普通の人の音楽遍歴 第五回 ヘッド博士の世界塔保存会
「ベレー帽とカメラと引用」05号掲載の「普通の人の音楽遍歴」第五回を一部カットしつつ公開いたします。
note用に編集したショート・ヴァージョンです。
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2021年7月に発売されたファンジン「Forever Doctor Head's World Tower」で有名なヘッド博士の世界塔保存会さん、厳密にいうなら中の人であるトオルa.k.a. スケルさんの音楽遍歴をお伺いしました。
「FAKE」や「前略 小沢健二様」で元ネタ解説を書かれていた方でもあります。
――お生まれは何年でしょうか?
1970年の9月です。
――場所は東京ですか?
はい、東京の世田谷区です。
――イメージとしては「世田谷区=裕福」と感じられますが、そのあたりはいかがでしょう。
そこは祖父と祖母が老後のために建てた家でして、私が生まれた翌年に父が亡くなったので、その家に母と兄と自分も住むようになりました。
――幼少期の音楽体験で最も古い時期となると、どんなものがありますか。
はっきりした音楽体験として印象深いのはYMOからですね。これは兄に無理やり買わされたのがきっかけです。
――聴いてみて、どうでしたか。
「テクノポリス」冒頭の「TOKIO」を聴いて「これはロボットの声だ!」と思いました。
「ライディーン」は間奏でピュンピュンした音が入っていて。
――当時のインベーダーゲーム風のやつですね。
そうです、UFOのイメージとか、自分で弾いていないような、自動でコンピューターが演奏している感じとか、音楽うんぬんより「未来」的な雰囲気にやられました。
――おそらく砂原良徳さんと近い時期でしょうね。全国各地でそういう少年少女が同時に目覚めているというか。
もう一つはRCサクセションなんですよ。
ちょうど「い・け・な・いルージュマジック」がヒットして、TVでキスしているのを見て「これはいけないものだ、危ないものだ」とドキドキした。
YMOと同じで忌野清志郎もお化粧してましたし。そういう興味で、これも兄の影響です。
――高校くらいになると、いかがでしたか?
渡辺美里を知ってそこからEPICレーベルのアーティストが好きになり、TMネットワークやバービーボーイズとかを聴くようになりました。ブルーハーツやボウイとかも。米米クラブも好きだったな。
――それは86.87年ごろの普通の高校生の趣味というか、並行してどれもこれも聴いてるのは珍しいですね。
米米クラブはキッド・クレオール&ココナッツが元になっていたりするので、基礎がちゃんとしているんですよ。
――名前もトムトムクラブから来ていたり、ジェームス小野田もジェームス・ブラウン風の登場をしたり、洋楽的な背景があるんですよね。
解散の時のライブも一曲目でいきなり「さようなら~!」って引っ込んで、また出てきては「さようなら~!」っていうアンコールの繰り返しで、そういうのも面白かったです。
――カールスモーキー石井による、ひとり芝居コーナーもありましたね。
ライブの面白さといえば、フィル・コリンズも楽しかったです。
母親と兄と自分とで一緒に行って、その時のステージはカタコトの日本語で話していましたよ。
あと、ライブならプリンスの初来日もすごい印象に残ってます。
――ステージが紫で、ベッドが置いてある時のでしょうか。
僕が観たのは「パレード・ツアー」でしたが、妖しい感じはありましたね。でもメドレーのように歌って楽器弾いて踊ってという感じで、ジェームス・ブラウンのショーってこんなのかなと思いながら見てました。
――当時のプリンスに対する世間の反応は「気持ち悪い」が普通でしたよね。
マドンナ、マイケル・ジャクソンは普通に好かれてたけど、あの声がちょっと受け入れられていないようでした。すぐ脱いじゃうし。
――プリンスが好きなら岡村靖幸も?
