エコキャップ運動をどう考えるべきか

1 論点を整理する
 エコキャップ運動とはNPO法人「エコキャップ推進協会」がペットボトルキャップを全国から回収し、売却することによって得た利益をNPO法人「世界の子供にワクチンを日本委員会(略称JVC)」に寄付することによって「ペットボトルキャップをワクチンに換える」運動だと一般には理解されている。
 この運動は昔から様々な批判にさらされてきたが、未だに根絶される気配はなく、地域によっては積極的な運動が続いている。
 私の勤務先でもエコキャップ運動への参加が検討されている。もはや対岸の火事ではなくなった。
 エコキャップ運動を批判する情報はインターネット上に沢山あるが、逆に、エコキャップ運動を推進するページも沢山存在している。両者を見比べて真実を読み取るのは、それなりに骨の折れる作業である。
私は、この運動について論じる際に、重要な3つの論点が混在していることが、議論を混乱させていると思った。これを列挙してみる。
(1)キャップのリサイクルが環境に良いという意味で「エコ」なのか否か?
(2)キャップリサイクルが経済的に良いという意味で「エコ」なのか否か?
(3)エコキャップ運動がワクチンを寄付する方法として適切なのか否か?
もちろん、この3つは密接に関係しているが、分離して論じることができる部分は、できるだけ分離した方が良いと思われる。

2 本質的な部分についての議論
 最初に、資源というもののある重要な側面について指摘しておきたい。それは、濃度と量によって価値が変わるということだ。例えば鳥やコウモリのフンは通常は何の価値も無いが、降り積もり、発酵し、リンが濃縮された「グアノ」に変化するとそれは貴重な資源となる。試しにちょっと検索してみると1kgのグアノが366円で販売されていた。
 これとエコキャップ運動を比較すると、キャップを分離し、集積するのは自然の作用ではない。膨大なマンパワーが導入されているし、輸送の過程でも、リサイクルの過程でも必ずエネルギーを消費し、温室効果ガスが放出される。また、本質的に地表に存在している量が少ないリンと比較すれば、キャップを構成する元素はあまりにもありふれている。価格についてはインターネット上で多く使われている数字に倣うと、1kgあたりのキャップは400個であり、それを「エコキャップ推進協会」が売却すると10円の利益が得られるそうだ(おそらく、ぴったり400個にはならないだろうし、10円の利益というのも変動があると考えられるが、計算しやすい概数なので本稿ではこの数字を採用する)。グアノに比べると随分と薄利多売であり、その分、輸送コストのハンデの割合が大きくなる。この時点で(1)環境的にも、(2)経済的にも「エコ」な活動として成り立たせるのは難しいということが分かるだろう。
 ただし、少なくともキャップの売却がビジネスとして成立している点は重要である。買い取り業者は、お金を出してキャップを購入している以上、その買値以上の利益を生み出しているはずだからだ。リサイクルするにせよ、ただ単に燃料になっている(これは最悪の想定)にせよ、石油や石炭などよりも安いから購入しているはずである。したがって、エコキャップ運動全体の評価はともかく、キャップを売却するというこの部分だけを見れば(1)環境的にも(2)経済的にも「エコ」という条件は多少なりとも満たされているということになる。例えば、燃料にしていたとしても、いきなり石油を燃やすよりも、いったんキャップとして利用したものを燃やして、しかもそれが石油より安いのであれば、確かに条件を満たしていることに注意されたい。
 次に、(1)キャップのリサイクルが、環境的にエコなのかということを考えたい。一般論として、リサイクルには効率が良いものもあれば悪いものもある。効率が良いものの代表はアルミニウムや銅であり、こういうものに比べるとプラスチック類は効率が悪い。リサイクルに必要なエネルギーが大きかったり、リサイクルされた物質の品質が元の物質に劣ったりする。しかし、ペットボトル本体のリサイクルが確立され、(1)環境的にも、(2)経済的にも、エコである状態が確立されている。プラスチックだからと言って切り捨ててしまうのは早計である。(注1)
 このような問題を厳密に議論するためには、洗浄、乾燥、収集、輸送の過程でどれだけのエネルギーが費やされているのかを見積もる必要があり、それをリサイクルする際に使うエネルギー、リサイクルによって節約されるエネルギーと足し引きして答えを出さなければならない。その答えすら、時と場合によって変動する。処理施設の性能によって効率は変わるし、処理施設がどれだけ人口密集地に近いかによって輸送で消費する二酸化炭素の量は変わるだろう。ここまでが(1)環境的にエコかどうかの部分である。
 私がざっとインターネットで検索した範囲では、キャップについてのLCA(ライフサイクルアセスメント)や、それに基づいた議論は見つけられなかった。私はこの問題の専門家ではないので理由は分からないが、ペットボトル本体のリサイクルに比べると、キャップのリサイクルは大きく遅れているのは間違いない。しかし逆に、「リサイクルによってむしろ温室効果ガスの排出量や資源の消費量が増える」という証拠も見つからなかった。
 更に(2)経済的にエコかどうかは原油価格や為替レートの影響も受ける。少なくとも、私がインターネットで検索した範囲において、キャップのリサイクルが2つの意味でエコだと立証している文献も、逆に反証している文献も見つからなかった。おそらく、専門家にとってさえ難しい問題なのだろうと思われる。私はこの問題について、未来に希望を持っても悪くないと思うし、誰かがチャレンジするなら応援したいとも思うし、分かりもしないことを、あたかも事実のように、口にすることがないように気をつけるべきだと思う。ただしそれは、袋を買わせて大規模に集積し、ワクチンに変換するという訳の分からない活動とドッキングさせなければの話である。

