短編小説 ある晩夏
雨の不足した夏がとうとう避けられずに現実のものとなった。短すぎた梅雨、急カーブを描いて逸れていったいくつもの台風を経ても、それでも人々はざあざあとまとめて降り全てを帳消しにする雨をこともなげに想像してみせた。日本の何カ所かで水道の使用制限が始まり、それが盛んに報じられてもなお、である。想像力から放たれているのは、それを振りほどき死滅させるほどに退屈している子供だけだ。ゴイチたちがジグザグを往復しながらのぼっていく坂道を辿り,そこに行き着いたのは偶然ではなかった。ゴイチはあまりにも退屈していた。路上で蹴り技の練習をしはじめ、毎日やっているうちにどんどんコツをつかんで上達してしまうほどに退屈だった。高く速く蹴りを繰り出せるようになったあとで、ゴイチはそこに跳躍を加えた。それに習熟すると、蹴りに跳躍ではなく回転を加えた。それにも習熟してしまうと、今度は跳躍と回転とを同時に加えた。回転は半回転から一回転半になった。跳躍の高さは蹴り足がマサルの首の高さを蹴る所から始まり、頭上を越えるまでになった。ゴイチとマサルは頻繁に高校を脱走した。マサルは自転車で高校に通っており、その自転車はハンドルに手拭いが巻かれ、必ず、水の入った二リットルサイズのペットボトルがくくり付けられ、ロープと首輪と一匹の雄の柴犬がつながっていた。犬の名はウルフ。人間を二人乗せた自転車を時速三十キロメートルにまで加速することもできる。マサルがサドルに跨がり、ゴイチが荷台に立つ。ウルフは走りだす。彼らはこの日、いずれにしてももう数十分で放課になる学校をわざわざ脱走するほどに退屈している。人通りも疎らな午後の田舎町が後ろに流れていく。どこからか煙が漂っている。ウルフは加速する。こんなときメロディが彼らの口をつく。ゴイチとマサルのどちらからともなく歌い始める。この日はスタンドバイミー。定番の曲のひとつ。彼らは前奏をボン、ボン、ボボボン、ボン、と歌う。ボボボン、ボン、ボボボン、ボン、と歌い指をならすことも加える。風が彼らの前を通り、草を揺らして線路を越えていく。ゴイチが荷台をとびおりる。ボボボン。駆けはじめる。ボン。その跳躍をもってウルフに先んじる。ボボボン。「ホゥエンザナイッ」跳躍と共にゴイチは回転を始めている。回転は宙にあるゴイチの下半身から始まっている。左の膝を胸元まで引きつけ、同時に両腕を引き上げて背を反る。左の膝を右斜め後ろに引き倒す要領で回転を腰に伝え、右足を伸展させる。そこから連なるひとつの瞬間に、ひねりは加速しながら上昇し、上半身の回転が下半身を追い抜く。腕から前方に戻ってくる。次いで肩。このときゴイチは風にたなびく一枚の旗となる。最後に上空の最高点から右足が袈裟懸けに振り下ろされ「ハズカム」ゴイチは手をついて着地する。
ダムに来ることを決めたのがウルフだというわけではない。その頃、彼らの退屈は行脚という形をとって町とその周辺を覆い尽くそうとしていたので、ウルフがどのような方針や気まぐれで道を選択していようとも、いずれはそこに到達せずにはいられなかったに違いない。しかし、ダムに向かう道での、ダム以外の行き先をもつ最後の分岐を過ぎてからも、だらだらとジグザグしながら続く坂道をのぼりながら自分たちが向かっているのがダム以外の何かではないことに彼らは気付いていただろう。ウルフもなにかを予感しただろう。暗い山道を進むにつれ、蝉時雨はつんざくように大きくなる。いまやゴイチもマサルもはっきりと異臭を感じていた。腐敗臭である。西陽を遮っていた木々が途切れる。振り返ると、小さくなった町が遠くのびる。折れ曲がった青い看板。コンクリートの堤防が展開する。当たり前だが、ダムの水位は下がっていた。水際が後退し、ダムを囲む森との間に陽に灼かれた岩肌が露出している。岩肌の部分は驚くほど広い。本来は見られることのないダムの内部が暴露されている。その暴かれた領域の所々に、黒や茶色の大小の鳥の群がりがある。ダムには何度も来たことがあった。しかしこのようなダムの異変を想像したこともない子供達にとって、これは圧倒的な光景であった。自転車をコンクリートの堤防に立てかける。マサルはペットボトルを外し、水を飲んだ。ついでゴイチが飲み、ウルフも喉を潤す。マサルはブレザーの内ポケットから三枚のビーフジャーキーを取り出し、仲間達に分け与える。ゴイチは上着を自転車のカゴに突っ込み、手拭いをハンドルからほどいて頭に巻き、結ぶ。ノーアイウォント、ビーアフレイド。マサルはもう堤防を乗り越えている。実はこの後、この日の夜、ウルフは行方不明となり、それが今生の別れとなる。二人はまだそのことも知らない。
尻をこするように急な傾斜をおりていくと、勾配はなだらかになり、水際まで遠く広がっている。岩肌には、水際が段階的に後退していったことを示す縞模様が刻印されている。そのなかに水溜りがあった。ダム本体から切り離され、ダムの縮小に取り残されたのだ。黒い水面がぎょろぎょろと動いているように見える。近づいてみると、取り残された無数の魚がひしめいている。魚は恐ろしいほど密集しており、なぜこれで生きていられるのかゴイチには分からない。魚たちは夥しく折り重なり合いながら、懸命に少しでも上に位置しようと絶えず身を入れ替える。水面で口をしばたかせる。「今朝にはまだ、ずっと大きな水たまりだったんだろうな」マサルが言う。「水溜りが縮んだのが急激で、たまたま俺たちがそのときに通りかかったんだよ。もしこれ以上の縮小がなかったとしても永くは持たないだろうが」マサルが鳥の群がりに目を遣る。煮え切り、干上がった窪みに魚が乾いている。ゴイチはダムの水際を覗き込んだ。ダムの水はかつてないほど濃厚になり、黒っぽい緑色に沈んでいる。さらに陽を吸収して煮えたぎるように思える。ゴイチがシューズで地面を蹴り払うと、土煙があがり、流れ、宙にとけ去った。ほんの僅かなゆっくりとした湿った風がダムから岸に向かって吹いている。日没に向かって気温は下がり始め、ダムは熱を放出している。水際の水面には薄く膜が張り、岸の側に皺をよせている。