岡村靖幸を知ったきっかけは渡辺美里に曲を提供していたことでしたけど、プリンスが好きだというのは一発でわかりましたよね。
もちろん歌詞にも驚きました。渡辺美里やブルーハーツを聴くようになったのは歌詞が思春期に刺さるような内容だったせいもありますが、岡村靖幸はもっとストレートな男子高校生が妄想するような生々しさというか下世話さがあって。
それをポップスやバラードにしてしまうんですから、今でも画期的だったと思いますね。
――そうすると洋楽も邦楽も、ほとんど分け隔てなく聴いているという流れみたいですね。
初めて読んだ音楽雑誌が「ミュージック・ライフ」だったせいか、聞く音楽のジャンルのこだわりがあまりなくて。
美形なら何でも載せる雑誌だったので、ラットとかLAメタルも紹介していて聴いてみたらメロディが良いとか、そんな感じであれこれ聴いていました。
あと、イギリス専門の特派員がいてこれからの注目枠みたいな感じでヒットチャート以外のものも紹介していたので、ウォーターボーイズ、スミス、アズテックカメラ、プリファブスプラウトなんかも聴いていました。
――その頃はYMOが「散開」してる頃ですね。
ええ、相変わらず兄が坂本龍一を追っていて、自分もソロは聴いていました。当時は細野さんの存在がよく分からなかったです。
――私もYMOの後のソロは、特に細野さんは難解に思えました。そもそもYMOは誰が中心に立つというような、立ち位置や上下関係がなさそうで、そこが大人っぽい印象でした。
細野さんのトロピカル三部作や、はっぴいえんどを聴いたのはそれより後ですね。
文庫本になってから「THE ENDLESS TALKING」を読んで、ようやくすごさがわかるようになりました。
音楽だけでなく、仏教や民俗学などいろんなことからヒントを得ているんだと。
――さっき「ドラえもん」が好きだったという話が出ましたが、その後は漫画も読まれていましたか?
子供の頃の夢は「漫画家になりたい」だったので、ハウツー本やGペンを買ってもらったこともありましたが、ドラえもん以外は絵が上達しなくてすぐに諦めました。
――我々くらいの世代だと十代がちょうど「週刊少年ジャンプ」が売れている時期なので、そっちは読まれているのかと思いましたが。
「Dr.スランプ」や「北斗の拳」が流行りましたけど、ちゃんと読まなかったですね。
そういえば「ブラック・エンジェルズ」は好きでした。
――それは珍しい好みですね。隠れて悪事を働く犯罪者を暗殺する主人公がいて、「松田」とか「麗羅」が出てくる漫画です(それしか覚えていません)。中三の時にずば抜けて勉強のできる子がいて、なぜかその子が大ファンでした。
どちらかというと気弱な性格だったので、普段人のよさそうな主人公が暗殺者になる設定にひかれたのかな。
漫画は大人になってからの方が読んでますね。手塚治虫の「ばるぼら」や「人間昆虫記」とかを知ったり、友人の女性の勧めで萩尾望都の「11人いる!」とか山岸涼子の「日出処の天子」とかが好きになったり。
――漫画以外の趣味はどうですか? 本や映画は。
本は大学生の頃に村上春樹が好きなりましたが、読んだのは「ねじまき鳥クロニカル」まででしたね。
中高生の頃は共通の趣味の友人があまりいなくて。運動神経が鈍くて部活に入ってなかったせいもありますが、学校の校風にちょっと馴染めない面がありまして……。
父方の祖父が成城大学の近代国文学の名誉教授で、父もいとこも同じ学校だったので、母親の勧めで自分も中学受験で成城学園に入学しました。
その流れに乗って、中高一貫でエスカレーター式に進んでいったんです。
――それは楽といえば楽ですが、いざとなると出ようにも出にくい状況ですね。
大学に進むときに経済学部だと同じ雰囲気がそのまま続きそうだったので、行きたくないと思って、国文学の方に進みました。
――それで脱出にはある程度、成功されたんですね。タイミングとしてはその頃にフリッパーズ・ギターに出会いそうですが。
FGを知ったのは大学に入って、通っていた黎紅堂でバイトするようになった頃です。
二つぐらい年上の男の先輩がいて、「これはいいぞ」とFGを聴かせてくれたんですよ。
――1stから聴かれていたんですか?
1stが入荷された時で「ビートルズみたいで、すごく良いポップスだ!」と興奮してたんですね。
すると先輩が「これはネオアコだ、アノラックだ、モノクロームセットやオレンジジュースだ」と教えてくれました。
――それはもう的確に、これ以上ないほど分かっている人だったんですね。
先輩はロリポップソニックのライブにも行かれていたようで「この人たちは、自分たちとそれほど年齢が変わらないぜ」とも言っていました。
――それは羨ましい。そういう理想的な先輩がいてくれたら有難いですよね。その頃はもうお兄さんからの音楽の影響はなかったのですか?
