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よりぬきベレー帽日記 0525-0531

0525

「よりぬき」の編集作業は、脱線や事例を把握してから枝葉をカットすればよいと分かってきた。03号の内容をほとんど忘れているので、ビクビクしながら読み直すと、そこそこ内容が充実しており、それなりに工夫して書いていたとを思い出した。気持ちが前向きになる。


0526

03号の講義と05号のその続きが長いので、あちこちカットしながら読み返す。「われら」から「僕ら」「僕たち」に移っていく文章など、すっかり忘れていたので新鮮に感じられる。他人の眼を意識しながら書いた文章さえ忘れているのだから、普段の言動など8割以上は忘れているのではないだろうか。


「削ってしまったら勿体ない」という意識がなくなって「削ってすっきりできた!やった!」という満足感、達成感、充実感が勝ってきた。


0527

「光のオタク」「闇のオタク」という言い方を知った。自分もつい「批評」「意見」「感想」「記録」のつもりで、単につまらない悪口を書いていることがあるので、やはり本にまとめる際にはカットする。


先日、某さんが紹介していた1990年の「フールズ・メイト」を手に入れた。
「ヘッド博士」どころか「恋とマシンガン」すらこの世にない段階のインタビューで、フレンズ・アゲインの広告はサマになっているし、ロンドン・レコーディングの話も出ているが、世間に受け入れられていない感じ、やや拗ねているような雰囲気が実に素晴らしい。


「FOOL’S MATE」1990年2.3月合併号



数年後にこの二人のうちの片方が紅白に出るとは、この時点からは全く想像もできない。もう片方は2024年の今、ワールドツアーで世界を周っている。


「FOOL’S MATE」1990年2.3月合併号


「暮れも正月もないよ」という発言は、私もインタビューしていて同じことを思った(「レクチャー」のP.111あたり)。



「よりぬき」に関して「立派な文章は書けませんが、雑談と小ネタならこの一冊!!」というキャッチフレーズが浮かんだ。どこでこんなことに気づいたのか、自分でもわからないような話が結構ある。



0528

「平家物語」は「威張っている平家」の段階から始まるので、その前の上昇期が「保元物語」「平治物語」になる。「ゴッドファーザー」の前日譚が「PART2」で描かれるようなもので、後からそっちを読みたくなってきた。


自分の書いた文章の編集作業が意外としんどいので、頭がまったく動かなくなってくる。本を作っているとたまにそういう時がある。その後、文章を削ったり、書き足したり、修正したりするうちに、また愉快になってくる。最初や最後や中間部をバッサリ削ぎ落すと気持ちいい。文章を削った時に感じる「良くなった」という喜びは何ものにも代えがたい。貯めたお金を使うより贅沢に思えるし、満足感があり、気持ちがよい。


0529

話題になっている新書「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」にフリッパーズ・ギターへの言及があると知って、ちょっと読んでみると、おじさん世代に受ける知識として「フリッパーズ・ギター」が例に出ているのだった。若者がたまたま知っていたら就職面接で有利になったとか、それなら業界にもよるがブルーハーツや尾崎豊の方がずっと安全牌ではないか。


夜12時過ぎに編集作業がほぼ終わり、印刷会社に原稿を出す期日は30日の夕方が〆切。あとは目次の数字を入れるのみ。ページ数は本文が228ページ、表紙を加えると232ページで過去最長になった。それでも厚さは「レクチャー」「発言集成」と同じくらいになるはず。



0530

また少し修正して、読みやすさのために行間を空ける。本文が230ページで表紙と裏表紙で+4ページ、合計で234ページになった。文字数がおよそ14万字で、前半は記事の再録が14本、後半は日記とメルマガに書いた小文という構成。印刷会社に出して、およそ3週間後くらいに印刷完了の予定。


「もう間違いなんてないだろうな」「なくて当然」と決めつけながら目次のチェックをしていたら、仮に入れておいた数字をそのままにしてあった箇所を発見して驚く。こういう凡ミスが見つかると、厄除けになったような気になり、ホッとする面もある。


01号を読み直していて、参考にできるような「引用論」がないので困っていたのを思い出した。

「何かを引用している創作物に触れた時の独特の感じ」

は、幼少期からずっと経験しているように思われたので、怪獣やキャンディーズの「微笑みがえし」に至ったのだった。これよりもっと遡ると、フリッパーズ・ギターとは関係がなくなってしまう。

漠然と「引用」で書籍を調べると、川端康成や源氏物語の研究くらいしか見つからない。もっと総合的で、体系的で、しかも経験的に納得できるような文章を誰かに書いてほしい……、と願っても出てこないので、少しでも自力で書くしかない。


古川日出男の「平家物語」の巻末に、後白河天皇について書かれていた。それによると清盛や義仲、義経など主要人物は途中出場で途中退場するばかりで、本当の主人公は後白河ではないか、とのこと。これは確かに筋が通っている。当時は主人公という概念をきっちり守ろうという意識はないはずだから「語り継がれて足したり引いたりされて、その場その場のメインの人物がいる」というのが本当のところだろう。後白河は今様狂いで歌ってばかりいて、多くの歌詞を編纂して「梁塵秘抄」をまとめた人なので、これほどユニークな人はいない。


「レクチャー&インタビューズ」が完成して以降、「カメラ・トーク」のロンドン・レコーディングに関する理解が深まったので、6月6日の前後にそのあたりをまとめてnoteに書きたい。


*この日記はだいたい一週間後に公開します。


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