彼らは一度だけダムを遥か高所から見下ろしたことがある。それは三年前のこと。ゴイチとマサルはまだ中学校の三年生で、今より十センチは身長が低く、ウルフは生まれたばかりの仔犬だった。ダムを囲む山の、斜面の急な部分はコンクリートで塗り固められている。かれらはそこを登攀したのだ。それは容易なことではなかった。頼りになるのは、コンクリートに埋め込まれたコの字型の鉄杭だけだった。掴めるものも、足場になるのも、その梯子状に細長く列をつくっている鉄杭だけだった。恐怖に打ち勝ち、彼らは登った。そして頂上の、ひと休みできるだけの、平らな場所に到達した。そこにあったのは絶景である。まずは正面に空が、そして海が見え、町と靄のかかった田んぼが見えた。眼下には木々が濃緑の分厚い布のように波打ち、窪み、ひだをなす。雲の落とす影がその起伏に合わせて変形しながら布の上を滑っていく。蓄えられた巨大な水は静止しているようでもあり、無造作で複雑な形状をもつこの分厚い布を隅々まで愛撫しているようでもあった。そのときマサルが気付いた。おそらくは落石で、コンクリートの岩壁を削って刻んだ名前。よく知った、同級生三人の名前。ゴイチとマサルよりもずっと体が大きく、運動が得意で、大勢の仲間がいて、学校はとても目立つ三人だ。三人の名は、ずっと睥睨していたのだ。この景色を。息も絶え絶えになって登ってきた彼らを。遅れてやってきて無邪気に感動していたかれらを。マサルは落石のひとつを拾い、力一杯に投げた。それは物憂げに小さくなっていき、岸の近くに着水してやっとのことで目視できるしぶきをあげた。ずっと以前からダムを自らの縄張りと看做してきたかれらは、この日から今まで一度もダムに来ようとはしなかった。
ゴイチは水際に沿って進んだ。顕わになった岩肌は、なにかで見た海底山脈のような鋭い稜線を描いていた。ゴイチはランニングシューズの底を通じて、本来は踏まれるはずのない湖底を感じる。マサルは黙ってゴイチの後ろからついていく。かれらの胸にあの日の敗北が去来する。かれらは入り江を曲がり、弓なりの岸辺に敗北を置き去りにしようとする。ひときわ高い峰を越えると、大きく開けた場所に出た。入口にした位置からは陰になっている、本来の水量ならば来ることのできるはずのない場所である。ここから見た入口も死角になっており、岩の他には木々と黒い水しか見えない。座標が失われ位置関係は今や記憶とだけつながっている。白鷺が背後の森から目の前に躍り出る。ゴイチはマサルを見た。マサルはペットボトルに残った少しの水を飲み干し、袖で汗を拭って、鼻をほじり、指先に突いた物を舐める。それで確認できたかのようにマサルは言う。「ひどい臭いはしなくなったな」その通りだ。それでいて静かだ。とゴイチは思う。蝉時雨もいつのまにか遠のいた。西の空はすでに桃色に染まっている。白鷺は水面近くを飛行して楕円を描く。そして、白鷺は岸の手前で速度を落とし、羽をばたつかせて体を起こし、足を伸ばした。「おい、立ってるぞ」ぼんやりとゴイチがつぶやく。「よく見ろ足下」白鷺には、足場があった。足場は水面すれすれの高さしかなく、広さは、ちょうど、二畳ほどであろうか。二人の立つ岸から僅かに十五メートルほどのところに確かに足場があった。「中州か?」「いや考えにくい。といっても、草のかたまりの浮き島にも見えないな。理屈からいけばありそうなのは粗大ゴミだが」マサルが言い淀む。よくわかる。それは粗大ゴミにも見えなかった。もっと、そこにあるのが当たり前で確固とした物に見えるのだ。ゴイチの全身の産毛が逆立つ。ゴイチは既に裸足になり、上着を脱ぎ始めている。ノーアイウォント、ビーアフレイド。「行くのかよ」マサルが覚悟の準備をしようとする。「お前はここで見ていてくれ」ゴイチはもはやブリーフしか身につけていない。「万一のことがあったら、助けを呼びに走ってくれ」マサルはペットボトルのキャップをきつく締め、ゴイチに投げる。「持って行け。二キロの浮力だ。水中での二キロは生死を分ける」ゴイチは助走に必要な距離だけ岸から下がり、白鷺とその足場を見つめる。メロディが流れている。どちらも歌いはしないけれど、かれらは同じメロディをきいている。ボン、ボン、ボボボン。ゴイチが息をのむ。ボボボン、ボン、ボボボン、ボン。白鷺が再び飛翔する。それが合図となる。ゴイチは出発し加速する。一気に最高速に達し、水際にわずかな痕跡を残して踏み切る。ゴイチの助走路で土煙がもうひとつの痕跡となる。「ホゥエンザナイッ」マサルが叫ぶ。ゴイチは空中にいる。その跳躍は見事。けれどももとより、ひとっ飛びできる距離ではない。マサルは確認する。放物線を描き、くの字型に体を折り曲げ、落下しつつあるゴイチの表情を。一瞬先の着水を恐れていない表情を。
ゴイチは踵から水面を感じた。黒い水が顔面に迫ってくると、最後に目標地点をもう一度確認して、目を閉じた。ペットボトルは脇に固く挟んでいる。大きな音は自らの着水の衝撃。水の中は生暖かい。いまや体全体が水中に没し、まだまだ落下は続いている。岸からこの距離でこの深さ。まだ落下は終わらない。ゴイチの本能が恐怖に捉えられる。落下は終わらない。ゴイチは水中で前進をはじめる。待つだけでは、その落下は永遠に続くように思われたのだ。決してパニックになってはいない。けれど自分が思う通りに体が動いて泳いでいることが、確かめなければならない疑わしいことに思える。それでもその疑わしさのなかでゴイチは前進する。ゴイチは前進する。ゴイチは前進する。
マサルは水面を見つめていた。ゴイチが突入した水面を。水面は静まり、いまや小さな泡も上がってこない。ゴイチのすべての痕跡が消え、マサルはダムでひとりとなる。そこに手が突き出てくる。最初に手が水面から突き出て、その確固たるなにかを掴んだ。次にゴイチの頭が現れ、ペットボトルを掴んだもう一方の手が大空に向かって突き上げられる。「ハズカム」ゴイチは体を持ち上げ足場に立った。足場はびくともしない。それはやはり中州と呼ぶべきものだったのだ。マサルはゴイチが振り返り、雄叫びを上げるのを待った。だがゴイチはマサルの方を振り向かず、中州に立って俯いている。何かを見つけたのかもしれない。
