偏差値30からの、独学、理転、アルバイト生活な大学受験
1
今回は私の大学受験について語ろうかと思います。私は高校2年生までは、ただの弱いヤンキーだったので、もし大学に進まなければ、大きく道を踏み外していた可能性があります。
それこそ、オレオレ詐欺とかやるような人生を歩んでいたかもしれません。
その、人生の一大転機となったのが、
当時好きだったYちゃんと同じクラスになるために、高二から高三になるときに、文系から理系に移ったことです。
そもそも、これが制度的に可能な高校って少ないですよね? 古き良き時代の、大らかな田舎の話です。
そもそも高校入試の偏差値が50を切るような学校でした。私はその中で、ぶっちぎりで文系ビリの成績でした。大体、高ニになるときに文系クラスを希望した理由も、高一のときに好きだったKちゃんと同じクラスになろうとしたからでした。
本当は将来やりたいことなんか何もなくて困っていたのですが、理系を希望する理由として「おれは大学で物理を勉強したいんじゃい」という大嘘をぶち上げました。
担任が家庭訪問に来ました。私のためだけの会議が何回も開かれたそうです。
反対派の先生たちからは、かなり酷いことを言われました。
「お前なんか大学に行けるわけがない」
「お前に物理が分かるはずがない」
「お前に微分積分が分かるはずがない」
まあ、そう言われても仕方がないほど素行が悪かったので、恨む気持ちはないのですが、彼らの、生徒の素質を見抜く能力にはちょっと疑問をもってしまいます。
結果、看護系の子とかが集まる文理クラス的なところに入れられて、理系なんだけど数Ⅲと数Cの授業が受けられないコースにぶち込まれました。Yちゃんと同じクラスになれなかったので、全く意味がありませんでした。
しかし、嘘から出たマコトとでも言えばいいのか、いろいろあって、最終的には、本当に大学で物理学を学ぼうという気持ちになりました。
虫歯天使は、思春期になってからは、女の子にばかり興味が行ってしまったり、非行少年化したりして大変だったのですが、小学5年生くらいの時期は、図書館の理科コーナーの本を全部読んでしまうくらい、理科好きの子供だったのです。もともと。で、原点回帰したっていうことなんでしょうね。
Yちゃんは、学校で1番有名な美少女でした。しかも全然彼氏をつくらないので、本当にアイドル的存在でした。
しかし私は、父親同士が同じ職場で大変仲が良く、しかも共通の女友達がいたので、一緒にカラオケに行ったりできるという超おいしいポジションを確保していました。
調子に乗って、高2のときに、告白して、フラれてしまいましたが、開き直って、好き好きアタックを繰り返しておりました。
まあ、全く相手にされていなかったのですが、Yちゃんこそ、私が「この世界は生きるに値する」と思わせてくれた人(の中の筆頭)です。
高3の終わり頃になってとうとう本当に勉強をし始めたのですが、大学受験に間に合うはずがありません。
ちなみに、私の実家は超ど田舎。陸の孤島です。一番近い大学までバスで3時間かかります。そのため、センター試験は学校で泊まりがけの旅行で受けに行きました。
そういう地域なんで、大学進学=実家から出るっていうことになります。だから、学費+下宿代は必須になるわけで、ある程度裕福な家でないと、なかなか私立大学には行かせてもらえなかったんですね。
うちは貧乏ではありませんでしたが裕福というほどでもなく、やはり大学は国公立でないとダメと言われました。
私自身、高校時代は好き放題に遊んでいたので、今更私学に行くお金を出してほしいというのもどうかと思いました。
また、種違いの弟2人が自分の部屋をもっていないのに、私だけ小学校1年生から1人部屋が与えられていたのも、可哀想に思いました。
なので、高校卒業後は、とりあえず実家を出て都会にアルバイト生活をし、自分で勉強して、1年間浪人することに決めました。
これにはさすがに、親、先生、親戚から猛反対をくらいました。受かる筈がないと。それでは何年やっても受からないと。しかし何故か、私は自信満々でした。
卒業後の二日後だったと思います。学校から電話をかけまくったら、東京のすぐ近くで、新聞奨学生の枠が急遽空いた場所があることが分かり、次の日の朝には生まれ育った地元を発つことが決まりました。
早朝、まだ元気だったばあちゃんが、自転車に乗ってバス停まで見送りに来てくれました。ばあちゃんと握手を交わして、私はバスに乗り込みました。
バスは動き出しました。バスから見える海がキラキラと輝き、自分がこんな美しい場所で育ったことを誇らしく思いました。
そうして、隣町のバス停まで来たとき、私の目に信じられない光景が浮かびました。
なんと、一緒にカラオケに通っていたグループが、見送りに集まっていてくれていたのです。
その中にYちゃんもいました。
私は、バスを駆け下り、一人一人と思いっきりハグしました。そのノリで、ちゃっかりYちゃんにもハグしました。
当然、バスは動き出したのですが、ダッシュで追いかけて停めました。
この話には、ちょっと裏があるというか、
Yちゃんの家がバス停の目の前っていうウルトラ幸運があったのです。
でなきゃ、来てくれるキャラではないですww