 実は、「エコキャップ運動をやるべきか否か」を意思決定するだけなら、(3)ワクチンを寄付する方法として適切なのか? という観点だけが重要なのである。
 エコキャップ運動について最も普及している理解は、
「1kgあたりのキャップが400個であり、それをリサイクル用に売却すると10円の利益が得られる。1本20円のワクチンを寄付するためには800個のキャップを集めればよい」
 というものだ。これを「第1試算」と呼ぶことにしよう。この説明はJVCのサイトに記載されている説明とも合致する。この数字を見て、手間の割には大した寄付ができていないと思う人は多いだろう。
 しかしこの計算には極めて重要な要素が抜け落ちている。それはこの事業に従事しているNPOの人たちの人件費である。エコキャップ推進委員会の役員は毎月35万円の報酬を得ていた。これを生み出すには、3.5万トンのキャップを売却する必要があり、毎月1万4000個のキャップが、たった1人の役員の報酬として消えていくことになる。この辺りからエコキャップ運動にはものすごく濃い暗雲が垂れ込めてくる。
 少し古いデータだが、エコキャップ推進協会は週間ポストの取材に対し、2013年9月~2014年8月期の収入約9000万円のうち、人件費に3900万円、事務所家賃費などに約3900万円を当てたと答えている。これは活動の根幹を揺らがす情報である。それでは第2試算をやってみよう。
9000万円-(3900万円+3900万円)=1200万円、1200万円÷9000万円≒0.13
なので、キャップの売却益のうち86%以上が協会の運営で消えていることになる。400個のキャップを売っても10円のうちの1.3円しか残らないので、本当に20円を稼ぐためには、20円÷1.3円≒15となり、15倍のキャップが必要ということになる。400個の15倍は6000個である。
「キャップを6000個集めると20円のワクチンを1本寄付できる」
と聞いて、そんなバカな! と思わないのは算数が苦手な人だけだ。エコキャップ運動というものは、構造的にどうしようもないほど病んでいると、この時点で断言しても良いと思う。
 ところが、実情は更に斜め上を行くようだ。まさに事実は小説よりも奇なり、である。エコキャップ推進協会のサイトから以下の文を直接引用してみよう。

エコキャップを直接送るには、佐川急便の配送サービスが便利です。10枚セットで佐川急便の配送袋(7,800円送料込み)で送れば、全国どこからでも佐川急便がご指定の場所までエコキャップの集荷に伺います。20枚セットは14,800円です。