それは穴だった。中州はゴイチが確認できる限りすべて岩でできていた。その中州に洗面器ほどの大きさの垂直な穴があいていた。ゴイチは中州に立ったと同時にその穴を見つけ、釘付けになった。穴はどこまでも深く限りが無いように見える。ゴイチの目は穴の手前から奥に向かって焦点を動かし、底が見えないことを悟って遥か下から焦点を浮上させる。そこでやっとゴイチは穴全体が澄んだ水で満たされていることに気付く。泉である。ゴイチは今度こそ目線まで釘付けとなる。我に返るまで、すべての言葉と行動を失った時間が流れる。自らを取り戻したゴイチが最初にやったことは、ペットボトルのキャップを外すことだった。そしてマサルの方を振り向き、説明するための言葉を探すが、諦め、ペットボトルを掲げて頷いて見せる。ゴイチはしゃがみ、ペットボトルを水に沈める。水は氷のように冷たく、皮膚が切り裂かれそうなほどに清浄だ。いまや恐怖はより強くかれの本能を捉えている。ゴイチは、決して汚れることのないもの、征服されることのないものに接していると感じ、恐怖のなかにもなにか荘厳なものを感じていた。だが、それを死の予感の一種だと気付くには彼は幼な過ぎた。泉の水が、ペットボトルのなかに溜まっていく。鼓動のような音をたてて。それは致命的な恐怖の塊が歩み寄ってくる音かもしれない。だが泉の水はそれをも拒んでいる。落石のエネルギーも、数千の魚たちの怨嗟も、きっぱりと拒絶して寄せ付けないような水だ。
心なしか、マサルの立つ岸が遠のいて見える。陽は没し、夕闇が刻々と深まりつつある。逡巡する時間はない。ゴイチは泉の水で満たしたペットボトルのキャップを再びきつく締める。そして膝をつき、泉に口づけて、その水をひとくちだけ含む。すぐさま踵を返してダムに飛び込む。
ゴイチは見た。夜の高速道路。流星のようなヘッドライト。美しい顔と巨大な図体を持つ新しい相棒が運転するトラック。窓ガラスについた無数の雨粒。大きくなり、周りのいくつかを巻き込んで流れ、筋をつくる。荷台にあるもの。なにか危険なもの。それが相棒にせわしなくハンドルを切らせる。ゴイチはパーキングで買った缶コーヒーを飲んでいる。
ゴイチは見た。うらぶれたアパートの一室。癒えきらない傷と偽物の表札。窓部に腰掛けてぼんやりと眺める表通りのビル。ゴイチはすっかり濃くなった自身の髭を撫でている。網戸には小さな穴があいている。テーブルに置かれたグラスの、気の抜けたサイダー。吸い殻が積もり、零れ落ちている小さなピンクの灰皿。湿った布団の上で女は目覚めており、昨日の化粧をつけており、Tシャツとパンツだけを身につけており、その甘酸っぱい体臭が部屋に充満しており、二人はお互いを愛しているけれどもそれ以上に退屈し、そして疲弊している。
ゴイチは見た。点滅する電光掲示板。改札口まで走って来たゴイチは既に息があがっている。間に合わない。だが、引き止められなくとも、せめて最後にひと目だけは。階段を二段飛ばしに駆け上がる。あろう事か、踏み外し、転倒する。ゴイチはすぐに立ち上がるがその跳躍は衰えを隠せない。その疾走も。ゴイチは走り去る新幹線の背だけを見る。間もなく殺気立った駅員が後ろからゴイチにタックルする。
ゴイチは見た。歩道の植え込みに吐いた自身の反吐を。赤いものが混ざっている。何者かに尻を蹴られ、ゴイチは顔から植え込みに突っ込む。若者の集団が、蹴った一人を諌め、大笑いし、通り過ぎる。ゴイチの、くたびれてはいるものの、とびきり上等な革のジャケットが反吐と血にまみれる。ゴイチは立ち上がる。男四人と女三人の集団である。油断しきっており、もうこちらを見ようともしない。不意をつけば打ちのめすのは容易なことだ。ゴイチが飛びかかろうとしたとき、聞き覚えのある声、それでいて聴こえてくる筈のない声が彼を呼び止める。「仕事だ」振り返ろうとするゴイチの動きを静止し、問いかけをも許さない背中の堅い感触。男はゴイチのジャケットのポケットに何かをねじ込む。「この男を二十日以内に殺せ。そうすればお前のことは組織に黙っておいてやる」衝撃に弾かれ、再びゴイチは植え込みに頭から突っ込む。振り返ると男の姿はどこにもなく、ポケットからは運び屋時代の相棒の写真が現れる。
ゴイチは見た。なけなしの残高を吐きつくす貯金通帳。限度額一杯までキャッシングするクレジットカード。風呂に入って身を清め、スーツをおろし、散髪に行ってからゴイチは故郷の小さなホテルに部屋を取る。陽が落ちるのを待ち、ゴイチはゆっくりと町を歩く。あまりにも時間が流れている。このような田舎町でさえ、道もすっかり変わってしまっている。かつての相棒がなぜこの町に逃げ延びていたのかはわからない。かつての女が一緒について来ているというのが、もっとわからない。だがそれをことさらに責めるつもりはゴイチにはない。ただ、殺すべきかどうかは決めかねている。約束の期限まではもう五十時間を切った。ゴイチはぼんやりと歩き、たまたま目にとまったスナックに入り、バーボンを二杯あけた。そんなゴイチを呼ぶ声がした。「間違いないな。久しぶりじゃねえか」その男はかつての相棒ではなかった。かつてゴイチとマサルよりも早くダム壁の登攀に成功し、その名をコンクリートに刻み付けた三人のうちの一人だった。男はテーブル席の仲間達を放り出してゴイチの隣に座った。「ママ、彼に同じやつもう一杯。俺のこと覚えてるか? ここいらも様変わりしたもんだろう」思わぬ気さくさにゴイチがたじろぐ。しかし数回口をきいたことがあるに過ぎないはずの二人がまるで昔から友人同士だったかのように打ち解けるまでにはバーボンをもう二杯あける時間しか必要とされなかった。夜が深まりスナックの客は彼ら二人だけとなる。ゴイチは唐突に、どうということも無いかのように切り出した。「この写真の男か、それともこっちの女を知らないか?」新しい友人の顔に差した動揺の蔭を見逃すほどにはゴイチは酔っていない。「悪いが何も隠さないでくれ」ゴイチはすでに懐のなかで銃口を向けた拳銃を握っており、それをほんのわずかな動作で新しい友人に仄めかす。「こいつは生き死にの問題なんだ」「だったら尚更譲れんな」新しい友人は毅然として答える。「赤子連れだぞ。それに、どんな理由があろうとも、この町に逃げ込んだ弱いやつを差し出すことはできん」もともと地域の有力者の子であり、半生をここで生きて来た新しい友人の、町を背負うという自負がそこにはあった。ゴイチは黙っている。赤子? そうか。なにも不自然なことはない。「事情を話してみろ。お前にも、力になってやれないことはないかもしれない」それを聞きゴイチは悲しく笑う。拳銃をしまう。立ち上がる。「わかったよ。ごちそうさん」「待てよ。まだ話は終わっちゃいない」話すことなど何もない。分かるべきことのうちで、分かることが可能な部分はすべて分かりきっている。