バスは山道に入り、どんどん進んでいきます。私はとても寂しい気持ちになりました。両手で輪をつくると、まだYちゃんのぬくもりが感じられるようでした。まだYちゃんが、その輪の中にいるようでした。
Yちゃんといえば、忘れられない思い出がいくつもあります。
高校生活も大詰めの、冬の時期でした。けっこう雪が降る地域で、その日も大雪が降り始めていました。
夜遅くまで学校に残って勉強していて、帰ろうとしたとに、玄関でばったりYちゃんに会いました。本当は、Yちゃんが帰るタイミングを狙った待ち伏せだったのですが。しかも勉強しながら待っていたというようより、待っている時間のほんの一部、勉強もしたかな? ていう感じだったのですが。
坂の上にある高校だったのですが、坂道をYちゃんの傘で相合傘をして歩きました。まばらな電灯に、舞い落ちる雪が乱反射して丸く光っていました。坂道には足跡ひとつなく、振り返ると、私たちの足跡も、すぐに雪が消していきました。
私はきっと、この先の人生で何があっても、この光景を忘れることはないだろうと思いました。
2
そして私の浪人生活が始まりました。
新聞配達ですが、バイクに乗るのが怖かったので、自転車でやり通しました。バイク用に区域分けされていたので、体力使うっていう意味ではけっこうハンパなかったです。
朝3時くらいに起きて、チラシを挟む作業をして、それから7時近くまで配達します。16時頃からは夕刊の配達です。集金作業はその間に行なわなければなりません。
寂しくて、辛かったです。作業所では有線放送で、イエローモンキーの「青春」が流れていました。私はそれを聴きながら、終わってしまった青春=高校時代=仲間たち+みんな可愛いかった女友達+Yちゃん、を思い出して涙ぐむのでした。
浪人と言っても予備校に通うでもなく、そもそも
高校時代までに、ろくに勉強習慣もついていなかったのです。そんな人間が、いきなり沢山勉強できるわけがありません。
平均すると、せいぜい1日1時間程度が限界でした。
仕事はキツかったのですが、一人で勉強するストレスの方がシャレにならないレベルだったので、体を動かしてしたことは良かったかもしれません。自転車を漕ぐ時間は、大体週6で、6時間以上。ムチャクチャ太腿が太くなって心肺機能が高まりましたね。
都会に出てきて、はじめて予備校というものの存在を知り(言葉は知っていたがどういう所か知らなかった)ました。予備校に通っている、同年代の若者達は皆、小綺麗な格好をしているように見え、彼らを羨まずにはいられませんでした。
私の配達区域には、ソープ街が入っていて、溢れる性欲で悶々としている18〜19歳の私にとっては、刺激強過ぎな感じでした。ほんとに石鹸の匂いしてたもんな。
雨の日に、タイヤがすべって、自転車が倒れ、道路に新聞を撒き散らしてしまったことがありました。そしたら、呼び込みのオッチャンが、一緒になって新聞を拾ってくれて、泣きそうになりました。さらにオッチャンは
「ちょっと濡れた新聞は、乾いてるやつに挟んどけば、だいぶ復活するから。おれも昔、新聞配達してたから分かるんや」
って。
あと思い出深いのは、配達区域内の分譲マンションで一人暮らししている一歳上(!)の、売れっ子キャバ嬢と、ちょっと仲良くなったことですね。キャバ嬢さんは、お客さんと話合わせるために新聞ちゃんと読むようにしてたんです。集金に行ってしゃべったら仲良くなりました。しゃべるの上手だから、ホストかバーテンダー紹介してあげようかって言われたんですけど、その世界に入ったら戻ってこれなくなりそうだったので、お断りしましたw
それで、肝心の受験勉強の方はどうなったかというと…
◯国語
こちらはセンターのマーク試験のみです。私は何回か真剣に模試を受けてみて、自分が現代文に対して、かなり優れたセンスをもっていることに気づきました。
そもそも子供時代は本好きでしたからね。ただ、記述問題だと、記述の仕方が独特過ぎて点が取れず、学校の試験では自分が国語のセンス抜群であることに気付けなかったのです。
マーク問題なら現代文は毎回満点に近い点数でした。
あとは「マドンナ古文単語」で古文単語だけを暗記して、漢文と古典文法はセンスのみで勝負しました。それで、毎回偏差値60を越えていたので、最も得意な教科だったと言えます。
しかし本番では古典、漢文が取れず、全国平均的程度でした。
◯数学
結局一度も数学Ⅲ、Cの授業を受けないまま卒業してしまったのですが、そもそも、どの教科も0点くらいレベルからスタートしたので、そのことはあまり気にしていませんでした。
そして、数学Ⅰから順番に教科書を全部読んだ結果、私は教科書に書いてあることをだいたい全て理解できました。
そして、その内容は非常に素晴らしく、感動的でした。これらを考え出した人間は自分と比較にならないほど頭が良いことを認めざるを得ませんでした。この体験は私という人間を変えました。
美しい女の子以外の理由でも、人生は生きるに値する、そして学問は学ぶに値する、そういう気持ちになれました。
後は、模試を受けていくうちに、マークでも記述でもだいたい偏差値50くらいはとれるようになりました。
今なら問題練習の大切さが分かるのですが、当時の勉強法はほとんど「読んで理解する」のみ。勉強習慣や、経験がない人間が独学すると、こういう間違いを犯すんです。我ながら、よく何とかなったものだなあ。
◯理科