 ホワッツ!? 協会は収入の86%以上を運営費として使っていたのに、配送にかかる費用はエコキャップ運動に協力する一般人が負担するという仕組みだそうだ。これが何を意味するのか? 数字にしてみると改めて愕然とする。まず1枚の袋に入るキャップはおよそ2400個だそうだ。袋と配送料は20枚セットで買うと、1枚当たり740円である。この値段は致命的である。2400個のキャップは6kgだが、それを売却しても60円にしかならない。たとえ運営費の問題がなかったとしても、これではどうやっても採算の取りようがない。協会はずいぶん多額の寄付を行ってきた実績があるようだが、それは途轍も無いマンパワーを金銭に換算しているだけでなく、もっと直接的に袋代として金銭を払わせるというシステムがあって可能になっているわけだ。
 この袋によって、エコキャップ運動が全体として経済的にエコである可能性は絶望的なものになってしまう。この袋を使っていては1kgあたり366円のグアノを売ったとしても利益を出すことはできないだろう。何しろたった1枚で740円もする袋はグアノよりも遥かに高価な物質なのだ。資源を売買していると言うより袋を売買しているというわけの分からない状況になってしまう。そんな代物に1kgあたり10円にしかならないキャップを詰めていて採算が取れるわけがない。

 ではこれが、どれほど絶望的な状況なのかを示すため、第3試算に入る。きりの良いところで、100本のワクチンを寄付したい人を想定してみる。そうすると先ほどの計算から、必要なキャップの数はなんと60万個になる。これは東京ドームを満員にして、一人当たり110本のペットボトル飲料を飲んでもらえれば、なんとか集まる数字である。途轍もない労力だが、それだけではキャップはワクチンにはならない。更に袋を600000÷2400=250枚も購入しなければならない。袋代だけで、740円×250枚=18万5000円が追加で必要になる。まあ、18万円だろうが19万円だろうが、キャップ60万個を集める労力に比べれば誤差なのかもしれない。
 まとめると、20円のワクチンを100本寄付したい人には2つの選択肢がある。
(ア)2000円を払って直接寄付する。
(イ)18万5000円を払って、60万個のキャップを集める。(注2)
 注意してほしいのは、(1)や(2)についての考察で言及したような調べきれない問題の詳細がどうであろうと、その結果として出てきている金額を用いて計算しているのだから、この議論には影響しないということだ。
 最初に紹介した、流布している説明(「第1試算」)を信じ込んでしまうとどうなるのか?
100本のワクチンを寄付するために8万個のキャップを集めた人は、34枚の袋を購入することになる。ここで、この状態をクリアに理解するために、「袋代はワクチンの寄付証明と共に、事後に請求される」と仮定してみよう。協会が8万個のキャップを売却すると2000円の利益が得られるが、そのうちの86%以上が運営費に回されるため、280円も残らない。ところが袋代は34×740円=2万5160円に達する。キャップの売却益では相殺のしようがない。しかし残りの約280円で少しでも相殺しようとすることだけはやめてほしい。買えるワクチンはゼロとなり、キャップを集めたこと自体が無駄になってしまうからだ。かくして、8万本ものキャップを集めた功労者の元には次のような通知が届くことになる。
「あなたは13本のワクチンを寄付しました。袋代として2万5160円をお支払い下さい」

 色々書いてきたが、エコキャップ運動の最大の問題は、この絶望的な効率の悪さゆえに、尋常ではない数のキャップを要求する点にある。これはペットボトルとキャップの使用を促進してしまう危険が大きい。どれほど優れたリサイクルであっても「そもそも使わない」ことに勝るものはないだろう。特に、日本のように水道水が安全な国においては。
エコキャップ運動を擁護する人の意見として「やらない善よりやる偽善」とか「少なくともその分、経済は回る」などの発言を目にしたので、バカバカしいが一応これにも反論しておく。エコキャップ運動は「やる偽善」どころか「やる害悪」である。エコキャップ運動に参加することで、価値のある生産活動に向けることも可能だったマンパワーが消費され、キャップの使用は促進され、ワクチンに回すことの出来るお金は目減りする、というか借金に生まれ変わる。そしていずれにせよ、直接寄付という「やる善」には敵わない。また「穴を掘って埋めるような意味のない活動」であっても「その分、経済は回る」のは確かだが、それを許すことは、兵器を盛大に消費する軍事演習のような、環境を破壊し資源を浪費する活動さえも擁護してしまうことになる。それは環境的にエコでない活動の極限である。そして、資源を浪費して環境を破壊することは、長い目で見れば経済的にも決してエコではない筈だ。どうせやるならエコキャップのようにほとんど価値を生まない活動よりも、効率よく価値を生み出すことをやるのが良いし、それが資源を節約する活動であれば、更に良い。それは、一生懸命に働いて稼いだお金を、ほんの少し直接寄付とマイボトルに回せば成立する。