ゴイチは見た。午前一時のホテルの薄明かり。眠りを脅かしたノック。やがて鍵が何らかの技術で破られる。「約束の時間は過ぎた」男がゆっくり部屋に入ってくる。「組織はお前を許さない。さあ、ついて来てもらおうか」聞こえるはずのない声。ゴイチはその声を聞きたくない。『仕事』を放棄したとき、こうなることは予想できたはずだ。自分は覚悟していたのだろうか。ゴイチは自身に問うこともしない。けれどもゴイチの体は勝手に動く。窓を蹴破り、バルコニーに出る。そこから下の階の部屋のバルコニーまでを軽業で伝う。逆さまになった一瞬に満月を見る。さらにその部屋に闖入、そこから廊下に出る。ゴイチは非常階段を目指す。ジグザグに折り返す非常階段を上りながら、あの日のことを思い出す。二十三年前、ダムで三人の名前に敗北したあの日のことを。二人をダムまで引っぱっていったのは、比類なき名犬、トカレフ。意気消沈の帰り道、トカレフに異変が起きた。足下がふらつき、息が異常に荒いのだ。その症状は、ダムが背負った穢れの顕現のようでもあり、熱射病と脱水症状のようでもあった。トカレフは前かごに乗せられ、ゴイチとマサルはマサルの家に急行する。水を飲ませようとしても、手遅れだった。仔犬が、いままさに息を引き取ろうとする母犬の乳房に吸い付く。最後の一滴の母乳と共に、母犬が背負った穢れのありったけをも引き受ける。それが仔犬の本当の誕生の瞬間となる。以後、仔犬はその誇り高さと毛並みの美しさからウルフと呼ばれるようになる。
このとき非常階段を登っていたのは三人の男と、そして一匹の巨大な獣である。まずはゴイチが屋上に出る。続いて、聞こえる筈のない声を聞かせる男がついにその姿を正面に晒す。「なぜだ」ゴイチが恐怖しながら後ずさる。あまりにも遅過ぎた発問。「なぜなんだ」いるはずのない男が黙ったままじりじりと距離を詰める。月は雲に隠れ、男の姿ははっきりとは確認できない。そこで獣と最後の男が屋上に到着する。三人の男は古い知り合い同士であり、最後の男はゴイチの新しい友人である。そしてここに、この三人の男の、誰一人として知り得ないもうひとつの物語がある。二十年前のことであった。ひどい水不足の年であった。将来、ゴイチの新しい友人となるべき男は、蒸し暑い夜のまどろみに愛犬のわめき声を聞いた気がした。けれども彼の意識はそこで途切れてしまう。彼の愛犬、巨大なるグレート・デーンはただならぬ野蛮な匂いが、紛れもなく自身を目的として迫り来ることを、その野蛮さが一キロメートル先にあるときから気付き、戦慄していた。その野蛮さに触発されるように、彼女の秘められた野生に、火がともる。生まれて初めて全身の筋力を全力で発揮する。その膂力に耐えきれず、彼女の首輪がちぎれる。そしてもう一匹の、首輪を引きちぎってきた犬が現れる。美しい毛並み、誇り高き柴犬のウルフである。体長にして二倍、体重にして四倍の絶望的な戦いが幕を開ける。ウルフは塀に登り、空中から急襲する。電光石火。彼女の耳が千切れる。ウルフは背後をとろうとする。素早さで勝る以外に、万にひとつの勝機もない。だが彼女とて、四倍の筋力。素早さで遅れを取る理由がないのだ。その方向転換に触れるだけでウルフは吹き飛ぶ。今度は彼女が覆いかぶさるようにして襲いかかる。ウルフはそれをすんでの所でかいくぐる。後ろ足に渾身のひと噛みを食らわす。彼女の骨が砕かれる。しかし、そこでウルフは捉えられる。圧倒的な力に仰向けに押さえつけられる。彼女は怒り狂っている。ウルフの鼻先を、同時に前歯を、その巨大な口で正面から噛み砕く。血飛沫。ウルフは声を上げずに悶絶する。そして彼女はゆっくりと、口を大きく開き、ウルフの首を両顎で挟む。少しずつ力を入れていく。牙が食い込む。気道が破壊される。頸骨が砕かれる。だが、まさに最後の瞬間、ウルフは弩漲した肉棒で下から彼女を貫いた。断末魔の陵辱。逆上した彼女は全力を込めてウルフを絶命させる。だがウルフの脳幹は、脊髄が切断されるまさにその刹那、最後の射精の命令をウルフの男根に送った。ウルフの生命情報が彼女のなかで炸裂する。
雲が切れ、月明かりの帯が獣を照らす。ゴイチが新しい友人に尋ねる。この犬は、オレたちが知っている犬によく似ている。こんなに大きくもないし、年老いてもいなかったけれど。新しい友人が答える。この犬の名はポトフ。年齢は二十歳。獣医の話によれば、どうやら柴犬の血を引いているらしい。聞こえる筈のない声が嗚咽を漏らす。いまや満月は十全なる姿をあらわしてる。いるはずのない男の姿は、やはりそこにはない。ただそこには確かにいるはずのない男が存在し嗚咽している。いるはずのない男が聞こえるはずのない言葉で話す。「ウルフ、お前の子孫なのか」ポトフは黄金色の毛を月明かりに輝かせ、長い遠吠えをする。そしてゴイチは確信に至る。この二十年間感じ続けてきた違和感、集積された違和感の到達点。この世界は、存在しない。そのことを正確に言い表す言葉をゴイチはもたない。こんなときゴイチにできるのは飛ぶことだけだ。ゴイチは疾走し、屋上の端から宙に飛んだ。新しい友人がなにか叫んだ。ゴイチは中庭の噴水めがけて墜落する。ゴイチは世界の向こう側を目指した。向こう側まで飛ぼうとしたのだ。けれどもそれには、跳躍がわずかに足らなかったのだ。あとほんのわずかに。「ホゥエンザナイッ」その声で、ゴイチの体は回転を始めた。三十八年に渡る人生の、これが最後の回転になるだろう。そのままゴイチは噴水に突入する。「ハズカム」
岸を掴んだゴイチの手は、自身の体を引き寄せることなく水中に滑り込もうとした。それをすかさずマサルが引っぱり上げる。異常に疲労したゴイチが岸辺に引き上げられ、横たわる。頬を打つと、ゴイチはすぐに意識を取り戻し、少量の泥水を吐いた。ペットボトルは脇に固く挟まっていた。
そして、なんの前触れもなく雨が降り始めた。雨はすぐに大降りとなった。水際は、目に見える早さで前進を始めた。ゴイチとマサルは急いで来た道を戻り、堤防を越えた。ウルフはきちんと座って二人の帰還を待っていた。彼らはシャンパンシャワーのようにして泉の水をかけ合った。また退屈な日々が始まるであろう。ある晩夏のことである。