物理は我ながら、最初からセンスが光っていました。私は教科書をざっと読んだだけで、高3から始めた物理で高3の夏頃には記述模試でもマーク模試でも、偏差値55くらいとれていました。ただ、勉強時間を割かなかったせいでそれ以上伸びませんでした。浪人したのに、やった問題集は「橋下流解法の大原則1,2」のみです。これ、すごく問題数の少ない参考書です。センターはイマイチでしたが、それでも二次試験はおそらく満点に近かったのでは、と思います。
化学は苦手で、苦手なまま行ってしまいました。偏差値は45くらいだったかと。これは、数学、物理もそうなのですが、もっと絶望的にできない教科があったので後回しにされてしまったのです。
大学で知識を増やし、塾講師などをやるようになって、後に分かったことですが、数学と違って、物理も化学も、教科書を最初から順番に全部読めば分かるように書いてあるとは言い難いと思います。読んだ方が絶対良いけど、それだけで大学受験をするのは厳しいです。
そういったこともあってか、大学受験の時点では、物理を勉強しても、子供の頃に読書で理科にハマっていたときほどの感動や興奮はありませんでした。
大学に入ってからは、沢山あったので良かったです。
そして、私が絶望的にできなかったのは、社会と英語でした。しかも情弱の極みであった私は、倫理•政経を選択せず、日本史に挑戦してしまったのでした。
と、言うわけで、私の勉強時間は、たぶん8割以上、日本史と英語に割かれることになったのでした。理系なのにww
◯日本史
教科書を読んでも、なかなか頭に入ってこず、すぐに何が何だか分からなくなってしまうので、私が選んだのは山川出版の一問一答でした。
何が書いてあるのかよく分からないなら、よく分からないまま丸暗記してしまえば良いじゃない!
勉強方法としては下の下ですが、独学な上に良い問題集などの情報にも乏しかったので、ゴリゴリの丸暗記で貫きました。
浪人生活を通して模試は、たぶん2回くらいしか受けていないのですが、日本史はどんどん成績が上がり、センター試験本番ではなんと89点を取りました!
理解は非常に浅かったし、漢字が書けないので、記述問題だと全国平均点に届くかどうかも怪しいのですが、センター試験だけは乗り越えました。そして、そのとき覚えた内容は、光の速さで忘れてしまいました。
そして私が最も苦戦した教科、それは、もっとも独学が困難であり、教科書を最初から読むという方法がほぼ通用しない教科です。
それはズバリ、英語でした。
3
私はそもそも、英語は中学2年くらいですでにつまずいていました。
そこからさらに高校3年間で状態は悪化し、新たに学んだぶんよりも、忘れて抜けていった分の方が多いような状態でしたから、それはそれは酷い状況でした。
例えば、こんなことがありました。
高3から理転というムチャクチャを通したとき、私は少しは授業でやる気を見せようとしたのです。
担任が英語の先生だったので、言いつけにしたがって「英語の予習」なるものをやろうとしました。それは、要するに、知らない単語の意味を予め調べておくというだけのことなのですが、
be動詞以外の単語で私が分かるものはほんの少ししかありませんでした。
1回の授業で進む分の予習だけで、調べなければいけない単語が少なくとも50個はあったと思います。しかも、私が英和辞典を引いてみたのはその時が初めてでした。ムキになって30時間くらい調べ続けたのですが、調べ切ることはできず、
「少なくともこの勉強方法では絶対に追いつくことはできない」
と確信しました。
しかし、それ以外の良い方法、つまり普通に予習して授業を受ける以外の良い方法が見つかることもなく、私の英語は絶望的な状態でした。
私の運命を変えたのは、卒業式直後に、保育園からの幼馴染であるK氏が薦めてくれた「DUO」でした。あれを持って上京したことが、私の運命を分けたと思います。
「単語だけ覚えても駄目。長文や例文の中で覚えなさい」
とは、英語教師がよく言うことですが、これに対して、英検2級まで自分で勉強した現時点での私の見解を申し上げます。
①予習と授業というサイクルで語彙力をつけることができれば確かに最強。しかし、それは中1から一度もつまずかなかった人間のみが可能なこと。
②暗記が得意ならば1000や2000程度の単語を覚えることは可能。しかし2000例文を覚えるのは一年間では極めて困難。
そこで重要単語、重要熟語合計2500くらいをわずか500くらいの「圧縮例文」に収めた画期的な英単語帳が「DUO」だったのでした。ちょっとこの辺、数がテキトーな概数になっていますが、私が使っていたのが、現在販売されている「DUO3.0」ではなく古い「DUO 2.0」だったので、もはや手元になく、確認できないのです。
K氏がグッジョブだったのは、ちゃんとCDをつけてプレゼントしてくれたことでした。これにより、私は当たり前のように、「音声を聴いて例文を覚える」という勉強の仕方になりました。それだけではスペリングはできませんが、英語はセンター試験だけなので、読めれば良いのです。
私は元々、丸暗記が得意な上に、特に耳で聞いたことを覚えるのが得意だったのかもしれません。
昔、好きだった曲とか、今でもほとんど歌詞覚えていますから。