3 更に懸念される疑惑
 今回、改めてエコキャップ運動の実態を調べ直したわけだが(注3)、10年前にも詳しく調べたことがあったので、相当ひどい結論になること自体は予想していた。それでも改めて調べ直してみる気になったのは、勤務先が運動に巻き込まれる危機に晒されているということの他にも、「何故こんなバカげた運動が10年経っても続いているのか」ということが非常に興味深く感じられたからだ。
 一因として、エコキャップ推進協会が狡猾だということがあるのかもしれない。サイトを見てみると、リサイクルの促進、二酸化炭素削減という目標の他にも、発展途上国の医療支援、障がい者・高齢者雇用促進などの多彩な目標が掲げられている。これらは論点を分かりづらくし、批判を躱しやすくしている。更に震災地への義援金寄付を積極的に行うことで、批判者も団体を攻撃しにくくなる。
 けれどもこれら一連の工作は、ちょっとでも環境問題に興味や知識があり、疑似科学などに批判的な人間には通用しない。なぜこんな運動が延命できてしまうのか?
 そこで私は3つの説を思いついた。

○ウィルス説
「利己的遺伝子」で有名なリチャード・ドーキンスはかつてその著書の中で一神教を批判し、宗教が伝播する様を、ウィルスに喩えて見せた。同様に、エコキャップ運動をウィルスによる病気のようなものだと考えると理解しやすくなる気がする。このウィルスは集団のもつ脆弱性を見事に突いている。それは「善意にあふれており、積極的に労働力を提供する、素朴で騙されやすい人」がたくさんいる場合、「知識や興味を持ち、嘘を判別できる人」が声を上げにくいという弱点である。考えてみると、うちの職場もそういう場所だ。「善意にあふれている人」が多いのは良いことだが、意見が対立するとたちまち脆弱性が露呈する。意見の違いがあっても、正々堂々と議論し、お互いに協力して、より高い知見に到達しようとする文化がない。
私見では、個人の在り方の多様性を認めるという方向に社会が変容するにつれ、そのことを履き違えた「事実や真実を相対化してしまう」という現象が同時に進行している。エコキャップ運動に対する組織の脆弱性は、この現象によって助長されている可能性が高い。

○壮大な釣り説
 私はこの文章を作成する中で、今後、発生するかもしれない論争を想像して、とてもうんざりしてしまった。残念ながら私の所属する部署においても、きちんとした議論をする土壌があるとは言い難い。特に私のように全く空気を読まない人間に対しては、とても義務教育を受けた人のものとは思えない幼稚なレスポンスが降り注ぐ。まず、意見が対立した場合に、事実と論理で議論することができない。代わりに脊髄反射的な罵声や、冗長で空疎な随想、感情論が返ってくる。人格と議論を切り離して理解することができないため、意見が対立し、議論で不利になると「無知だ」「仕事をしていないのに意見を言うな」などの人格攻撃に走る、などである。
 このような中で、既に始まりかけているエコキャップ運動を否定する議論を展開すれば、徹底的に相手を屈服させるまで論破祭りをやらなければならなくなる。ここまでの説明はウィルス説を実例を交えて、反復しているに過ぎなくて、壮大な釣り説とは以下に述べるものである。
 問題はそのような状況に置かれた私が取った行動なのだ。エコキャップ運動否定論の説得力を上げるために最も手っ取り早い方法は、免罪符として直接JVCにお金を寄付することである。うっかり私も3000円を寄付してしまった。これはネット上で完結する操作なので所要時間は5分程度である。これは「試算3」の1.5倍の寄付であるから、エコキャップ運動でこれに対抗するには、キャップを90万個集め、27万7500円分の袋を買わなければならない。さすがにこれなら、いつものように議論にもならない議論をする必要はないだろうと、私は胸を撫で下ろした。
 その時、はっとしたのだが、元来、寄付活動に貢献しようなどという精神を持ち合わせていない私が、エコキャップ運動のせいで、まんまと寄付をさせられてしてしまった。実は、下調べの段階で、同じような行動に走る人をインターネット上で確認できた。我々は釣られているのではないだろうか? エコキャップ運動のあまりの効率の悪さから考えると、ほんの少しの人間が釣られるだけで、JVCは協会から得られる以上の利益を得ることができる。皮肉にも、この効果は、エコキャップ運動の内容が馬鹿げていればいるほど増すことになる。