兄は流行りものの音楽しか聴かないようになってました。
のちに兄が結婚した当時の彼女さんがFG好きで、「ヘッド博士」のライブも付き合いで行ったらしく、会場で兄にばったり会ったんですが、あとで「どうだった?」と聞いたら一言「ひどいな」と。
YMOやフィル・コリンズのライブと比べたらそういう感想になってしまうのも仕方ないですけど。
――では、その頃はご自身の好きな音楽を追及していった感じなんですね。
大学で音楽研究会に入ったのですが、先輩たちは自分が聞いたことのないパンクやノイズのマイナーな音楽を聴いていて。それに刺激を受けて先輩たちにもいろいろと教わりました。
音楽研究会は部室があるかわりに季刊誌を発行する義務があったので「BEATNICK」という機関紙雑誌を年四回出していました。
――その後、92-94年頃になると、後の「渋谷系」周辺の音楽が少しずつ盛り上がっていきますが、その辺りはいかがでしょう。
自分はアシッドジャズ方面に興味が移ったので、その頃のたとえばブリット・ポップ的な音楽はあまり知らないです。ブラーとかオアシスとか。
「渋谷系」といわれる音楽で好きだったのはオリジナルラヴ、ピチカート・ファイヴ、ラブタンバリンズ辺りです。
聞いてて背景が見えない音楽、洋楽をベースにしていないものにはあまり興味が持てなかったです。
FGも彼らがやっていた音楽はもとより、彼らが好きな音楽を知って自分の音楽趣味が広がったことが画期的だったので。
――その後、就職の時期になるといかがですか。
母親が堅い仕事についてくれという意見だったので、音楽系は受けない、やらないという方向で……。
すみやとヴァージンメガストアの面接は受けて内定をもらっていたんですが、結局は母の縁故で印刷機材の会社に入りました。
印刷用のフィルム等を売る仕事で、給料が良いのでそのお金を音楽に割き、週末はクラブDJとしてレギュラーイベントをしていました。
――就職すると、いったんは音楽から離れるケースが多いと思っていましたが、うまいこと両立できていたんですね。
フリーソウルの盛り上がりがあって、自分はブラジル音楽が好きでした。
ファンキー・ソウルに近いジョルジュ・ベンやウィルソン・シモナールとか、そのあたりです。
ブラジル音楽というとその頃はサンバが流行っていたのですが、ソウルやファンクに比べるとサンバは速いテンポなので、ファンキーなブラジル音楽ならうまくつなげられるというのが自分の個性で、それで他のDJとか違うことができたんです。ブラジル音楽のほかにも、オールジャンルのネタを掘るようになりました。
――そういったDJ稼業を維持するためには、結構な費用がかかるのではないでしょうか。
ブラジル音楽は高額でしたが、ロックや最近人気のシティポップなどの和モノはまだ安かったので。
――なるほど、それなら正業と副業と、どっちも好調でいいですね。
ただ、印刷機材会社は一年で辞めてしまいました。あまりにも興味がもてない仕事で……。
その後は編集プロダクションに入って、ぜんぜん知らなかった街づくりや国際協力とか、そういう話題をまとめた政府広報誌を作るようになりました。
――まったく畑違いのジャンルですね。
勉強しないとできないので、仕方なくやっているうちに詳しくなって、またそこから移ります。
宣伝・広告専門の出版社が環境問題の雑誌を新しく出すからということで、そっちに採用されました。
広告分野でも環境をテーマにしたものが出てきたので、それで出版したいということだったのです。
またそこから次は企業広報誌の制作会社に移って。その頃は企業の環境報告書を制作していて、「次のトレンドはこれだ!」といった企業向けのレポートの作成や、セミナーの講師とかもやってました。
――お堅い内容みたいですがそのお仕事に加えて、DJを並行して続けていた?