そして、500もの例文を丸暗記することで、「長文の大意をつかむのに最低限必要な程度の英文法」がフィーリングとして身につきました。
私にとっては「英文法の説明」なるものは、用語の定義が曖昧で、論理性に欠け、しかもルールがある筈なのに例外ばかり出題されるという、極めて不条理で理解し難いものです。
この認識は、英検2級の筆記試験をかなり高得点で合格した現在でも変わりません。
しかし「500個の例文から法則性を読み取る」ことは、私にとってはそれほど難しくはなかったのだと思います。私はそもそも、授業も聞いてなくて何ひとつ勉強してなくてもマーク試験なら現代文がほとんど満点という人間でしたから、もともと言語的なセンスが部分的に非常に優れていたのでしょう。我ながら。
そして、底辺オブ底辺から始まった私の英語は、ほぼ完全な独学によって、浪人して受けたセンター試験では、全国平均的を10点ほど上回るところまで伸びたのでした。
そして私は、地方の、比較的簡単な国公立大学に合格したのでした。
私は国公立の二次試験の前期日程を、現役のときに一校(ほぼ記念受験)、浪人のときに一校(A判定だったので十分かな、と)受けました。私学は受けていないので、私が受けた大学個別試験はこの二つだけです。
決して難関などではありませんが、そもそも私の高校から国公立大学など、学年で10人も受からなかったんです。私はその中で、ビリの成績だった人間なのです。
それは、かなり控えめに言っても、親教師親戚など、誰1人予想していなかった、超ウルトラスーパーミラクルでした。
4
大学受験編、最後は勉強の話ではありません。
勉強頑張ると、こんな良いこともあるっていう話です。
最後の配達の仕事を終え、荷物をまとめて、実家へと凱旋帰郷する準備が整いました。
あまり差別的なことは言いたくありませんが(そもそも自分自身がそこで働いていたわけだし)、新聞販売所って、けっこう給料が安い仕事なせいか、危ない感じの人や、とんでもなく頭が悪い人、とか、それから外国人の人などが居ます。
まあ、たまたま私の周辺がそうだっただけかもしれませんし、あの時代だったからこそなのかもしれません。私自体が元ヤンだったわけですし。
その新聞販売所で、新聞奨学生が大学に合格したのは10年振りくらいだったそうです。色んな人がいましたが、最後はみんなで祝ってくれました。
そして、都会で過ごす最後の夜、私は電車に乗って新宿に向かいました。
なんと東京の有名私立大学に進学していたYちゃんが、合格のお祝いに、食事に付き合ってくれたのです。
あのYちゃんです。高校のアイドルで、私が理転したきっかけであり、結局は大学を目指すことになって、思いっきり踏み外していた人生を、修正するきっかけになったYちゃんと、なんと新宿でデート(?)することになったのです。
有頂天の夜でした。
料理のうまいことうまいこと。まだ19でしたが、ちゃっかりワインも頼んじゃって。
店員さんと
「もしかして、ソムリエさんですか?」
「ソムリエも兼ねております」
「すげー! ソムリエって実在するんだ!」
とかいうアホ丸出しのテンションでした。
私は、ひたすら、この底辺オブ底辺からのチャレンジを成功させたことについての、自慢話をし続けました。
Yちゃんは笑ってきいてくれていたと思います。Yちゃんは髪を栗色にして、いっそうキレイになっていました。
料理の中に、なんだかよく分からないものが入っていて
「なんだこれ?」
「オリーブよ」
という会話をしたのを覚えています。
楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。駅に戻る道で、会話の詳細は覚えていないのですが、たぶん、私がポロッと、この一年間どれだけ過酷で、どれだけ孤独で、どれだけ不安だったのか、本当は辛くて仕方がなかったというようなことを言ってしまった記憶があります。
食事してる間は基本的に「おれ様にとっては余裕だったぜー!」的な話をし続けていたのですが。
そしたら、Yちゃんが頭をナデナデしてくれました。ヨシヨシしてもらったんです。
そのとき、私は全てが報われた、という気持ちになりました。
「おれ、これからも頑張って、どんどん凄くなっていくから! そしたらまたこうやって、頭ナデナデしてくれる?」
Yちゃんは静かに微笑んでいました。
駅で別れ、帰りの電車の中、酔った頭でぼーっとしながら、大都会の最後の夜景を満ち足りた気持ちで眺めるながら帰りました。
夜景と重なるように、色んなことが思い出されてきました。
学校から脱走しまくっていた高校生活。
Yちゃんたちと行ったカラオケ。
Yちゃんに告白したこと。
Yちゃんと同じクラスになろうとして、大学受験を宣言し、理転したこと。
Yちゃんと雪の降る中を、相合傘で歩いたこと。
バス停にYちゃん達が来てくれたこと。
ひたすら新聞を配ったこの1年間。
ついさっきまでの夢のような時間。
私は自分の人生の中で、何かが終わったと思いました。
さようなら。
さようなら。
さようなら。
丸谷才一「笹まくら」から文章をパクらせていただくとこういう感じです。
それが何に対する、どれほど決定的な別れなのか、若者にはまだ分かる筈もなかった。1
今回は私の大学受験について語ろうかと思います。私は高校2年生までは、ただの弱いヤンキーだったので、もし大学に進まなければ、大きく道を踏み外していた可能性があります。