○巨悪説
 これは要するに隠れた利権が存在し、それがあまりに巨大なのではないかということ。ゆえに、エコキャップ運動の存続には、はたから見ているだけでは分からない、熱心な勧誘や説得などの想像を絶する労力が注ぎ込まれていて、それゆえに運動が存続してのではないかということである。ただし、これは何の証拠もない、私の空想に過ぎないことは注意してほしい。
 さて、それがどんな利権かというと、手がかりになるのはキャップの売却価格が安すぎるのではないかという疑惑だ。とにかく途方もない量だからちょっと安くするだけでも業者が得られる利益は莫大なものになる。もし協会の役員が私のように悪どい人間なら、そのうちの一部を謝礼として受け取っているかもしれない。私は法律に詳しくないのでよく分からないのだが、もしかして、このような行為は上手に行えば犯罪にならないのではないだろうか? 繰り返すが、これは何の証拠もない、私の空想に過ぎない。だからこの記事を最後にブログの更新が止まり、私の消息が途絶えたとしても、何者かに攫われ、リサイクルされ、最終的にはワクチンに返還されて世のため人のためになっているというわけではない。ないと、信じたい。

4 ペットボトルとキャップの行方
 勤務先がエコキャップ運動に参加するかどうかという問いは、「エコキャップ運動」か「現在の処理方法」かを選択し直すというふうに言い換えられる。で、あるならばどれほど「エコキャップ運動」がダメな活動だと立証しても、比較対象である「現在の処理方法」について知らないという状態では、画竜点睛を欠く。結論を出す前に、私は調べてみることにした。
 勤務先のペットボトル、およびそのキャップは現在、自販機横のゴミ箱に入れられたものに関してはコカコーラが回収し、市内の廃棄物処理を行う業者に引き渡していることが分かった。さらにその業者は処理したペットボトルとキャップ(混ざっている場合もあれば、分別されている場合もある)をリサイクル業者に売却して利益を得ていると言うことが判明した。これは産廃ゴミという扱いであり、法律的にも物理的にも自治体の回収ルートとは異なる。
 私は仰天した。コカコーラも産廃業者もリサイクル業者も、トータルとして採算が取れなければこんな行動は取らないはずだ。と言うことは(2)の経済的にエコであるという目標は既に達成されていて、(1)の環境的にエコであると言う目標も達成されている可能性が高い。
 まだ疑いが残るのは、この形で採算が取れるのは、どこかから補助金をもらっているからではないかという点だ。しかし、もしそうであったとしても、エコキャップ運動に比べれば、長距離輸送と、それに伴って生じる高すぎる袋の問題がないため「現在の処理方法」の方が劣っている可能性は万に一つもない。

 そろそろ本稿の結論に移ろう。エコキャップ運動に大義など一つもない。これが私の結論である。もちろん、私は専門知識を持たないただの一市民である。この論考に重大な間違いが含まれている可能性は決して低くはない。
 正しく訂正していただけるなら大歓迎というか、心から感謝するし、エコキャップ運動に参加してきた方々に心から謝罪させていただく所存である。
 正直言って、私が間違っていたという結末の方が、よっぽど世の中に対して希望が持てるので、嬉しい。

(注1) 参考https://www.petbottle-rec.gr.jp/more/reduction_co2.html
(注2) この数字は、ある時点での人件費の割合を用いて、全てのキャップを指定の袋を使用して送ることを仮定して、単純化した数字である。そういう意味では、計算しやすくし、面白おかしくするために多少は盛られている可能性があるが、いずれにせよ「運営費」と「袋代」がエコキャップ運動の致命的な弱点であることに変わりはない。
(注3)今回、インターネット上の様々な資料を参考にしたが、私が一番わかりやすく感じ、また包括的な議論が行われていたのはwikipediaであった。

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