自分が誰なのかわからない。


3児の母の日常はとても愉快だ。
子どもの学校の参観日で、
あるいは保護者のランチ会で、
自分が「誰」のお母さんとして今ここに存在しているのか一瞬わからなくなる時があるのだ。

もしかしたらアルツハイマーの前兆なのかもしれないが。


気さくで明るく、それでいてMartやVERYから飛び出したようなおしゃれなママが多いこの界隈では、「◯◯ちゃんのママ」という呼び方をお互いにしない。

基本的に、相手の名前はちゃん付けで呼ぶ。
年下だろうと年上だろうと、相手が20代だろうと50代だろうとママ友はちゃん付け。

もちろん、それなりにいい年しちゃってるこの私でさえ「えりかちゃん」なのだ。

このシステムは相手との距離感がぐっと縮まるうえに、何より年齢を気にしなくていいのでとても嬉しい。むしろ「さん」付けされると壁や溝を感じてしまうし、ちょっと後ろを向いて泣きたくなるくらいだ。


そんな日常なものだから、保護者の集まりに「◯◯ちゃんのお母さん」としてふんわり参加すると自分が何者なのか把握するのに若干時間を要する。


まず、周りの保護者の顔を見る。
ママ友の顔を確認し、彼女とは以前末っ子と同じクラスだったから今日の私は「末っ子のお母さん」として出席しているのだな、という具合。

これが2児をもつママ友で、我が家の上の子と真ん中っ子両方にご縁がある場合は混乱する。それはママ友も同じらしい。ふたり揃って「今日ってなんの集まりだっけ?」と老後の茶飲み友だちよろしく、とぼけた会話を繰り出す始末。


でも私は、こんな日常を面白く感じる。

長年子宝に恵まれなかったからこそなおさら、「3児の母親あるある」で笑える日々が愛おしくてたまらない。


子どもの頃に思い描いていた、エプロンが戦闘服で家事が大好きな母親像とはずいぶんかけ離れてしまったけれど、今日も私は「えりかちゃん」としてスカートをひらひらさせ、日傘をさしてこの街を歩く。

見覚えのある奥さまに「こんにちはー!」と挨拶されて、サングラスの奥で微笑みながら「今のは誰のお母さんだっけ?」と記憶の引き出しを必死で開けまくっているのは内緒だ。





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えりか
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