それこそ、オレオレ詐欺とかやるような人生を歩んでいたかもしれません。
その、人生の一大転機となったのが、
当時好きだったYちゃんと同じクラスになるために、高二から高三になるときに、文系から理系に移ったことです。
そもそも、これが制度的に可能な高校って少ないですよね? 古き良き時代の、大らかな田舎の話です。
そもそも高校入試の偏差値が50を切るような学校でした。私はその中で、ぶっちぎりで文系ビリの成績でした。大体、高ニになるときに文系クラスを希望した理由も、高一のときに好きだったKちゃんと同じクラスになろうとしたからでした。
本当は将来やりたいことなんか何もなくて困っていたのですが、理系を希望する理由として「おれは大学で物理を勉強したいんじゃい」という大嘘をぶち上げました。
担任が家庭訪問に来ました。私のためだけの会議が何回も開かれたそうです。
反対派の先生たちからは、かなり酷いことを言われました。
「お前なんか大学に行けるわけがない」
「お前に物理が分かるはずがない」
「お前に微分積分が分かるはずがない」
まあ、そう言われても仕方がないほど素行が悪かったので、恨む気持ちはないのですが、彼らの、生徒の素質を見抜く能力にはちょっと疑問をもってしまいます。
結果、看護系の子とかが集まる文理クラス的なところに入れられて、理系なんだけど数Ⅲと数Cの授業が受けられないコースにぶち込まれました。Yちゃんと同じクラスになれなかったので、全く意味がありませんでした。
しかし、嘘から出たマコトとでも言えばいいのか、いろいろあって、最終的には、本当に大学で物理学を学ぼうという気持ちになりました。
虫歯天使は、思春期になってからは、女の子にばかり興味が行ってしまったり、非行少年化したりして大変だったのですが、小学5年生くらいの時期は、図書館の理科コーナーの本を全部読んでしまうくらい、理科好きの子供だったのです。もともと。で、原点回帰したっていうことなんでしょうね。
Yちゃんは、学校で1番有名な美少女でした。しかも全然彼氏をつくらないので、本当にアイドル的存在でした。
しかし私は、父親同士が同じ職場で大変仲が良く、しかも共通の女友達がいたので、一緒にカラオケに行ったりできるという超おいしいポジションを確保していました。
調子に乗って、高2のときに、告白して、フラれてしまいましたが、開き直って、好き好きアタックを繰り返しておりました。
まあ、全く相手にされていなかったのですが、Yちゃんこそ、私が「この世界は生きるに値する」と思わせてくれた人(の中の筆頭)です。
高3の終わり頃になってとうとう本当に勉強をし始めたのですが、大学受験に間に合うはずがありません。
ちなみに、私の実家は超ど田舎。陸の孤島です。一番近い大学までバスで3時間かかります。そのため、センター試験は学校で泊まりがけの旅行で受けに行きました。
そういう地域なんで、大学進学=実家から出るっていうことになります。だから、学費+下宿代は必須になるわけで、ある程度裕福な家でないと、なかなか私立大学には行かせてもらえなかったんですね。
うちは貧乏ではありませんでしたが裕福というほどでもなく、やはり大学は国公立でないとダメと言われました。
私自身、高校時代は好き放題に遊んでいたので、今更私学に行くお金を出してほしいというのもどうかと思いました。
また、種違いの弟2人が自分の部屋をもっていないのに、私だけ小学校1年生から1人部屋が与えられていたのも、可哀想に思いました。
なので、高校卒業後は、とりあえず実家を出て都会にアルバイト生活をし、自分で勉強して、1年間浪人することに決めました。
これにはさすがに、親、先生、親戚から猛反対をくらいました。受かる筈がないと。それでは何年やっても受からないと。しかし何故か、私は自信満々でした。
卒業後の二日後だったと思います。学校から電話をかけまくったら、東京のすぐ近くで、新聞奨学生の枠が急遽空いた場所があることが分かり、次の日の朝には生まれ育った地元を発つことが決まりました。
早朝、まだ元気だったばあちゃんが、自転車に乗ってバス停まで見送りに来てくれました。ばあちゃんと握手を交わして、私はバスに乗り込みました。
バスは動き出しました。バスから見える海がキラキラと輝き、自分がこんな美しい場所で育ったことを誇らしく思いました。
そうして、隣町のバス停まで来たとき、私の目に信じられない光景が浮かびました。
なんと、一緒にカラオケに通っていたグループが、見送りに集まっていてくれていたのです。
その中にYちゃんもいました。
私は、バスを駆け下り、一人一人と思いっきりハグしました。そのノリで、ちゃっかりYちゃんにもハグしました。
当然、バスは動き出したのですが、ダッシュで追いかけて停めました。
この話には、ちょっと裏があるというか、
Yちゃんの家がバス停の目の前っていうウルトラ幸運があったのです。
でなきゃ、来てくれるキャラではないですww
バスは山道に入り、どんどん進んでいきます。私はとても寂しい気持ちになりました。両手で輪をつくると、まだYちゃんのぬくもりが感じられるようでした。まだYちゃんが、その輪の中にいるようでした。
Yちゃんといえば、忘れられない思い出がいくつもあります。