はい、編集者といってもクライアントが上場企業なので始業は9時で格好はスーツでした。
そのまんまの格好でベレー帽だけ被ってDJをしたこともありましたよ。
独身でお酒も飲まないので、給料が入れば相変わらずレコードばっかり買って、漫画を全巻まとめ買いしたり、服や雑貨を買ったり。買い物でストレスを発散していたんですね。
ただ両方ともだんだん行き詰って……。仕事の方は次第にライバルが企業のコンサルや会計事務所になってきて、向こうはもともと専門で英語もできるのですが、こっちは本を読んでいる程度のしょせん付け焼刃にすぎないので。
DJの方もネットの普及もあって情報量が増え、新譜の12インチが一週間後には旧譜になるような目まぐるしさで追いつけなくなって。とうとう過労で体を壊してしまい、四年くらい休職して、DJもやめてしまいました。
――いろいろな人の話を聞いていますと、そのあたりで一度くらいは、人生の不調期が来るみたいですね。
やっと復帰できるようになって、今できる仕事は何かなと考えていまして。
結婚もしたので、とりあえず、お金にするために所持している大量のレコードを売ろうと決めました。
それで、某ショップに持って行ったら「こんなに良いレコードを持っているなら、いっそウチで働きませんか?」と誘われたんですよ。
思えば、人生で一番、CDやレコードを買ったショップだし、それもいいかなと思って、中古盤の査定をするようになったんです。
――それで現在に至るということですね。最近はどういった音楽を聴かれていますか。
サブスクでいろいろ聴けるようになったので、ブラジルとかアルゼンチンとか、そっち方面の音楽が多いですね。
日本では折坂悠太です。彼はレディオヘッドが好きだという話ですが、そういう音楽には聞こえない。
レディオヘッドの音づくりを自分の中で消化して自分だったらどんなことができるんだろうかと考えているのかもしれま
せんが、出てくるメロディ、リズム、言葉の載せ方、どれも独特で、出自がわからないところがおもしろいです。
――影響を受けたDJはいますか?
小林径さんです。彼の「(DJにとって大切なのは)どんな曲を回したかではなくてどのように回したか」という言葉は、自分がDJをやるうえで座右の銘です。
DJをしたときに「あの曲をかけてくれて嬉しかった」と言わるより、単純に一言「楽しくてずっと踊ってた」と言ってもらえるのが、自分としては一番うれしい感想ですね。
政府広報誌や企業広報誌の編集者だったせいか、「趣味でDJをやっている」とクライアントに言うと驚かれることもあったんですが、自分のなかではつながっていて。
どっちも「編集力」がモノを言うものだと思っています。先ほどの質問で答え忘れましたが何度も読んだ本なら、松岡正剛さんの「知の編集工学」ですね。
――編集といえば7月に出されたファンジン「Forever Doctor Head's World Tower」が好評ですが、苦労された面などはありましたか。
20数ページほどでしたが、執筆者にも取材協力者にも恵まれ、優秀な編集協力スタッフもデザイナーもいたので、そこは贅沢でした。
そこは良いのですが、ただ作って売れば済むものではなかったというか……、発送作業が大変で、そこはちょっと舐めてましたね。
――よく分かります。一日に数十部の封入、宛名書き、発送という状態が一週間ほど続くだけでも単純作業が結構きつい。
それでも自分たちの記憶を今後の若い世代に継いでいきたいという気持ちがあるので、四十周年、五十周年記念の時のベースになれば嬉しいですね。
――「今後にバトンを」という気持ちは私も同じですが、何となく「大丈夫かな?」という気もしますね。渋谷系的な音楽を受け継いでいるのはアイドルやアニソンが多かったりしますし。
同世代の人たちでアイドルやとアニソンを聞く人は多いですね。私はアイドルもアニソンもハイトーンの声は聞いててきつくて……。
――アイドルやアニソンは歌詞の意味がはっきり伝わってくるという意味では図抜けていると思いますが、長時間ずっと聴けるか? というと難しいですね。
高い声は苦手ですね。あと聞いているのは結局「渋谷系おじさん」で、作り手が受け継いでも聞き手は受け継がれていないような気もします。
ファンジンを買ってくれた人が20年後、30年後におばあちゃんやおじいちゃんになった時に、遊びに来た孫が本棚からファンジンを見つけて「この点々の本、なぁに?」と訊いて、「あぁ、わたしが若いころにフリッパーズ・ギターというバンドがいてね……」と、孫を膝に抱いてCDをかけながら昔話をしてくれたら、本望ですね。
――本日は長時間ありがとうございました。
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このインタビューの完全版は「ベレー帽とカメラと引用」05号に掲載しております。
このインタビューの第一回分もnoteで公開しております。
あわせてお読みください。
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