紲星あかり萌 怪談

 これは、たぶん5歳の頃の記憶。
 父親からあの頃はあーだったこーだった等のいろいろの話を聞くがほとんどどれもピンのこない。
 しかし、今から話す思い出は今でもはっきり覚えている。
 
 その日は幼稚園が午前保育のみで午後はお家で過ごしていた。前日からお昼頃まで降り続いていた雨もあがり、午後は曇天のモヤモヤとした空模様だった。
 当時の私のトレンドは幼稚園の男の子たちから教えてもらったピカピカの泥団子の作成だったので、雨の上がった直後の公園に遊びに行きたくて仕方がなかった。
「おかーさん、あかりね、公園に行ってきてもいい?」
「ダメよ。お洋服汚れちゃうでしょ?ゲーム買ってあげたんだからそっちで遊びなさい。お洗濯するのだって大変なんだから、うんぬんかんぬん…」
 ぐちぐちお小言を言われた私はふてくされてリビングのソファと壁の隙間にすっぽり入って隠れた。
「ママね、これから出かけてくるけど大人しくおうちで遊んでいてね」
 母親に禁止されていたからもあるのだろう、私は泥遊びに向かう欲望を抑えられなかった。結局、母親の居ない間に長靴を用意して公園に向かった。

 当時の私の行きつけの公園は、住んでいる団地の裏の猫の額ほどの公園だった。背の高い木々が複数あったのでジメジメとしており、また水はけも悪かったため、曇天の当日は泥の宝庫だった。
 私はお洋服に泥ははねることをいとわず、泥だまりに手を突っ込んで泥を団子状にしていった。
 そしてそれから泥団子の一個目を整形し終え、乾燥させるために日当たりの良い砂場に置いた。
 さあ次だ、と意気込んでまた泥だまりに戻り再び泥に突っ込むと、何かに手が当たった。
 泥の冷たさとは別の冷たさのあるゴムのような感触だった。
 当時の私は野生児ような心を持った児童だったため、興味津々に、すわ蛙かミミズかと嬉々としてそれをまさぐった。
 冷たい何かは、明確に生き物のように、その身を動かしていた。
 ずっとそれに触っているとカエルでもミミズでもないほど大きいことがわかってきた。
 手だ。
 人の手。
 すべすべとした細い指が私の小さな手を包み込むように握り込んできた。
 ひんやりきもちいい。
 柔らかな優しいその手に一瞬悦に入っていたが、人の手であることの異常性に気づき、溺れているならば、とそれを引っ張り上げようと踏ん張る。
 しかしそれは拍子抜けするほど軽く、私は背中からひっくり返ってしまった。
 私の手には泥だけが握られているだけだった。 
 もう一度、泥に手を突っ込む。助けなきゃ、と忙しなく泥をかきまわすと、またあの手が私の手を包み込んできた。
 私がそれを握り返し、また引っ張り上げようとする前に、もう一つの手が私の手の甲に触れてきた。
 そしてそれから、私を愛しむように、手の甲を優しく撫でた。
 ひんやりと冷たい手からじんわりと暖かさを感じた。
 私が力をこめて握り返していた手の力を抜くと、優しく手の甲にぽん、ぽんとあやすように撫でたのち、その手は離れて消えていった。
 「待って!」
 私はもう一度泥をかき回すと硬い地面の感覚がするだけだった。しかも、泥に浸かっているのは手首にも届かないほどだけだった。
 さっきまでの出来事が嘘のように、その泥沼はただの水たまりほどの浅さになっていた。
 それでも、私の洋服には肘のあたりまで泥に浸かったように泥だらけであった。

 そしてそれから私はとぼとぼと帰路についた。
 母親からの言いつけである「留守番」と「泥遊びの禁止」を破ったからだ。その上背中も腕も足も泥まみれだった。
 ビクビクしながら玄関に立って母親を呼んだ。
「おかーさーん」
 どこにいっていたのよ、と母親が怒気を孕んだ声で玄関の廊下まで出てきて私を見ると、彼女は大笑いしてお風呂場まで連れていって洗い流してくれた。
 あの日は母親の機嫌が良くて助かった。
 後にも先にも彼女の笑い顔を見たのはあれだけだった。

 その後すぐに家を引っ越したため、もうあの公園には二度と行けなかった。
 16歳になった今でも、私は雨が上がると水たまりを見ては思い出す。
 あんなに優しくされたのは初めてだった。
 私の温かい思い出として、この話を聞いてほしい。


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