻に入れられ苛酷な扱いを受けたことが元で釈放後に病床に伏すこととなり、同年6月22日に出直しています。
出直し直前に伺ったおさしづが残っています。

仲田様御逝去(四月頃より身上悩み六月廿二日に死亡)
 「仲田左衛門様は、明治十九年旧五月の末に、御死去遊ばされ、死去の前、神様に御伺い申上げたる御指図に、

錦(にしき)のきれと、見立てたものやけど、すっかり腐ってしまふた。どんなものもって行っても継ぐにつがれん。どんな大河でも越さしてみせるはずやけど、このたびは小さい河なれど、越すに越されんで』
と仰せられしと。誠に悼ましきことの限りなりけり。すっかり腐ってしまふたと仰有るは、如何なる過ちのありにしや。誠に口惜しき極みにこそ」。

「改定正文遺韻」P112

私はこの
「錦(にしき)のきれと、見立てたものやけど、すっかり腐ってしまふた」というお言葉について、長い間真意をはかりかねていました。なんとも読みのくだらぬ漢詩に悶々とするが如くに。
「腐ってしまった」との表現は仲田さんを指しているのでしょうか。
教祖最後の御苦労に添い遂げるが如く拘留され、事実上の拷問死を目前にした第一の弟子に対しての言葉とはとても思えませんでした。
教内の様々な文献を調べても、このお言葉についてはっきりと解説した記述を見つけることができませんでした。
そんな時、ふと思い浮かんだのが「キンギレ」という言葉でした。
教祖がおっしゃった「錦のきれ」とはキンギレのことなのではないのかと。

錦切(読み)きんぎれ。キンギレ。
①錦(にしき)の切れはし。
②明治維新当時の官軍が、錦旗を擁する目じるしとして肩につけていた錦の小ぎれ。転じて、官軍をもいう。錦片(きんひら)。〔随筆・村摂記(明治初)〕

コトバンク
左肩に錦ギレ

鳥羽伏見の戦いなどで、官軍は敵味方を識別するために錦の布(キレ)を肩につけていたため、旧幕府びいきの市井の民は官軍を「キンギレ」と呼んで馬鹿にしていたという話しを聞きました。
明治という時代が始まり、いまだ不安定な世情ではあっても士農工商という階級制度から解放された世に、教祖は希望を見いだしておられたのではないでしょうか。ところがそのキンギレを付けた明治政府の正体は教祖の教えを否定し弾圧するものでありました。
「腐ってしまった」というお言葉は政府に向けられた無念の現れだったのではないかと思うのです。それならこのお言葉も読みがくだります。
研究者でもない素人の思いつきですので、とんでもない勘違いかも知れません。研究者の方や、このことに詳しい方のご指摘をお待ちしております。

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