高校生活も大詰めの、冬の時期でした。けっこう雪が降る地域で、その日も大雪が降り始めていました。
夜遅くまで学校に残って勉強していて、帰ろうとしたとに、玄関でばったりYちゃんに会いました。本当は、Yちゃんが帰るタイミングを狙った待ち伏せだったのですが。しかも勉強しながら待っていたというようより、待っている時間のほんの一部、勉強もしたかな? ていう感じだったのですが。
坂の上にある高校だったのですが、坂道をYちゃんの傘で相合傘をして歩きました。まばらな電灯に、舞い落ちる雪が乱反射して丸く光っていました。坂道には足跡ひとつなく、振り返ると、私たちの足跡も、すぐに雪が消していきました。
私はきっと、この先の人生で何があっても、この光景を忘れることはないだろうと思いました。
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そして私の浪人生活が始まりました。
新聞配達ですが、バイクに乗るのが怖かったので、自転車でやり通しました。バイク用に区域分けされていたので、体力使うっていう意味ではけっこうハンパなかったです。
朝3時くらいに起きて、チラシを挟む作業をして、それから7時近くまで配達します。16時頃からは夕刊の配達です。集金作業はその間に行なわなければなりません。
寂しくて、辛かったです。作業所では有線放送で、イエローモンキーの「青春」が流れていました。私はそれを聴きながら、終わってしまった青春=高校時代=仲間たち+みんな可愛いかった女友達+Yちゃん、を思い出して涙ぐむのでした。
浪人と言っても予備校に通うでもなく、そもそも
高校時代までに、ろくに勉強習慣もついていなかったのです。そんな人間が、いきなり沢山勉強できるわけがありません。
平均すると、せいぜい1日1時間程度が限界でした。
仕事はキツかったのですが、一人で勉強するストレスの方がシャレにならないレベルだったので、体を動かしてしたことは良かったかもしれません。自転車を漕ぐ時間は、大体週6で、6時間以上。ムチャクチャ太腿が太くなって心肺機能が高まりましたね。
都会に出てきて、はじめて予備校というものの存在を知り(言葉は知っていたがどういう所か知らなかった)ました。予備校に通っている、同年代の若者達は皆、小綺麗な格好をしているように見え、彼らを羨まずにはいられませんでした。
私の配達区域には、ソープ街が入っていて、溢れる性欲で悶々としている18〜19歳の私にとっては、刺激強過ぎな感じでした。ほんとに石鹸の匂いしてたもんな。
雨の日に、タイヤがすべって、自転車が倒れ、道路に新聞を撒き散らしてしまったことがありました。そしたら、呼び込みのオッチャンが、一緒になって新聞を拾ってくれて、泣きそうになりました。さらにオッチャンは
「ちょっと濡れた新聞は、乾いてるやつに挟んどけば、だいぶ復活するから。おれも昔、新聞配達してたから分かるんや」
って。
あと思い出深いのは、配達区域内の分譲マンションで一人暮らししている一歳上(!)の、売れっ子キャバ嬢と、ちょっと仲良くなったことですね。キャバ嬢さんは、お客さんと話合わせるために新聞ちゃんと読むようにしてたんです。集金に行ってしゃべったら仲良くなりました。しゃべるの上手だから、ホストかバーテンダー紹介してあげようかって言われたんですけど、その世界に入ったら戻ってこれなくなりそうだったので、お断りしましたw
それで、肝心の受験勉強の方はどうなったかというと…
◯国語
こちらはセンターのマーク試験のみです。私は何回か真剣に模試を受けてみて、自分が現代文に対して、かなり優れたセンスをもっていることに気づきました。
そもそも子供時代は本好きでしたからね。ただ、記述問題だと、記述の仕方が独特過ぎて点が取れず、学校の試験では自分が国語のセンス抜群であることに気付けなかったのです。
マーク問題なら現代文は毎回満点に近い点数でした。
あとは「マドンナ古文単語」で古文単語だけを暗記して、漢文と古典文法はセンスのみで勝負しました。それで、毎回偏差値60を越えていたので、最も得意な教科だったと言えます。
しかし本番では古典、漢文が取れず、全国平均的程度でした。
◯数学
結局一度も数学Ⅲ、Cの授業を受けないまま卒業してしまったのですが、そもそも、どの教科も0点くらいレベルからスタートしたので、そのことはあまり気にしていませんでした。
そして、数学Ⅰから順番に教科書を全部読んだ結果、私は教科書に書いてあることをだいたい全て理解できました。
そして、その内容は非常に素晴らしく、感動的でした。これらを考え出した人間は自分と比較にならないほど頭が良いことを認めざるを得ませんでした。この体験は私という人間を変えました。
美しい女の子以外の理由でも、人生は生きるに値する、そして学問は学ぶに値する、そういう気持ちになれました。
後は、模試を受けていくうちに、マークでも記述でもだいたい偏差値50くらいはとれるようになりました。
今なら問題練習の大切さが分かるのですが、当時の勉強法はほとんど「読んで理解する」のみ。勉強習慣や、経験がない人間が独学すると、こういう間違いを犯すんです。我ながら、よく何とかなったものだなあ。
◯理科
