おさづけと祈り
今回は短い記事をリリースします。久々にお道の話です。
さて、世の中にはどれほど願っても、おさづけの理を拝戴することができない方々がいます。
仮にケースAとしましょうかね。それはこんなケースです。
●天理教を信仰していない人。
●教会に所属していない人。
●9度の別席を運んで(聞いて)いない人。
まあ、当たり前っちゃ当たり前です。なにせ現在はおさづけ拝戴の必須条件である別席が、厳密に制度化されているのですから。
じゃあ、こんなケースはどうでしょう?
ケースBです。
●腕または手に障害があり、両の掌で水をすくう形を作れない人。※残っている指や残存関節など、厳密な規定があるそうです。
●先天的または後天的に片腕もしくは両腕、あるいは手や指が欠損している人。
他にもあるのかも知れないけど、この2つのケースでおさづけを戴けなかった方々を僕は知っています。それも真摯で熱心な信仰を続けてこられた方たちです。
なんだか切ないですよね。教祖がご在世ならどうご判断されたのでしょうか。きっとその方の心根を見定めて、おさづけをお渡しくださることもあったと想像しちゃうのですよ。
だからそうした現実を目の当たりにすると、「何故だ?」という疑問を抱いてしまうのです。
そして、その疑問に懊悩するたびに、かつて『運命に抗う』で取り上げた桝井伊三郎少年のお話が脳裏を過るのです。
多くの逸話の中でひときわ異彩を放つこのお話が僕は大好きなんです。
当時「神」もしくは極めて「神」に近いお方と認識されていたであろう教祖が、二度までも「救からん」と仰っています。これはもはや神様からの余命宣告ですよ。それは医者の言葉よりも重かったと思うのです。
でも伊三郎少年は諦めなかった。
片道約5.5Kmの道のりを徒歩で2往復半、計27.5Kmを歩き通し、教祖に「そこを何とか!」と押して三度願ったのです。
その真実の心を教祖は嘉されて、奇跡をお見せくださいました。
僕はこの逸話が内包する「奇跡のカタチ」のようなものに、深い感動を覚えました。
おさづけを取り次いでいなくても、心の誠を神様が受け取ってくださり、身上をご守護くださることが証明されたのですから。もちろん、レアなケースかも知れませんが、教祖が現し身を隠されて以降、そうしたご守護のカタチが一度もなかったとは、決して言い切れないと思うのです。
実際に僕の親しい友人はおさづけを戴いていなかったけれど、命が尽きてもおかしくない病に冒された弟のために必死に祈り、奇跡的なご守護をいただいています。
「そんなのは偶然だ!」と仰る方もいるでしょうが、そうした現象を偶然と断定することは、逆に神様の不思議なお働きを否定することになりかねない気もしますけどね。
結論的に言うと、ケースBの理由でおさづけを戴けなかった方も、いや、もっと言えばケースAの方だって、誠心をもって真剣に病に苦しむ方のたすかりを祈れば、おさづけ同様のご守護をいただけると僕は信じております。
だから、何らかの理由でおさづけを戴けなかった方も、どうか肩を落とさず、自信を持って身上の方に向き合ってください。
なんたって僕たちには最強のツール、「おつとめ」があるじゃないですか。
あ。僕がおさづけの理を軽んじていないことだけはご理解くださいね。
親神様も教祖も、天理教を信仰している我々や、天理教団のためだけに存在しているわけじゃありません。だって全人類の親なのですから。
蛇足ながら「道の路銀」って言葉は、決しておさづけだけを指すわけじゃありませんからね。でも今回はそこには触れません。またいずれ書きます。
※指の欠損があっても、真柱によってその方の心根を見定められ、おさづけを拝戴された方もいらっしゃることを最後に付記しておきます。
(しまい)
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『続 おさづけと祈り』(おさづけその2)
『結 おさづけと祈り』(おさづけその3)
writer/Be weapons officer
proofreader/N.NAGAI