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幸運な者たちに勝者はいるが、不運な者たちには勝敗さえない

僕がnoteを書くようになって、そして他のnoterさんの記事を読むようになって強く感じたのは、自分は「ありふれた、ちょっと『不運』な人間」でしかないことだった。

確かに裕福とは無縁だったし、小さな頃は父親が泥酔して暴力を振るうのを恐れ、早く酔い潰れて寝てしまうの待ち侘びたし、父方の親類には症状の程度は別にして精神疾患の割合が多い気がする。それに加え、幼少時の不自然な欠落のある不穏な記憶に不安を感じるし、接触恐怖症でもある。これらを原因別に分類するならば、前者は運に恵まれなかったと言う単なる「不運」であり、後者は他者の「積極的な悪意」である。どちらも考えようによっては「不運」にまとめられそうだが、敢えて分ければこうなる。

ただ幸いなことに、その多くは乗り越えられた。人によってはそれを努力と呼んでくれるかもしれないが、自分から見ればそんなポジティブな要素はあまり無く、とにかく悪環境から逃げ出したい、といった「逃避願望」が主たる原動力だった。

それに対し、noteの中には「積極的な悪意」が原因で不幸になり、その環境から抜け出せない人たちのどれだけ多いことか。「不運」に指向性は無いが、「積極的な悪意」にはそれがある。奴らは狙ってやって来る。一度目を付けられれば防戦一方なので、それ(ら)から逃れるのは難しい。


幸運に恵まれたものたち同士は競い合うことができる。そこには点数差と勝敗が生まれるが、それに一喜一憂する権利が与えられる。楽しむことが出来る。
不幸なものたちには、そんな権利すら無い。そこにあるのは単なる足の引っ張り合いであり、自分は相手よりもマシであるという暗く歪んだ優越感である。世の東西を問わず為政者たちはその効果を知っており、その為だけの身分を作った。それを無邪気に甘受できれば良いが、背後にあるものに気付いてしまえば、どちらにも勝利は無い。


コミュニティのサイズが大きくなりメンバー数が増えるほど、幸運なものの割合は減り、不運なものは増えるように思える。コミュニティのサイズはメンバー間の情報交換の速度に依存していて、現在はインターネットが支えていて、アクセス可能な者たちは瞬時に互いに繋がれる。普段は出会うことのない、さらには出会ったことさえないメンバーの姿を見て、自らと比較する。嘲笑し、安堵し、嫉妬する。

インターネット接続にはその特徴として、繋がっているか、繋がっていないかの 0 or 100 的思考な点が挙げられると思う。リアルとは異なり、細く、緩く繋がる状態は存在しない。接続すれば時間も空間も超え、100%の強度で繋がってしまう。

遠くまで届くと共に、距離感も感じ取れる通信手段であって欲しいと思う。表示順序以外の、全体像を俯瞰しやすい表示は出来ないものか? 例えば、リアルのように遠くは近く、より小さく見える遠近法のような。関係の無いものは見えなくて良い。見えない方が良いものも沢山ある。人間の脳が即座に理解できる表示方法は難しそうではあるが。そして細く、緩く、遠く、そして確実に繋がる情報網は、条件が曖昧だけに難しそうだ。
それを自ら選ぶのがネットリテラシー、と言われてしまえばそれまでだが、大多数の利用者にそれを求めるのは難しいレベルに来ているように思う。

荘子は秋水篇で有名な
『井の中の蛙大海を知らず』
と言っている。そして、
『されど空の深さ(青さ)を知る』
と続きます。しかし、後半は日本であとから付け加えられた一節だそう。
ネガティブなイメージの強い日本人にしては、珍しく良いセンスだなと思いました。


しかし、最初と最後が別の話になっているのは、突っ込んではいけません。


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