雨の不足した夏がとうとう避けられずに現実のものとなった。短すぎた梅雨、急カーブを描いて逸れていったいくつもの台風を経ても、それでも人々はざあざあとまとめて降り全てを帳消しにする雨をこともなげに想像してみせた。日本の何カ所かで水道の使用制限が始まり、それが盛んに報じられてもなお、である。想像力から放たれているのは、それを振りほどき死滅させるほどに退屈している子供だけだ。ゴイチたちがジグザグを往復しながらのぼっていく坂道を辿り,そこに行き着いたのは偶然ではなかった。ゴイチはあまりにも退屈していた。路上で蹴り技の練習をしはじめ、毎日やっているうちにどんどんコツをつかんで上達してしまうほどに退屈だった。高く速く蹴りを繰り出せるようになったあとで、ゴイチはそこに跳躍を加えた。それに習熟すると、蹴りに跳躍ではなく回転を加えた。それにも習熟してしまうと、今度は跳躍と回転とを同時に加えた。回転は半回転から一回転半になった。跳躍の高さは蹴り足がマサルの首の高さを蹴る所から始まり、頭上を越えるまでになった。ゴイチとマサルは頻繁に高校を脱走した。マサルは自転車で高校に通っており、その自転車はハンドルに手拭いが巻かれ、必ず、水の入った二リットルサイズのペットボトルがくくり付けられ、ロープと首輪と一匹の雄の柴犬がつながっていた。犬の名はウルフ。人間を二人乗せた自転車を時速三十キロメートルにまで加速することもできる。マサルがサドルに跨がり、ゴイチが荷台に立つ。ウルフは走りだす。彼らはこの日、いずれにしてももう数十分で放課になる学校をわざわざ脱走するほどに退屈している。人通りも疎らな午後の田舎町が後ろに流れていく。どこからか煙が漂っている。ウルフは加速する。こんなときメロディが彼らの口をつく。ゴイチとマサルのどちらからともなく歌い始める。この日はスタンドバイミー。定番の曲のひとつ。彼らは前奏をボン、ボン、ボボボン、ボン、と歌う。ボボボン、ボン、ボボボン、ボン、と歌い指をならすことも加える。風が彼らの前を通り、草を揺らして線路を越えていく。ゴイチが荷台をとびおりる。ボボボン。駆けはじめる。ボン。その跳躍をもってウルフに先んじる。ボボボン。「ホゥエンザナイッ」跳躍と共にゴイチは回転を始めている。回転は宙にあるゴイチの下半身から始まっている。左の膝を胸元まで引きつけ、同時に両腕を引き上げて背を反る。左の膝を右斜め後ろに引き倒す要領で回転を腰に伝え、右足を伸展させる。そこから連なるひとつの瞬間に、ひねりは加速しながら上昇し、上半身の回転が下半身を追い抜く。腕から前方に戻ってくる。次いで肩。このときゴイチは風にたなびく一枚の旗となる。最後に上空の最高点から右足が袈裟懸けに振り下ろされ「ハズカム」ゴイチは手をついて着地する。
ダムに来ることを決めたのがウルフだというわけではない。その頃、彼らの退屈は行脚という形をとって町とその周辺を覆い尽くそうとしていたので、ウルフがどのような方針や気まぐれで道を選択していようとも、いずれはそこに到達せずにはいられなかったに違いない。しかし、ダムに向かう道での、ダム以外の行き先をもつ最後の分岐を過ぎてからも、だらだらとジグザグしながら続く坂道をのぼりながら自分たちが向かっているのがダム以外の何かではないことに彼らは気付いていただろう。ウルフもなにかを予感しただろう。暗い山道を進むにつれ、蝉時雨はつんざくように大きくなる。いまやゴイチもマサルもはっきりと異臭を感じていた。腐敗臭である。西陽を遮っていた木々が途切れる。振り返ると、小さくなった町が遠くのびる。折れ曲がった青い看板。コンクリートの堤防が展開する。当たり前だが、ダムの水位は下がっていた。水際が後退し、ダムを囲む森との間に陽に灼かれた岩肌が露出している。岩肌の部分は驚くほど広い。本来は見られることのないダムの内部が暴露されている。その暴かれた領域の所々に、黒や茶色の大小の鳥の群がりがある。ダムには何度も来たことがあった。しかしこのようなダムの異変を想像したこともない子供達にとって、これは圧倒的な光景であった。自転車をコンクリートの堤防に立てかける。マサルはペットボトルを外し、水を飲んだ。ついでゴイチが飲み、ウルフも喉を潤す。マサルはブレザーの内ポケットから三枚のビーフジャーキーを取り出し、仲間達に分け与える。ゴイチは上着を自転車のカゴに突っ込み、手拭いをハンドルからほどいて頭に巻き、結ぶ。ノーアイウォント、ビーアフレイド。マサルはもう堤防を乗り越えている。実はこの後、この日の夜、ウルフは行方不明となり、それが今生の別れとなる。二人はまだそのことも知らない。
尻をこするように急な傾斜をおりていくと、勾配はなだらかになり、水際まで遠く広がっている。岩肌には、水際が段階的に後退していったことを示す縞模様が刻印されている。そのなかに水溜りがあった。ダム本体から切り離され、ダムの縮小に取り残されたのだ。黒い水面がぎょろぎょろと動いているように見える。近づいてみると、取り残された無数の魚がひしめいている。魚は恐ろしいほど密集しており、なぜこれで生きていられるのかゴイチには分からない。魚たちは夥しく折り重なり合いながら、懸命に少しでも上に位置しようと絶えず身を入れ替える。水面で口をしばたかせる。「今朝にはまだ、ずっと大きな水たまりだったんだろうな」マサルが言う。「水溜りが縮んだのが急激で、たまたま俺たちがそのときに通りかかったんだよ。もしこれ以上の縮小がなかったとしても永くは持たないだろうが」マサルが鳥の群がりに目を遣る。煮え切り、干上がった窪みに魚が乾いている。ゴイチはダムの水際を覗き込んだ。ダムの水はかつてないほど濃厚になり、黒っぽい緑色に沈んでいる。さらに陽を吸収して煮えたぎるように思える。ゴイチがシューズで地面を蹴り払うと、土煙があがり、流れ、宙にとけ去った。ほんの僅かなゆっくりとした湿った風がダムから岸に向かって吹いている。日没に向かって気温は下がり始め、ダムは熱を放出している。水際の水面には薄く膜が張り、岸の側に皺をよせている。