物理は我ながら、最初からセンスが光っていました。私は教科書をざっと読んだだけで、高3から始めた物理で高3の夏頃には記述模試でもマーク模試でも、偏差値55くらいとれていました。ただ、勉強時間を割かなかったせいでそれ以上伸びませんでした。浪人したのに、やった問題集は「橋下流解法の大原則1,2」のみです。これ、すごく問題数の少ない参考書です。センターはイマイチでしたが、それでも二次試験はおそらく満点に近かったのでは、と思います。
化学は苦手で、苦手なまま行ってしまいました。偏差値は45くらいだったかと。これは、数学、物理もそうなのですが、もっと絶望的にできない教科があったので後回しにされてしまったのです。
大学で知識を増やし、塾講師などをやるようになって、後に分かったことですが、数学と違って、物理も化学も、教科書を最初から順番に全部読めば分かるように書いてあるとは言い難いと思います。読んだ方が絶対良いけど、それだけで大学受験をするのは厳しいです。
そういったこともあってか、大学受験の時点では、物理を勉強しても、子供の頃に読書で理科にハマっていたときほどの感動や興奮はありませんでした。
大学に入ってからは、沢山あったので良かったです。
そして、私が絶望的にできなかったのは、社会と英語でした。しかも情弱の極みであった私は、倫理•政経を選択せず、日本史に挑戦してしまったのでした。
と、言うわけで、私の勉強時間は、たぶん8割以上、日本史と英語に割かれることになったのでした。理系なのにww
◯日本史
教科書を読んでも、なかなか頭に入ってこず、すぐに何が何だか分からなくなってしまうので、私が選んだのは山川出版の一問一答でした。
何が書いてあるのかよく分からないなら、よく分からないまま丸暗記してしまえば良いじゃない!
勉強方法としては下の下ですが、独学な上に良い問題集などの情報にも乏しかったので、ゴリゴリの丸暗記で貫きました。
浪人生活を通して模試は、たぶん2回くらいしか受けていないのですが、日本史はどんどん成績が上がり、センター試験本番ではなんと89点を取りました!
理解は非常に浅かったし、漢字が書けないので、記述問題だと全国平均点に届くかどうかも怪しいのですが、センター試験だけは乗り越えました。そして、そのとき覚えた内容は、光の速さで忘れてしまいました。
そして私が最も苦戦した教科、それは、もっとも独学が困難であり、教科書を最初から読むという方法がほぼ通用しない教科です。
それはズバリ、英語でした。
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私はそもそも、英語は中学2年くらいですでにつまずいていました。
そこからさらに高校3年間で状態は悪化し、新たに学んだぶんよりも、忘れて抜けていった分の方が多いような状態でしたから、それはそれは酷い状況でした。
例えば、こんなことがありました。
高3から理転というムチャクチャを通したとき、私は少しは授業でやる気を見せようとしたのです。
担任が英語の先生だったので、言いつけにしたがって「英語の予習」なるものをやろうとしました。それは、要するに、知らない単語の意味を予め調べておくというだけのことなのですが、
be動詞以外の単語で私が分かるものはほんの少ししかありませんでした。
1回の授業で進む分の予習だけで、調べなければいけない単語が少なくとも50個はあったと思います。しかも、私が英和辞典を引いてみたのはその時が初めてでした。ムキになって30時間くらい調べ続けたのですが、調べ切ることはできず、
「少なくともこの勉強方法では絶対に追いつくことはできない」
と確信しました。
しかし、それ以外の良い方法、つまり普通に予習して授業を受ける以外の良い方法が見つかることもなく、私の英語は絶望的な状態でした。
私の運命を変えたのは、卒業式直後に、保育園からの幼馴染であるK氏が薦めてくれた「DUO」でした。あれを持って上京したことが、私の運命を分けたと思います。
「単語だけ覚えても駄目。長文や例文の中で覚えなさい」
とは、英語教師がよく言うことですが、これに対して、英検2級まで自分で勉強した現時点での私の見解を申し上げます。
①予習と授業というサイクルで語彙力をつけることができれば確かに最強。しかし、それは中1から一度もつまずかなかった人間のみが可能なこと。
②暗記が得意ならば1000や2000程度の単語を覚えることは可能。しかし2000例文を覚えるのは一年間では極めて困難。
そこで重要単語、重要熟語合計2500くらいをわずか500くらいの「圧縮例文」に収めた画期的な英単語帳が「DUO」だったのでした。ちょっとこの辺、数がテキトーな概数になっていますが、私が使っていたのが、現在販売されている「DUO3.0」ではなく古い「DUO 2.0」だったので、もはや手元になく、確認できないのです。
K氏がグッジョブだったのは、ちゃんとCDをつけてプレゼントしてくれたことでした。これにより、私は当たり前のように、「音声を聴いて例文を覚える」という勉強の仕方になりました。それだけではスペリングはできませんが、英語はセンター試験だけなので、読めれば良いのです。
私は元々、丸暗記が得意な上に、特に耳で聞いたことを覚えるのが得意だったのかもしれません。
昔、好きだった曲とか、今でもほとんど歌詞覚えていますから。
