樹上の猫は消えたのか?Did the cat on the tree disappear?

『猫を棄てる』(村上春樹著)が一冊の本になりました。一冊の本になる前から文藝春秋の誌上で読んでいました。今回一冊の本になり再読しました。一人の読者としても、いろいろと考えさせられました。それを書くことが「感想文」になればと思います。何といってもタイトルです。自他ともに認める猫好きの村上さんが「棄てる」のです。そして「父親」について語るのです。これまでも村上さんのお父さまについては、村上さんのスピーチやコメントやエッセイなどで知ることができました。そのうえで、この本を読むことは、単純な興味本位というより、作家の背景を知ることで作品の理解を深めたいと願う、読者の性(サガ)のようなものです。読後感を一言でいえば「静かな感動」であり、猫に樹上から音もなく見つめられている感じでした。同時代に生きる日本人として読んでよかったです。村上さんのお父さまについて知るにつれ、なぜだか自分の父を思いました。父も村上さんのお父さまと同じ世代で、同じように国立大学を出て、戦争に行って、生きて帰って来て、教師(数学ですが)をして、20年以上前に亡くなりました。私は父の戦争体験を詳しく知りません。外地に行かなかった、理不尽に上官に殴られ鼓膜が破れた(亡くなるまで補聴器が欠かせませんでした)、戦闘機のパイロットに無線を教えた、そういうことくらいでしょうか。父の語ったすべてが本当のことなのかどうか。今となっては検証の術はありません。もっと父に聞いておけばよかったかな、と思わないこともありませんが、父は語ってくれなかったでしょう。この本を読むと、普段感じることのない世代間の繋がりというか、血縁を超えた意識の流れというか、深くてゆっくり流れる歴史、時間を感じます。それは、ときには絶対零度のような残酷さであり、ときには一匹の猫の温もりかもしれません。どちらにしても、そのとき生きていた人間の生の声が聞こえてくるようでした。きっと私はその声に「静かな感動」を覚えたのです。そのとき生きた一人の日本人(村上さんのお父さま)を丹念に掘り下げていくことが、結果的に村上作品のルーツを浮き彫りにする、と同時に当時の日本という国の姿を切り取っている、と感じました(誤解を恐れずにいえば、つまり「カキフライについて語ること」的な感じです)。さらに(ここがこの本の開かれたテキストとしての魅力でもあるわけですが)これからの日本について、一人一人が意識的に、主体的に「私は、この国をどうしたいのか? そして、この国でどう生きるのか?」と考えなければならない、私たちは今そういう時代に生きているのかもしれない、とも気づかされました。そう考える、よいきっかけになった一冊でした。素晴らしい本を、ありがとうございました。村上さん、次回作も期待しています。

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