彼らは一度だけダムを遥か高所から見下ろしたことがある。それは三年前のこと。ゴイチとマサルはまだ中学校の三年生で、今より十センチは身長が低く、ウルフは生まれたばかりの仔犬だった。ダムを囲む山の、斜面の急な部分はコンクリートで塗り固められている。かれらはそこを登攀したのだ。それは容易なことではなかった。頼りになるのは、コンクリートに埋め込まれたコの字型の鉄杭だけだった。掴めるものも、足場になるのも、その梯子状に細長く列をつくっている鉄杭だけだった。恐怖に打ち勝ち、彼らは登った。そして頂上の、ひと休みできるだけの、平らな場所に到達した。そこにあったのは絶景である。まずは正面に空が、そして海が見え、町と靄のかかった田んぼが見えた。眼下には木々が濃緑の分厚い布のように波打ち、窪み、ひだをなす。雲の落とす影がその起伏に合わせて変形しながら布の上を滑っていく。蓄えられた巨大な水は静止しているようでもあり、無造作で複雑な形状をもつこの分厚い布を隅々まで愛撫しているようでもあった。そのときマサルが気付いた。おそらくは落石で、コンクリートの岩壁を削って刻んだ名前。よく知った、同級生三人の名前。ゴイチとマサルよりもずっと体が大きく、運動が得意で、大勢の仲間がいて、学校はとても目立つ三人だ。三人の名は、ずっと睥睨していたのだ。この景色を。息も絶え絶えになって登ってきた彼らを。遅れてやってきて無邪気に感動していたかれらを。マサルは落石のひとつを拾い、力一杯に投げた。それは物憂げに小さくなっていき、岸の近くに着水してやっとのことで目視できるしぶきをあげた。ずっと以前からダムを自らの縄張りと看做してきたかれらは、この日から今まで一度もダムに来ようとはしなかった。
ゴイチは水際に沿って進んだ。顕わになった岩肌は、なにかで見た海底山脈のような鋭い稜線を描いていた。ゴイチはランニングシューズの底を通じて、本来は踏まれるはずのない湖底を感じる。マサルは黙ってゴイチの後ろからついていく。かれらの胸にあの日の敗北が去来する。かれらは入り江を曲がり、弓なりの岸辺に敗北を置き去りにしようとする。ひときわ高い峰を越えると、大きく開けた場所に出た。入口にした位置からは陰になっている、本来の水量ならば来ることのできるはずのない場所である。ここから見た入口も死角になっており、岩の他には木々と黒い水しか見えない。座標が失われ位置関係は今や記憶とだけつながっている。白鷺が背後の森から目の前に躍り出る。ゴイチはマサルを見た。マサルはペットボトルに残った少しの水を飲み干し、袖で汗を拭って、鼻をほじり、指先に突いた物を舐める。それで確認できたかのようにマサルは言う。「ひどい臭いはしなくなったな」その通りだ。それでいて静かだ。とゴイチは思う。蝉時雨もいつのまにか遠のいた。西の空はすでに桃色に染まっている。白鷺は水面近くを飛行して楕円を描く。そして、白鷺は岸の手前で速度を落とし、羽をばたつかせて体を起こし、足を伸ばした。「おい、立ってるぞ」ぼんやりとゴイチがつぶやく。「よく見ろ足下」白鷺には、足場があった。足場は水面すれすれの高さしかなく、広さは、ちょうど、二畳ほどであろうか。二人の立つ岸から僅かに十五メートルほどのところに確かに足場があった。「中州か?」「いや考えにくい。といっても、草のかたまりの浮き島にも見えないな。理屈からいけばありそうなのは粗大ゴミだが」マサルが言い淀む。よくわかる。それは粗大ゴミにも見えなかった。もっと、そこにあるのが当たり前で確固とした物に見えるのだ。ゴイチの全身の産毛が逆立つ。ゴイチは既に裸足になり、上着を脱ぎ始めている。ノーアイウォント、ビーアフレイド。「行くのかよ」マサルが覚悟の準備をしようとする。「お前はここで見ていてくれ」ゴイチはもはやブリーフしか身につけていない。「万一のことがあったら、助けを呼びに走ってくれ」マサルはペットボトルのキャップをきつく締め、ゴイチに投げる。「持って行け。二キロの浮力だ。水中での二キロは生死を分ける」ゴイチは助走に必要な距離だけ岸から下がり、白鷺とその足場を見つめる。メロディが流れている。どちらも歌いはしないけれど、かれらは同じメロディをきいている。ボン、ボン、ボボボン。ゴイチが息をのむ。ボボボン、ボン、ボボボン、ボン。白鷺が再び飛翔する。それが合図となる。ゴイチは出発し加速する。一気に最高速に達し、水際にわずかな痕跡を残して踏み切る。ゴイチの助走路で土煙がもうひとつの痕跡となる。「ホゥエンザナイッ」マサルが叫ぶ。ゴイチは空中にいる。その跳躍は見事。けれどももとより、ひとっ飛びできる距離ではない。マサルは確認する。放物線を描き、くの字型に体を折り曲げ、落下しつつあるゴイチの表情を。一瞬先の着水を恐れていない表情を。
ゴイチは踵から水面を感じた。黒い水が顔面に迫ってくると、最後に目標地点をもう一度確認して、目を閉じた。ペットボトルは脇に固く挟んでいる。大きな音は自らの着水の衝撃。水の中は生暖かい。いまや体全体が水中に没し、まだまだ落下は続いている。岸からこの距離でこの深さ。まだ落下は終わらない。ゴイチの本能が恐怖に捉えられる。落下は終わらない。ゴイチは水中で前進をはじめる。待つだけでは、その落下は永遠に続くように思われたのだ。決してパニックになってはいない。けれど自分が思う通りに体が動いて泳いでいることが、確かめなければならない疑わしいことに思える。それでもその疑わしさのなかでゴイチは前進する。ゴイチは前進する。ゴイチは前進する。
マサルは水面を見つめていた。ゴイチが突入した水面を。水面は静まり、いまや小さな泡も上がってこない。ゴイチのすべての痕跡が消え、マサルはダムでひとりとなる。そこに手が突き出てくる。最初に手が水面から突き出て、その確固たるなにかを掴んだ。次にゴイチの頭が現れ、ペットボトルを掴んだもう一方の手が大空に向かって突き上げられる。「ハズカム」ゴイチは体を持ち上げ足場に立った。足場はびくともしない。それはやはり中州と呼ぶべきものだったのだ。マサルはゴイチが振り返り、雄叫びを上げるのを待った。だがゴイチはマサルの方を振り向かず、中州に立って俯いている。何かを見つけたのかもしれない。