そして、500もの例文を丸暗記することで、「長文の大意をつかむのに最低限必要な程度の英文法」がフィーリングとして身につきました。
私にとっては「英文法の説明」なるものは、用語の定義が曖昧で、論理性に欠け、しかもルールがある筈なのに例外ばかり出題されるという、極めて不条理で理解し難いものです。
この認識は、英検2級の筆記試験をかなり高得点で合格した現在でも変わりません。
しかし「500個の例文から法則性を読み取る」ことは、私にとってはそれほど難しくはなかったのだと思います。私はそもそも、授業も聞いてなくて何ひとつ勉強してなくてもマーク試験なら現代文がほとんど満点という人間でしたから、もともと言語的なセンスが部分的に非常に優れていたのでしょう。我ながら。
そして、底辺オブ底辺から始まった私の英語は、ほぼ完全な独学によって、浪人して受けたセンター試験では、全国平均的を10点ほど上回るところまで伸びたのでした。
そして私は、地方の、比較的簡単な国公立大学に合格したのでした。
私は国公立の二次試験の前期日程を、現役のときに一校(ほぼ記念受験)、浪人のときに一校(A判定だったので十分かな、と)受けました。私学は受けていないので、私が受けた大学個別試験はこの二つだけです。
決して難関などではありませんが、そもそも私の高校から国公立大学など、学年で10人も受からなかったんです。私はその中で、ビリの成績だった人間なのです。
それは、かなり控えめに言っても、親教師親戚など、誰1人予想していなかった、超ウルトラスーパーミラクルでした。
4
大学受験編、最後は勉強の話ではありません。
勉強頑張ると、こんな良いこともあるっていう話です。
最後の配達の仕事を終え、荷物をまとめて、実家へと凱旋帰郷する準備が整いました。
あまり差別的なことは言いたくありませんが(そもそも自分自身がそこで働いていたわけだし)、新聞販売所って、けっこう給料が安い仕事なせいか、危ない感じの人や、とんでもなく頭が悪い人、とか、それから外国人の人などが居ます。
まあ、たまたま私の周辺がそうだっただけかもしれませんし、あの時代だったからこそなのかもしれません。私自体が元ヤンだったわけですし。
その新聞販売所で、新聞奨学生が大学に合格したのは10年振りくらいだったそうです。色んな人がいましたが、最後はみんなで祝ってくれました。
そして、都会で過ごす最後の夜、私は電車に乗って新宿に向かいました。
なんと東京の有名私立大学に進学していたYちゃんが、合格のお祝いに、食事に付き合ってくれたのです。
あのYちゃんです。高校のアイドルで、私が理転したきっかけであり、結局は大学を目指すことになって、思いっきり踏み外していた人生を、修正するきっかけになったYちゃんと、なんと新宿でデート(?)することになったのです。
有頂天の夜でした。
料理のうまいことうまいこと。まだ19でしたが、ちゃっかりワインも頼んじゃって。
店員さんと
「もしかして、ソムリエさんですか?」
「ソムリエも兼ねております」
「すげー! ソムリエって実在するんだ!」
とかいうアホ丸出しのテンションでした。
私は、ひたすら、この底辺オブ底辺からのチャレンジを成功させたことについての、自慢話をし続けました。
Yちゃんは笑ってきいてくれていたと思います。Yちゃんは髪を栗色にして、いっそうキレイになっていました。
料理の中に、なんだかよく分からないものが入っていて
「なんだこれ?」
「オリーブよ」
という会話をしたのを覚えています。
楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。駅に戻る道で、会話の詳細は覚えていないのですが、たぶん、私がポロッと、この一年間どれだけ過酷で、どれだけ孤独で、どれだけ不安だったのか、本当は辛くて仕方がなかったというようなことを言ってしまった記憶があります。
食事してる間は基本的に「おれ様にとっては余裕だったぜー!」的な話をし続けていたのですが。
そしたら、Yちゃんが頭をナデナデしてくれました。ヨシヨシしてもらったんです。
そのとき、私は全てが報われた、という気持ちになりました。
「おれ、これからも頑張って、どんどん凄くなっていくから! そしたらまたこうやって、頭ナデナデしてくれる?」
Yちゃんは静かに微笑んでいました。
駅で別れ、帰りの電車の中、酔った頭でぼーっとしながら、大都会の最後の夜景を満ち足りた気持ちで眺めるながら帰りました。
夜景と重なるように、色んなことが思い出されてきました。
学校から脱走しまくっていた高校生活。
Yちゃんたちと行ったカラオケ。
Yちゃんに告白したこと。
Yちゃんと同じクラスになろうとして、大学受験を宣言し、理転したこと。
Yちゃんと雪の降る中を、相合傘で歩いたこと。
バス停にYちゃん達が来てくれたこと。
ひたすら新聞を配ったこの1年間。
ついさっきまでの夢のような時間。
私は自分の人生の中で、何かが終わったと思いました。
さようなら。
さようなら。
さようなら。
丸谷才一「笹まくら」から文章をパクらせていただくとこういう感じです。
それが何に対する、どれほど決定的な別れなのか、若者にはまだ分かる筈もなかった。
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