そのとき神は何をしておられたのか
不条理な死
1995年(平成7年)1月17日、阪神淡路大震災という未曾有の災害で大切な人を失った。善良で慎み深い親友だった。
それ以来、ことある毎に震災をはじめとする様々な自然災害について考えてきた。多くの罪無き人々が命を失った不条理を到底納得できなかったからである。
そうした中、16年後の2011年(平成23年)3月11日(金)14時46分18.1秒に発生した東日本大震災でも近しい人の死に直面する。
これら無差別な出直し(天理教用語で「出直し」は「死」を意味する)にこもる神の思惑とは如何なるものなのだろうか。
阪神淡路の震災後、私は先輩会長さんはもとより本部の先生方にも「神の思惑の在処(ありか)」を尋ねて回ったが、納得のゆく答えを得ることはできなかった。
東日本大震災の際、当時表統領であった上田嘉太郎氏は
「『おふでさき』には、天災は神の残念、立腹の現れだと仰せになっていますが、それは被災した人々にというより、世のありように対する警告と考えられます。難に遭わなかった者も「わが事」と受けとめ、思案し、心の向きを正すとともに、進んでたすけの手を差し伸べることが求められていると思います」
とのメッセージを発した。多くの命が失われたことよりも、未来に向けて心の向きを正すことにウエイトを置くそれは、私が過去に得た回答と同じ論調であった。私は再び落胆した。
教団は、残念、立腹の現れである大災害が、神の目から見て残念な者、腹立たしい者のみならず、生まれたばかりの幼子をはじめ、日々を真面目に懸命に生きている人々にも無差別に向けられた事実をどう嚥下しているのだろう。
だが、私が感じたこの疑問と憤りは、一人表統領の発言に向けたものではない。何故なら、当時天理教団の青年会・婦人会はもとより、『みちのとも』『天理時報』等から発信される言葉は表統領の発言と類似したものであったからだ。
しかし、この震災では津波と福島第1原発の事故という複合災害によって、全国で約1万9600人(関連死を含む)の命が奪われ、2528人の行方不明者を出しているのだ。この凄惨な現実を「世のありように対する神からの警告」という言葉だけで結論づけ、神の思惑に迫らぬのは宗教団体として「不覚悟」の誹りを免れぬと思った。
私には天理教者が
このせかい山ぐゑなそもかみなりも
ぢしんをふかぜ月日りいふく 6-91
かみなりもぢしんをふかぜ水つきも
これわ月日のざねんりいふく 8-58
というお言葉。あるいは「この世は神のからだ(身体)」また「成ってくるのが天の理」等の言葉の縛めから、逃れられないでいるように思える。
それ故、自然災害を「世の在り様に対する警告」と考えることや、「難に遭わなかった者も我が事と受けとめ、心の向きを正す」という反省や未来に向けての歩み方を示すことのみで諒としているのではないだろうか。「神の警告は罪無き無辜の民の命を奪うこともある」という現実から目を背けてはいまいか。
なかば絶望した私は、大規模な自然災害に対する他宗教の見解にその答えを求めた。
それは「神の裁き」か
正統的なプロテスタント教会である「大野キリスト教会」の中澤啓介氏による小論「自然災害をどう受け止めればよいのか『リスボン大震災』に関する啓蒙主義者たちの論争を出発点に考える」に興味深い記述がある。(以下引用して要約)
中澤氏の以上の記述から、ウェスレーの説に天理教における神論との類似を見るが、「神の裁き」と断定するウェスレーにはむしろ潔よさを感じる。時として神は無辜の民の命を奪うということを肯定しているからだ。一方、天理教団は「神の残念立腹」と言いつつも、神が無辜の民の命を奪うということには決して触れようとしない。
キリスト者の誠実と「神の本質」
さて冒頭に記したタイトル、「その時、神は何をしておられたのか」についてである。
リスボン大地震から200有余年を経た1972年2004年12月、スマトラ沖で発生した地震はインドネシア、タイ、ミャンマー、インド、スリランカなどの近隣諸国で20万に及ぶ人命を奪った。驚くべきことに、この後ユダヤ教、イスラム教、プロテスタント、カトリックなどの聖職者が集い「その時、神は何をしておられたのか」というテーマのもと多くのシンポジウムが開かれたという事実がある。
当時シンガポールに赴任していた前述の中澤氏はそれらの集まりに積極的に参加したが、18世紀のリスボン大地震の際に起きた論争同様、中澤氏は満足な答えを得られなかったという。それでも、私には彼らの宗教家としての姿勢は、少なくとも天理教者のそれよりも、はるかに真摯であるように思える。何故なら「その時、神は何をしておられたのか」について議論がなされたという事実は、すなわち「全知全能の神が、何故このような悲惨な災害を見過ごしているのか」という問いかけに答えようとしたことに他ならないからだ。
彼らは気づいていたのだ。万物の創造者であり、歴史をも支配者する神の本質について問われているにもかかわらず、「イエスは悲しむ者と共にいて、涙を流しておられる」などと語ることがごまかしにすぎないことを。
翻って天理教者に「その時、神は何をしておられたのか」を問う誠実な態度はあっただろうか。
「その時、神は何をしておられたのか」を問う行為は、突き詰めて言えば神の本質を明らかにすることでもある。乱暴な言い方が許されるなら「神は時に罪無き人々の命を奪う」ことを肯定することでもある。
これを天理教者が肯定しょうとする時、教団、教会長、一信仰者という立場の如何を問わず相応の覚悟が必要となるだろう。しかし、それは信仰をする上で避けて通ってはならない根源的なテーマであるようにも思う。何故なら、我々の信仰の対象である神そのものについての考証に他ならないからだ。
以下に中澤氏が考える神の本質についての記述を要約してみた。
と論述している。
深く共感できる「神の本質」の解釈である。要約して述べると、神は人間と自然界を創り、それぞれに法則性を持たせ、なおかつ自由度も付与して自律させた。 つまり創造した後は法則性とそれぞれの自由度に成長を委ね、基本的には傍観し、神の視点から捨て置けぬ齟齬が生じた時には速やかに介入する。その介入の際には被造物である人間や自然物の法則性や都合に一切斟酌しない厳しいものとなる。しかし、そこにこそ祈りの余地は発生する。ということであろう。
私にとって、神の本質についての解釈としてはこれまでで最も収まりの良い論である。
介入は神の高次の視点により為されるものだ。天理教で言う「天災は神の残念、立腹の現れ」も、個々の生き方を斟酌されることなく、無差別に与えられる神による介入と解釈できる。つまり、「その時、神は何をしておられたのか」という設問に対する大凡の解は「介入しておられた」に帰することとなろう。
「警告」や「罰」や「裁き」などでは決して無いのだ。そもそも神は「罰を与える」という、極めて人間的かつ人類固有の概念など持たないのではないだろうか。ましてや神は人間のためだけに在るわけではない。神にとってはその瞬間に地層を大きく動かすことが、何にも増して優先すべきことだったのかも知れない。
慎重に言葉を選ばなくてはならないが、敢えて言う。彼らは地球規模での齟齬を修正するために行われた神の介入に巻き込まれたのではないだろうか。そう解釈したとて、二つの大震災で近しい人を失った悲しみや無常感から解放されるわけではない。
しかし燻り続けてきた積年の疑問を解く入り口に立てた気はしている。
(了)