それは穴だった。中州はゴイチが確認できる限りすべて岩でできていた。その中州に洗面器ほどの大きさの垂直な穴があいていた。ゴイチは中州に立ったと同時にその穴を見つけ、釘付けになった。穴はどこまでも深く限りが無いように見える。ゴイチの目は穴の手前から奥に向かって焦点を動かし、底が見えないことを悟って遥か下から焦点を浮上させる。そこでやっとゴイチは穴全体が澄んだ水で満たされていることに気付く。泉である。ゴイチは今度こそ目線まで釘付けとなる。我に返るまで、すべての言葉と行動を失った時間が流れる。自らを取り戻したゴイチが最初にやったことは、ペットボトルのキャップを外すことだった。そしてマサルの方を振り向き、説明するための言葉を探すが、諦め、ペットボトルを掲げて頷いて見せる。ゴイチはしゃがみ、ペットボトルを水に沈める。水は氷のように冷たく、皮膚が切り裂かれそうなほどに清浄だ。いまや恐怖はより強くかれの本能を捉えている。ゴイチは、決して汚れることのないもの、征服されることのないものに接していると感じ、恐怖のなかにもなにか荘厳なものを感じていた。だが、それを死の予感の一種だと気付くには彼は幼な過ぎた。泉の水が、ペットボトルのなかに溜まっていく。鼓動のような音をたてて。それは致命的な恐怖の塊が歩み寄ってくる音かもしれない。だが泉の水はそれをも拒んでいる。落石のエネルギーも、数千の魚たちの怨嗟も、きっぱりと拒絶して寄せ付けないような水だ。
心なしか、マサルの立つ岸が遠のいて見える。陽は没し、夕闇が刻々と深まりつつある。逡巡する時間はない。ゴイチは泉の水で満たしたペットボトルのキャップを再びきつく締める。そして膝をつき、泉に口づけて、その水をひとくちだけ含む。すぐさま踵を返してダムに飛び込む。
ゴイチは見た。夜の高速道路。流星のようなヘッドライト。美しい顔と巨大な図体を持つ新しい相棒が運転するトラック。窓ガラスについた無数の雨粒。大きくなり、周りのいくつかを巻き込んで流れ、筋をつくる。荷台にあるもの。なにか危険なもの。それが相棒にせわしなくハンドルを切らせる。ゴイチはパーキングで買った缶コーヒーを飲んでいる。
ゴイチは見た。うらぶれたアパートの一室。癒えきらない傷と偽物の表札。窓部に腰掛けてぼんやりと眺める表通りのビル。ゴイチはすっかり濃くなった自身の髭を撫でている。網戸には小さな穴があいている。テーブルに置かれたグラスの、気の抜けたサイダー。吸い殻が積もり、零れ落ちている小さなピンクの灰皿。湿った布団の上で女は目覚めており、昨日の化粧をつけており、Tシャツとパンツだけを身につけており、その甘酸っぱい体臭が部屋に充満しており、二人はお互いを愛しているけれどもそれ以上に退屈し、そして疲弊している。
ゴイチは見た。点滅する電光掲示板。改札口まで走って来たゴイチは既に息があがっている。間に合わない。だが、引き止められなくとも、せめて最後にひと目だけは。階段を二段飛ばしに駆け上がる。あろう事か、踏み外し、転倒する。ゴイチはすぐに立ち上がるがその跳躍は衰えを隠せない。その疾走も。ゴイチは走り去る新幹線の背だけを見る。間もなく殺気立った駅員が後ろからゴイチにタックルする。
ゴイチは見た。歩道の植え込みに吐いた自身の反吐を。赤いものが混ざっている。何者かに尻を蹴られ、ゴイチは顔から植え込みに突っ込む。若者の集団が、蹴った一人を諌め、大笑いし、通り過ぎる。ゴイチの、くたびれてはいるものの、とびきり上等な革のジャケットが反吐と血にまみれる。ゴイチは立ち上がる。男四人と女三人の集団である。油断しきっており、もうこちらを見ようともしない。不意をつけば打ちのめすのは容易なことだ。ゴイチが飛びかかろうとしたとき、聞き覚えのある声、それでいて聴こえてくる筈のない声が彼を呼び止める。「仕事だ」振り返ろうとするゴイチの動きを静止し、問いかけをも許さない背中の堅い感触。男はゴイチのジャケットのポケットに何かをねじ込む。「この男を二十日以内に殺せ。そうすればお前のことは組織に黙っておいてやる」衝撃に弾かれ、再びゴイチは植え込みに頭から突っ込む。振り返ると男の姿はどこにもなく、ポケットからは運び屋時代の相棒の写真が現れる。
ゴイチは見た。なけなしの残高を吐きつくす貯金通帳。限度額一杯までキャッシングするクレジットカード。風呂に入って身を清め、スーツをおろし、散髪に行ってからゴイチは故郷の小さなホテルに部屋を取る。陽が落ちるのを待ち、ゴイチはゆっくりと町を歩く。あまりにも時間が流れている。このような田舎町でさえ、道もすっかり変わってしまっている。かつての相棒がなぜこの町に逃げ延びていたのかはわからない。かつての女が一緒について来ているというのが、もっとわからない。だがそれをことさらに責めるつもりはゴイチにはない。ただ、殺すべきかどうかは決めかねている。約束の期限まではもう五十時間を切った。ゴイチはぼんやりと歩き、たまたま目にとまったスナックに入り、バーボンを二杯あけた。そんなゴイチを呼ぶ声がした。「間違いないな。久しぶりじゃねえか」その男はかつての相棒ではなかった。かつてゴイチとマサルよりも早くダム壁の登攀に成功し、その名をコンクリートに刻み付けた三人のうちの一人だった。男はテーブル席の仲間達を放り出してゴイチの隣に座った。「ママ、彼に同じやつもう一杯。俺のこと覚えてるか? ここいらも様変わりしたもんだろう」思わぬ気さくさにゴイチがたじろぐ。しかし数回口をきいたことがあるに過ぎないはずの二人がまるで昔から友人同士だったかのように打ち解けるまでにはバーボンをもう二杯あける時間しか必要とされなかった。夜が深まりスナックの客は彼ら二人だけとなる。ゴイチは唐突に、どうということも無いかのように切り出した。「この写真の男か、それともこっちの女を知らないか?」新しい友人の顔に差した動揺の蔭を見逃すほどにはゴイチは酔っていない。「悪いが何も隠さないでくれ」ゴイチはすでに懐のなかで銃口を向けた拳銃を握っており、それをほんのわずかな動作で新しい友人に仄めかす。「こいつは生き死にの問題なんだ」「だったら尚更譲れんな」新しい友人は毅然として答える。「赤子連れだぞ。それに、どんな理由があろうとも、この町に逃げ込んだ弱いやつを差し出すことはできん」もともと地域の有力者の子であり、半生をここで生きて来た新しい友人の、町を背負うという自負がそこにはあった。ゴイチは黙っている。赤子? そうか。なにも不自然なことはない。「事情を話してみろ。お前にも、力になってやれないことはないかもしれない」それを聞きゴイチは悲しく笑う。拳銃をしまう。立ち上がる。「わかったよ。ごちそうさん」「待てよ。まだ話は終わっちゃいない」話すことなど何もない。分かるべきことのうちで、分かることが可能な部分はすべて分かりきっている。
ゴイチは見た。午前一時のホテルの薄明かり。眠りを脅かしたノック。やがて鍵が何らかの技術で破られる。「約束の時間は過ぎた」男がゆっくり部屋に入ってくる。「組織はお前を許さない。さあ、ついて来てもらおうか」聞こえるはずのない声。ゴイチはその声を聞きたくない。『仕事』を放棄したとき、こうなることは予想できたはずだ。自分は覚悟していたのだろうか。ゴイチは自身に問うこともしない。けれどもゴイチの体は勝手に動く。窓を蹴破り、バルコニーに出る。そこから下の階の部屋のバルコニーまでを軽業で伝う。逆さまになった一瞬に満月を見る。さらにその部屋に闖入、そこから廊下に出る。ゴイチは非常階段を目指す。ジグザグに折り返す非常階段を上りながら、あの日のことを思い出す。二十三年前、ダムで三人の名前に敗北したあの日のことを。二人をダムまで引っぱっていったのは、比類なき名犬、トカレフ。意気消沈の帰り道、トカレフに異変が起きた。足下がふらつき、息が異常に荒いのだ。その症状は、ダムが背負った穢れの顕現のようでもあり、熱射病と脱水症状のようでもあった。トカレフは前かごに乗せられ、ゴイチとマサルはマサルの家に急行する。水を飲ませようとしても、手遅れだった。仔犬が、いままさに息を引き取ろうとする母犬の乳房に吸い付く。最後の一滴の母乳と共に、母犬が背負った穢れのありったけをも引き受ける。それが仔犬の本当の誕生の瞬間となる。以後、仔犬はその誇り高さと毛並みの美しさからウルフと呼ばれるようになる。
このとき非常階段を登っていたのは三人の男と、そして一匹の巨大な獣である。まずはゴイチが屋上に出る。続いて、聞こえる筈のない声を聞かせる男がついにその姿を正面に晒す。「なぜだ」ゴイチが恐怖しながら後ずさる。あまりにも遅過ぎた発問。「なぜなんだ」いるはずのない男が黙ったままじりじりと距離を詰める。月は雲に隠れ、男の姿ははっきりとは確認できない。そこで獣と最後の男が屋上に到着する。三人の男は古い知り合い同士であり、最後の男はゴイチの新しい友人である。そしてここに、この三人の男の、誰一人として知り得ないもうひとつの物語がある。二十年前のことであった。ひどい水不足の年であった。将来、ゴイチの新しい友人となるべき男は、蒸し暑い夜のまどろみに愛犬のわめき声を聞いた気がした。けれども彼の意識はそこで途切れてしまう。彼の愛犬、巨大なるグレート・デーンはただならぬ野蛮な匂いが、紛れもなく自身を目的として迫り来ることを、その野蛮さが一キロメートル先にあるときから気付き、戦慄していた。その野蛮さに触発されるように、彼女の秘められた野生に、火がともる。生まれて初めて全身の筋力を全力で発揮する。その膂力に耐えきれず、彼女の首輪がちぎれる。そしてもう一匹の、首輪を引きちぎってきた犬が現れる。美しい毛並み、誇り高き柴犬のウルフである。体長にして二倍、体重にして四倍の絶望的な戦いが幕を開ける。ウルフは塀に登り、空中から急襲する。電光石火。彼女の耳が千切れる。ウルフは背後をとろうとする。素早さで勝る以外に、万にひとつの勝機もない。だが彼女とて、四倍の筋力。素早さで遅れを取る理由がないのだ。その方向転換に触れるだけでウルフは吹き飛ぶ。今度は彼女が覆いかぶさるようにして襲いかかる。ウルフはそれをすんでの所でかいくぐる。後ろ足に渾身のひと噛みを食らわす。彼女の骨が砕かれる。しかし、そこでウルフは捉えられる。圧倒的な力に仰向けに押さえつけられる。彼女は怒り狂っている。ウルフの鼻先を、同時に前歯を、その巨大な口で正面から噛み砕く。血飛沫。ウルフは声を上げずに悶絶する。そして彼女はゆっくりと、口を大きく開き、ウルフの首を両顎で挟む。少しずつ力を入れていく。牙が食い込む。気道が破壊される。頸骨が砕かれる。だが、まさに最後の瞬間、ウルフは弩漲した肉棒で下から彼女を貫いた。断末魔の陵辱。逆上した彼女は全力を込めてウルフを絶命させる。だがウルフの脳幹は、脊髄が切断されるまさにその刹那、最後の射精の命令をウルフの男根に送った。ウルフの生命情報が彼女のなかで炸裂する。
雲が切れ、月明かりの帯が獣を照らす。ゴイチが新しい友人に尋ねる。この犬は、オレたちが知っている犬によく似ている。こんなに大きくもないし、年老いてもいなかったけれど。新しい友人が答える。この犬の名はポトフ。年齢は二十歳。獣医の話によれば、どうやら柴犬の血を引いているらしい。聞こえる筈のない声が嗚咽を漏らす。いまや満月は十全なる姿をあらわしてる。いるはずのない男の姿は、やはりそこにはない。ただそこには確かにいるはずのない男が存在し嗚咽している。いるはずのない男が聞こえるはずのない言葉で話す。「ウルフ、お前の子孫なのか」ポトフは黄金色の毛を月明かりに輝かせ、長い遠吠えをする。そしてゴイチは確信に至る。この二十年間感じ続けてきた違和感、集積された違和感の到達点。この世界は、存在しない。そのことを正確に言い表す言葉をゴイチはもたない。こんなときゴイチにできるのは飛ぶことだけだ。ゴイチは疾走し、屋上の端から宙に飛んだ。新しい友人がなにか叫んだ。ゴイチは中庭の噴水めがけて墜落する。ゴイチは世界の向こう側を目指した。向こう側まで飛ぼうとしたのだ。けれどもそれには、跳躍がわずかに足らなかったのだ。あとほんのわずかに。「ホゥエンザナイッ」その声で、ゴイチの体は回転を始めた。三十八年に渡る人生の、これが最後の回転になるだろう。そのままゴイチは噴水に突入する。「ハズカム」
岸を掴んだゴイチの手は、自身の体を引き寄せることなく水中に滑り込もうとした。それをすかさずマサルが引っぱり上げる。異常に疲労したゴイチが岸辺に引き上げられ、横たわる。頬を打つと、ゴイチはすぐに意識を取り戻し、少量の泥水を吐いた。ペットボトルは脇に固く挟まっていた。
そして、なんの前触れもなく雨が降り始めた。雨はすぐに大降りとなった。水際は、目に見える早さで前進を始めた。ゴイチとマサルは急いで来た道を戻り、堤防を越えた。ウルフはきちんと座って二人の帰還を待っていた。彼らはシャンパンシャワーのようにして泉の水をかけ合った。また退屈な日々が始まるであろう。ある晩夏のことである。